破滅の時間まで

第1話

 昔、近所に七子だか七恵だか、そんな感じの名前の女の子が住んでいた。僕と彼女はいわゆる幼なじみの関係だった。それだけでもありがちなのに、さらにありがちなことに、僕はその女の子に恋をしていた。初恋である。もうテンプレート通りの展開。そしてもちろん、初恋は実らないものである。
 彼女がどんな女の子だったのか、正直言ってあまり覚えていない。ただ、その年頃の子供というのは一般的に女子の方が早熟で、僕は彼女のそういう大人びた部分に惹かれていた、ような気がする。
 彼女は僕を引っ張って、町内のあちこちに連れて行ってくれた。最初の出会いは、引っ込み思案だった僕に少しでも友達を作ろうという両親が、知り合いの娘である彼女を僕と引き合わせたのである。僕は両親の言われるがまま彼女と友達になり、彼女は僕にとって一番の友達になった。
 一番印象に残っている光景は、家から少し歩いた場所にある神社だった。神社の境内が僕と彼女の遊び場だった。と言っても二人きりで遊んでいるのではなくて、いつも彼女がどこからか別の友達を連れてきて遊んでいた。いつも僕と一緒にいたような気がするけれど、彼女は彼女で別の交友関係を持っていたのだ。当時の僕の友達は、みんな彼女の友達でもあった。彼女が僕の交友関係のすべてであり、社会と繋がるための唯一の扉だった。今思えば、当時の僕が何に煩わされることなくのびのびと暮らすことができたのは、コミュニケーション強者である彼女の庇護があったおかげなのだろう。
 そんなわけで、僕は彼女に対して非常に大きな恩義があるし、それと同時に彼女に対して憧れに近い恋心を持っていたのである。
 もちろん、初恋は実らないもの。
 その七海だか七穂だかいう女の子は、僕が小学四年生のときに死んでしまったのである。僕と彼女をとりまくほとんどすべてのピースがありがちで退屈ななものだっただけに、今にして思えば彼女との別れのエピソードだけが劇的で悲劇的で――まるで、現実感がない。
 彼女の顔は忘れても、彼女と最後に会ったあの日のことは、今でも鮮明に思い出すことができる。
 季節は夏。あの日の夕焼けは、僕の目に焼き付く強烈な橙だった。
 その日、僕と彼女はいつものように神社で遊んで、夕方になったので一緒に帰った。彼女が連れてきた何人かの友人に手を振って別れを告げる。僕と彼女の二人で、夕焼けの道を歩いて帰った。
 明日から夏休みだった。しかし夏休みだと言っても、友達のいない僕にはやることがない。だからその日は僕にとっては何の感動もない、いつもと同じ一日だった。
 だけど彼女の方は違ったらしい、妙にうきうきとしていて、いつもより饒舌に僕に話しかけてくれる。彼女の機嫌が良いのは良いことだ。いつものように下手なことを言って機嫌を損ねてはいけないと、僕は笑顔を作って彼女の話に頷いていた。
 彼女が明日から、しばらく家族で海外旅行に出かけることを自慢げに僕に語った。僕はその国の名前を聞いたことがなかった。お土産は何がいいかと彼女が聞くので、僕は木刀が欲しいと答えた。昔、僕が家族と旅行に行ったとき、土産物屋にあった木刀が欲しくてたまらなかったのに、それは危ないからと母さんは買ってくれなかったのだ。
 変なものが欲しいのねと彼女は笑った。もしかしたら、海外のお店に木刀は売っていないかもしれない、と彼女は言うと、僕はムキになって、絶対に売っている! と主張した。彼女はからかいながら、適当に僕のことをあしらった。
 帰り道の途中で僕たちは別れた。彼女は彼女の家に。僕は僕の家に。その日の彼女の後ろ姿が強烈に焼き付いていて、しばらく彼女のことばかりを考え続けた。
 夏休みの終わりに、僕は彼女が死んだことを母さんから知らされた。彼女と別れたあの日の七日後に、旅行先の事故で亡くなったらしい。
 葬式には家族みんなで参加した。彼女の母親が静かに泣いていて、それを父親が必死になだめているのを僕は見た。
 ぐちゃぐちゃになってしまった彼女の死体は葬式に参加できなかった。主役が不在のお葬式がどこか滑稽なものに思えてならなかった。
 僕は泣かなかった。彼女が死んだことはショックだったけれど――しかしそれよりも重大で戦慄すべきことに、僕の頭はいっぱいになっていたのだ。お坊さんがお経を読み上げている最中も、僕はずっとあることが頭から離れなかった。
 別れ際の彼女の姿を思い出す。
 その頭上に、視線を動かす。
 彼女の頭の上には、白いアラビア数字で「7」の文字が浮かんでいたのだ。
 ――僕は最初、その数字の意味が分からなかった。二年後、僕のおばあちゃんが病気で入院したときに、僕はその数字が何を意味しているのかを知ることになった。
 人工呼吸器に繋がれたおばあちゃんの上には「5」の文字が浮かんでいた。おばあちゃん以外にも、病室には数字の浮かんでいる患者さんが何人かいた。僕は毎日病院にお見舞いに行った。母さんは僕のことを優しい子供だと思ったみたいだけれど、実際は全く違う。僕は単に、自分が見ている白い数字の正体を検証したかっただけなのだ。
 数字が「1」になっている患者は、次の日にはいなくなっていた。僕のおばあちゃんも例外ではなかった。僕は病室で、意識を失い全身を病に冒されたおばあちゃんが死ぬ瞬間を見た。「1」の数字が消えて、おばあちゃんは死んでしまった。いつもはあんなに鈍感そうな父さんがおばあちゃんの死を見て目を赤くしていた。僕は、死んで数字の消えたおばあちゃんにはもう興味がなくなって、他の病室を見に行きたいと思っていた。
 僕が見ているのは人の死なのだ。カウントが「0」になった瞬間、その人は死ぬ。病気か事故か自殺か、理由は分からないけれど、とにかくその人は死ぬ。
 自分が見ているのが人の寿命だと分かっても、僕は何も変わらなかった。それは少し、僕自身にとっても意外だったけれど、僕はそのルールをあっさりと受け入れてしまったのだ。どうして僕が人の寿命を見ることができるのかというと、それはそういうものだから、仕方がないのだ。それが世界のルールなのである。


***

 悪夢が消えて、僕は目を覚ました。
 目を開けて部屋の中に視線を走らせる。カーテンの向こうからかすかに朝日が覗いていた。体を動かして、ベッドの脇に置いていた目覚まし時計を確認すると、目覚ましが鳴る十分前だった。僕はタイマーを解除して、目覚まし時計を枕の脇に放置した。
 僕はそれからしばらく枕に顔を埋めて時間を過ごした。耳を澄ますと下のリビングからテレビの音が聞こえてきた。隣の部屋のドアが開く音がした。妹の祐理が階段を下りていく足音がそれに続いた。祐理が起きたということは、僕もそろそろ下に降りなければならない。
 僕はベッドから這い出してカーテンを開けた。数秒でまぶしさに目が馴れる。今日も僕は平均的な中学生として中学校に通わなければならない。確かに僕は人の死を見ることができるが、そんな能力は平均的な中学生の生活においては何の役にも立たないのだ。
 本当に、憂鬱だ。
 今日こそ学校をサボってやろうかと考えて、結局のところ僕にはそんな勇気も行動力もないことを思い知るのだ。僕は窓から沢渡家の庭を見下ろした。このあたりでは珍しくもない、小さな庭の付いた一戸建て。まあ、今時一戸建てというのはそれなりにすごいのだろうけど、それが僕のステータスとなるわけもなく。
 窓に触れると、七月のぬるい朝の空気をガラス越しに指に感じた。僕は窓を開けて室内の淀んだ熱気を外に排出する。本当はエアコンをつけたかったけれど、どうせ僕はもうすぐ学校に行かなければならない。学校のことをもう一度考えて、僕はうんざりして窓を閉めた。
 沢渡家の二階には三つの部屋があって、うち二つを僕と祐理が、残りのひとつが物置になっていた。僕は階段を下りて廊下に出る。リビングからお母さんと妹が話している声が聞こえた。朝食の準備はできているようだったけど、僕は食事よりもトイレを優先した。
 トイレに入り、用を足して、手を洗う。トイレから出たところで、リビングから出てきた妹と廊下ですれ違った。
 僕と祐理は朝の挨拶もしなければ目も合わせなかった。実際の妹なんてこんなものだ。僕たちの仲が特別に悪いわけではなくて、単にお互いに愛想が悪いだけなのだ。
「あ……」
 僕が声を漏らすと、祐理は怪訝な顔で僕を見た。しかしその程度の疑問では僕と会話をかわすことすら面倒なのか、祐理は何も言わずに行ってしまった。
 トイレに入る祐理の背中を見ながら、僕は凍り付いている。
 背中に冷や汗が出た。
 半分寝ぼけていたのが、妹を見て一気に覚醒する。
 妹の頭上に「7」の文字が浮かんでいたのだ。
 僕は慌ててリビングに駆け込んだ。テレビを見ていた父さんと、冷蔵庫を開けていた母さんが同時に僕のことを見た。
「ねえ、祐理って――」
「なあに、朝からいきなり」
「おお、拓也。今日は朝なのに元気だな」
 母さんは微笑んで、父さんは驚いて、僕のことを見る。
 僕はリビングから一歩後ずさる。心臓が締め付けられるみたいに痛かった。
 動揺する僕のことを不思議そうに見つめる二人の頭上にも「7」の文字が浮かんでいたのだ。
 しばらく固まっていると、トイレを済ませた祐理が立ち尽くす僕の隣を邪魔そうに通り過ぎた。テーブルについて、朝食を再開しようとする。こんがり焼けたトーストが半分ほど残っていた。ティーカップの中はオレンジジュースだろう。みんなはコーヒーを飲んでいるけれど、祐理は未だにコーヒーが苦手なのだ。
「お兄ちゃん、どうしたの? 朝ご飯食べないの?」
「……いや、何でもない」
 僕は声を絞り出した。歩き方を忘れてしまったので、手と足を意識して動かした。リビングのエアコンが室温を大きく下げている。テーブルにつくと、気のせいかもしれないけれど、僕の冷や汗もいくぶんか落ち着いたような気がした。
「はい。パンよりも、ご飯の方が良かった?」
 母さんは僕の前に、トーストの乗った皿を出した。いつも思うのだけれど母さんはトーストを焼きすぎだ。僕はトーストの黒く焦げた部分が嫌いなんだ。そして母さんの頭上には「7」の表示が。父さんも「7」、妹も「7」。家族全員が席に着くと、「7」が三つ並んで実に縁起が良い光景になった。だけどその数字が意味することは縁起ではなくて死そのものなのだ。
 僕の内心の動揺と混乱には気がつかずに――というか、僕が故意に気づかせないようにしているから当たり前なのだけど、僕以外の沢渡家の人々はいつもと同じように朝食を食べ、テレビに齧り付き、無邪気に笑い合っていた。
「……ねえ、父さん。近々、みんなで旅行に行く予定とか、ない?」
「なに? 行きたいのか?」
「学校あんじゃん」
 そんなことに気がつかないお兄ちゃんって馬鹿だね、という意味を言外に含んで見下すように祐理が言った。僕はそれを無視して「ないならいい……」と答える。その言葉は自分でもぞっとするほど覇気がなくて、家族に何か気取られやしないかと不安になったのだが、しかし冷静に考えてみれば普段の僕もそれくらいは覇気がなくてぞっとするような人間なのだった。畜生。
 僕は味の薄いトーストを食べ終えてから、トーストにジャムもバターも付けていなかったことに気づいた。祐理がそれを指摘して馬鹿にする。母さんは笑う。父さんは出勤の時間なので家を出る。祐理も着替えるために部屋に戻った。僕は砂糖のたっぷり入った馬鹿みたいに熱いコーヒーを手の中で持て余していた。
 母さんに急かされて僕も二階に上がって服を着替えた。ほとんど自動的に鞄を手に取ると、祐理に続いて家を出た。
 玄関を出ると、向かいの家に住んでいる永森さんのおばさんがじょうろで花壇に水をやっていた。永森さんの家とはずいぶん昔からの付き合いだけど、おばさんはずっと昔から今のようにふくよかな体格だったと思う。おばさんは僕に気がつくと破顔して大きな声を出した。
「あら! 拓也くん、今から学校?」
「ええ、まあ」
「たまにはうちにいらっしゃいよ! で、拓也くんからも準に言ってやってよ」
「あはは……そうですね」
 僕は社交辞令と愛想笑いを返す。準というのは永森家の長男で、高校を出た後は定職にも就かずにふらふらと遊び歩いている放蕩息子(おばさん談)だ。おばさんは準さんを就職させようとことあるごとに小言を言っているらしいが、準さんは準さんで遊び歩くのに忙しいらしく、就職なんてしている場合じゃない、とのこと。
 おばさんは僕と準さんが仲の良い兄弟のような関係だと思っているみたいだけど、実際のところは昔何度か遊んだ程度で、僕も準さんもお互いに友情を抱いてはいなかった。なにせ当時の僕は七子だか七恵だかの彼女が唯一の友達だったのだ。ちなみに僕はここ一年ほど準さんの姿を見たことすらない。
 それでもおばさんは僕と準さんの友情を信じて疑わないらしい。大人はいつもそうだ。僕たちのことなんて何も見ていないし、何も気づいていない。僕たちの演じる良い子供像を盲目的に信じているだけだ。
 それはともかく、陽気に花壇に水をやる永森のおばさんの頭上にも、やはり白いアラビア数字「7」が浮かんでいるのであった。
「おばさん、念のため聞くけど、近々うちの人と一緒にどこか旅行に行く予定はない?」
「旅行? いいわねー。行くなら温泉がいいわあ。うちの人も温泉好きだしねえ」
 聞きたいことは聞けたので、具体的な旅行先の選定を始めたおばさんに別れを告げて僕はいつもの通学路を歩き始めた。
 さて……これはどういうことだろう。
「これはどういうことだろう」
 言葉にして呟いてみた。通学路を歩いている同じ中学の制服を着た女子生徒に聞かれてしまったらしく、顔を引き攣らせて僕から一歩離れて歩いた。まあいい。名前も顔も知らない人間に気持ち悪がられたところで僕は痛くも痒くもない。何せ名前も顔も知っている人間から僕はさんざん酷い目に遭わされているのだ。
 思考を戻す。
 今朝見たものが真実ならば、僕の家族三人のカウントダウンが始まってしまった。カウントの残りは「7」。ということは、妹と両親は七日後に死ぬ運命にある。
 例えばそれが、祐理だけとか父さんだけとか母さんだけというのならまだ分かる。人間いつかは死ぬのだし、その「いつか」が七日後だったとしても不思議ではない。が、家族三人が同時に七日後に死ぬというのはどういうことだろう。
 僕が真っ先に考えたのは、三人が一緒にどこかへ旅行に行って、その道すがら、あるいは旅行先で何かの事故に遭って死ぬという可能性だ。だけどその確率はあまり高くなさそうに思う。何せ永森のおばさんのカウントも「7」なのだ。永森のおばさんのカウントと僕の家族のカウントが無関係ならば、同じように七日後に死ぬというのは偶然にしては出来過ぎている。
 そして、僕の家族のカウントと永森のおばさんのカウントが無関係ではない根拠がもうひとつ出てきた。
 今、僕から少し離れた場所を歩いている女子中学生の頭上にも、同じく「7」のカウントが浮かんでいるのである。それどころではない、さっきから歩道を走り抜けていく自転車通学の何人かの頭上にも「7」が浮かんでいるし、学生どころか商店街のおっちゃん、近所を散歩するじいさん、犬を散歩させている若いお姉さんの頭上にも等しく「7」の数字が浮かんでいたのである。
 僕は絶句した。という表現は、最初から口をつぐんでいる人間にも使えるのだろうか。
 とにかく今や街中の人間が七日後には死ぬ運命にあるのだ。いや、冷静に観察してみると、カウントが浮かんでいない人も大勢いて、割合としては死ぬ人間の三倍以上はいるかもしれない。だとしてもこれだけ大勢の人間が同時に七日後に死ぬというのは異常事態であることに変わりないだろう。
 僕の家がある建園(たてぞの)の住宅街を少し北に行けば入り組んだ商店街がある。それが僕たちの通学路になっていた。戦後の闇市が原型の伊美原商店街は、狭い曲がりくねった路地の左右にびっしりと小さな店が建ち並んでる。商店街と呼ぶには少し狭すぎるし、ただの商業地区と切り捨ててしまうにはその光景は少し異常だった。
 しかし伊美原町のこうした風景が、全国的に見てかなり特殊なものであることに気がついたのはごく最近だった。僕は生まれも育ちも伊美原の人間であり、この汚らしく薄っぺらい迷路のような商店街が僕にとっては当たり前の景色なのである。
 家から徒歩で二十分ほど歩くと、僕が毎日通わされている小塚中学校がある。今朝は家を出るのが少し遅かったので、校門前には体育の教師が立って、いつまでも途切れることのない生徒たちの行列を急かし立てていた。そして生徒たちの頭上に輝くいくつかの「7」。体育教師の頭上に数字はなかったようで、その点に関しては残念至極。僕はいつも威張り散らしているあの体育教師が大嫌いだった。
 僕は体育教師に申しわけ程度の挨拶を返して校門を抜けると、すぐに校舎には入らずに登校してくる中学生の諸君をしばらく観察していた。
 やはり何人かの生徒はカウントダウンが始まっている。カウントダウンはその人の残された時間を知らせてはくれるが死因を教えてはくれない。
 あの人たちの死因は何だろうと僕は思った。
 カウントのある人とカウントのない人の共通点を探そうとしたけれど、しいて挙げれば建園のあたりに家がある生徒は比較的高い割合でカウントダウンが始まっている……ような気がしないでもない。その共通点にしたって、例外が多すぎて本当に信用していいものかどうか。
 それにしても、これだけの人数の死者が出るなんて、きっと大惨事になるんだろうなあ、と僕は他人事のように思った。何か大きな災害が起きるのかもしれないし、致死性のウィルスが大流行して一斉に死んでしまうのかもしれない。
 ポイントは、今のところカウントダウンが始まっていない人たちが、明日どうなっているか、ということだろう。僕の経験では、カウントは残りの寿命が七日を切らなければ始まらない。
 明日、今はまだカウントが始まっていない人たちの頭上にも「7」が浮かぶ可能性を考えると、まだまだ被害は大きくなりそうだ。
 僕はそのときの光景を想像して身震いした。きっとすごい地獄絵図だろう。僕がその大災害に巻き込まれないように、七日以内にこの町を出るべきだろうか。
 学校の時計が朝のホームルームの始まる時間に近づいていた。僕は考えるのをやめて、慌てて玄関に駆け込んだ。
 下駄箱で靴を履き替えようと思ったら内履きがなかった。想定の範囲内だったので、スニーカーを脱ぐと下駄箱に入れて、僕は靴下のまま玄関の簀の子から校内に上がった。玄関の近くにあるゴミ箱の中を覗くと、そこに僕の内履きが放り込まれていた。
 僕が腕を突っ込んで内履きを取ろうとすると、屈んだ僕の頭にボールが飛んできた。避けられるはずもなく、ボールは僕の頭に命中した。見ると、ボールを投げた藤倉や後藤や小野沢がニヤニヤと僕のことを見ていた。
「おいどうしたんだよ。今日は遅いじゃねえか」
 藤倉が言った。後藤と小野沢が僕の隣に来て、僕の両腕を掴む。
「内履き、ゴミ箱の中にあるのか?」白々しく藤倉が言う。「取れよ。口で!」
 藤倉が僕の後頭部を押した。ゴミ箱の中に突っ込まれる。僕は必死に暴れたけれど、両腕をしっかりと掴まれていて動けない。ただでさえあいつらは背が高くて力が強い。いつも体育の授業に泣かされてる僕なんかじゃ敵うはずもなく。
 僕は頭からゴミ箱の中に入れられた。二人が手を離したので、僕の体はバランスを崩してゴミ箱ごと廊下に倒れた。三人がゲラゲラ笑っているのが聞こえる。こうなると、何をしようと無駄な抵抗になる。僕は逆らわずに、ゴミ箱に上半身を入れたままじっとしていた。生臭い匂いが不愉快だったが、我慢我慢。
 そういう僕の態度が気に食わないのか、三人のうちの誰かが僕の尻を蹴った。思わず悲鳴が出て体を反らすと、また三人が大笑いした。僕は極力何も考えないようにして、でもゴミ箱の匂いが不快だ。耳も、あいつらの声が不快だ。呪い殺してやろうと思った。我慢した、僕には人を呪う力なんてない。僕にあるのは人にかけられた呪いを見る力だけだ。
 三人の声がしなくなっても、僕はしばらく廊下に倒れてじっとしていた。立ち去った振りをして、僕が起き上がるのを待っているかもしれなかったからだ。
 予鈴が鳴って、そろそろいいだろうと僕は起き上がった。ゴミ箱から僕の内履きを見つける。廊下を通りかかった別のクラスの教師が、ゴミの散らかった廊下を見て、ちゃんと掃除しておくようにと僕に言った。僕は腹が立ったけど、何か言ってまた叱られるのが嫌だったので大人しくゴミを片付けた。
 教室に入るとみんなが一斉に僕のことを見た。藤倉や後藤や小野沢は薄ら笑いを浮かべていたけれど、それ以外のみんなはすぐに先生の方へ視線を戻した。僕のことには興味がないのだ。担任の井坪先生は、ベルが鳴る前にちゃんと席に着きなさいと僕の遅刻を注意した。僕は軽く頭を下げて、すみませんと言ってから自分の席に座った。
 鞄から教科書を取り出して、机の中に入れようとして、僕は机の中にくしゃくしゃに丸めた不要紙やらティッシュやらが詰め込まれていることに気がついた。僕は机の中に入れられていた物を掻き出して、代わりに教科書を入れる。中に入っていたゴミを床に捨てようとしたところ、井坪先生に見つかって怒られたので、僕は床に落ちたゴミを拾って教室の後ろにあるゴミ箱まで持って行った。藤倉たちが笑っているのが聞こえた。それ以外のみんなは僕のことを見もしなかった。 
 それでも――ゴミを捨てて、自分の席に戻ったとき、僕は笑みがこぼれそうになった。慌てて無表情を作ったけれど、目ざとい藤倉たちは僕のことを不思議そうに見ていた。
 僕は笑いそうになるのを堪えていた。藤倉たちの表情が、あまりにも無知で笑えたのだ。
 藤倉と後藤と小野沢の頭上でも、しっかりとカウントダウンが始まっていたのだ。


***

 授業中は楽で良い。少なくとも教師の目のある場所では殴られたり蹴られたりすることはないから。とは言え、授業から離れてぼんやりと思索に耽ることは許されない。しっかりと授業のノートを取らなければ、後で藤倉たちに何と言われるかわかったものではない。
 あいつらはこの程度のレベルの授業も僕に頼らなければやっていけないんだ。低脳無能馬鹿ばかり。人間としてのレベルは最低値。ほとんど動物と同じだ。あいつらは動物園で暮らすのがお似合いだと思う。集団の中にヒエラルキーを敷き、他人を暴力で支配する野蛮人。僕みたいなまともな人間が、あいつらみたいな凶暴な獣とまともに戦う必要なんてない。まともに戦うということは僕とあいつらが同レベルであることを認めることになる。犬に噛まれたからと言って犬と喧嘩するか? 喧嘩とか戦いというのは同じレベルの相手に仕掛けるものであって、僕よりも遥かに低級の彼らと同じ土俵に立ってやる必要などない。
 それにしても、それにしても、ああ愉快だ。
 僕は思わずノートを取る手を止めて、内からこみ上げる愉悦に小さく震えていた。
 あいつらはどんな死に方をするのだろうか。なるべくむごたらしく死んでくれると嬉しいんだけど。その他大勢の人たちと同じように、何かの災害に巻き込まれて殺されるのだろうか。ああ、愉快、愉快。その愉快を思えばこそ、多少の屈辱なら我慢してやれるというものだ。
 僕は七日後に訪れる死の坩堝を想像した。可哀相な三人以外にも、クラスの中にはカウントダウンが始まっているやつが何人かいた。その姿に、登校中に見てきた人たちの姿を加えて、頭の中で殺してみた。彼らが死んだとき、自分がどう思うか試してみたくなったのだ。
 死んでいく人たちの中には僕の家族の姿もあった。まあ、僕だって人間だから、家族に対して情のようなものがないわけではない。僕の方から家族のことを積極的に殺そうとは思わないけれど、でも死んでしまうというのなら仕方がない。
 ……でも、父さんと母さんが死んだら、その後僕はどうなってしまうんだろう。どうなってしまうんだろう、の中身は、つまり金銭的なことだ。僕は孤児になるのか。今までのように小遣いをもらったりできなくなるだろうし、家族が全滅するとなれば、どこかの施設に預けられることになるだろう。
 そうなったときの種々の手続きや揉め事を予想して、僕はそれだけでもうげんなりしてしまう。そういう事務的なこととか、社会的な決まり事とか、僕は大嫌いなのだ。おばあちゃんが死んだときもそうだった。おばあちゃんの葬式に集まった縁者の人たちに頭を下げる。説教を受ける。慰めを受ける。葬式が終わる頃には、僕は疲労とストレスで死人のようになっていた。もしかしたら、そのとき僕の頭上には「1」の数字が浮かんでいたかもしれない。なんて出来の悪い冗談を思いついたけれど、生憎それを披露する相手に心当たりがなかった。
 僕と家族の間には明らかに隔たりがあった。けれど没交渉というわけではなくて、第三者からは何も分からない程度には仲の良い家族を演じていた。妹は僕のことを汚らしい恥ずべき存在としか思っていないし、母さんはボランティアだか地域活動だかのことで頭がいっぱい、父さんは家のことは面倒なので何もかも見て見ないふり。
 妹は僕が学校でどんな目に遭っているのか気づいている。だからこそ、自分の方にとばっちりが来ないように僕とは距離を取り、僕のことを軽蔑している。お母さんは気づくはずがない。まさかうちの子に限って……というやつだ。大人はいつも子供のことなんか見ていないか、目を逸らしている。お父さんは薄々僕の問題に気がついているみたいだけど、あの人は絶対に自分から踏み込んできたりはしない。基本的に面倒くさがりで自分本位だからだ。可能なら家にすら帰りたくないと思っているかもしれない。
 そして、僕以外の三人は、とても仲が良い。僕が疎外感を感じるほどには仲が良いし、僕のことを揃って腫れ物に触るみたいに扱うくらいには連帯感がある。
 実に素敵な家族だ。
 死んでしまうのは実に惜しい。
 でも、どうなんだろう。肉親が七日後に死ぬと分かっていて、それでも憎悪をたぎらせている僕は、一体何なのだろうか。僕の、感情とは切り離された部分が、僕のことを鬼と罵っている。人間らしい情をどこに置き忘れたのだ沢渡拓也。きっとそんなものは最初からなかった。最初から? それは本当か?
 浮かぶのは、少女の記憶。
 僕の意識が危うくトリップしかけたときに、僕の頭に小さな何かがぶつけられた。危うく授業のノートを取り逃すところで、僕は慌ててシャープペンを走らせた。
 が、小さな何かは続けざまに僕の体に飛んできた。跳ね返って机の上に落ちたものを手に取ると、それはどうやら消しゴムを指で小さくちぎったもののようだ。
 消しゴムが飛んでくる方を見ると、後藤がニヤニヤと笑いながら自分の消しゴムを爪で小さくばらしていた。藤倉と小野沢も、それぞれ自分がぶつける弾を用意していた。
 僕の意識が授業から遠く離れていることに気づいて、僕を授業に引き戻してくれた――ということは絶対になくて、単に授業が退屈で暇を潰したかったんだろう。何せ、テスト前は僕が取ったノートをコピーして回すだけだ。だとしたら授業中はさぞ退屈だろう。
 しかし彼らは僕に消しゴムをぶつけることがそんなに楽しいのだろうか。まあその程度の頭しかないのだろうな、と僕は諦めた。
 ペシペシと小さな弾丸が僕の体を叩いた。が、僕が抗議の声を上げても先生に「授業に集中しなさい」と叱られるのがオチだろう。だって、教師たちは「被害者」という言葉を知らないのだから。彼らの理屈で言えば、クラスメイトから消しゴムを投げられるような僕の方にも非があるということなのだ。さすが教師。
 僕は無反応を貫いてノートを取り続けた。今授業をしている早川先生は授業中に生徒のことを気にかけたりはしないし、同じ教室で机を並べているクラスメイトたちも被害者が僕である限りは知らぬ存ぜぬを通している。いつもの光景か、くらいにしか思っていないだろう。まあ、あいつらが藤倉たちに荷担する場合のことを考えれば無視されているだけの今の状況はそれほど悪くない。七日後と言わず、明日にでも死んでくれればいいのに、と僕はついつい思ってしまった。


***

 磁力に体を蝕まれるような不快な授業が終わり、気がつけば掃除の時間になっていた。生徒たちは班ごとに分れてそれぞれ担当の場所を掃除しなければならない。今週、僕たちの班は音楽室の掃除を割り当てられていた。
「おう。それじゃ、ちゃんと掃除しておけよ」
 教室で、同じ班の室生が僕の肩になれなれしく手を置いた。僕は返事をせず、精一杯無愛想にしてから教室を出て音楽室へ向かった。僕が教室を出てから、室生や藤倉たちが馬鹿笑いをしながら廊下に出るのを見た。あいつらはそのまま部活に行くのだろう。僕一人に掃除を押しつけるのは今に始まったことではないし、それを咎めるような空気は僕たちの教室にはない。
 「どうせ部活もせずに家でエロ本でも読んでるんだろ? だったら俺たちのために何かするのが友情ってもんだろ? な?」という奴らの言葉を思い出した。室生も藤倉も野球部でそれなりに幅を利かせている人間で、僕のような万年運動音痴とはヒエラルキーに天と地ほどの差がある。
 まったく馬鹿馬鹿しい話だ。
 僕は音楽室の床を箒で掃きながら同級生たちの知的レベルの心配をしていた。箒の後は雑巾がけもやらなければならない。音楽室の主であるあの老いた教師はいい加減な掃除を絶対に認めようとしない。その割に、たった一人で掃除をしている僕の理由に関しては笑えるほど無頓着なのである。結局のところ教師たちは誰もがただの公務員であり、自分の仕事さえ片付けばそれ以上のやっかいごとには首を突っ込みたくはない、機械のような小役人でしかないのだ。
 さてと……思考が中断してしまった。さっきまでの僕が何を考えていたのかを思い出すのに数秒を費やす。思考のバックトラック。思考は様々な場所で分岐するが、常に後戻りするのを忘れなければ、決して主題から外れることはない。僕が自分で見つけた思考のテクニックである。こうしなければ思考はレールを外れた車輪の如く、どこまでも際限なく暴走するだけであるし、それを恐れるあまり思考のスピードを緩めてしまえば、手の届く範囲があまりにも限られてしまう。
 バックトラック。
 はっきり言って、所属している部活動だとか、体育でどれだけ活躍しているだとか、そんなくだらないことで人間の価値を決めるのは大間違いだ。「人にはそれぞれ個性があり価値がある」なんて馬鹿な奇麗事を言っているのではなくて、運動能力なんてものは大した価値もないということだ。
 サッカーも、野球も、人が決めたルールだ。そのフィールドの中で優劣を競っているに過ぎず、グラウンドから一歩外に出ればすべての意味を失ってしまう。
 単純な身体能力とやらも、意味がない。早く走ることができる人間は、では、この社会でどの程度のアドバンテージを手にするのだろうか。現実には、オリンピックに出場する世界一足の速い男も、会場への移動は車を使うし、飛行機がなければ開催国へ行くこともできない。
 つまり、その程度の価値。まあ、商品価値としての身体能力は、否定しないけれど。
 音楽室の扉が開いたので、僕は驚いてそちらを見る。
 同じクラスの榎丸りくが立っていた。彼女の制服は、神経質なほどに校則を遵守し、乱れがなかった。同じクラスの女子たちは教師の目を盗んでスカートを短く折り曲げているのに、彼女のスカートだけが野暮ったいほど長いままだった。
 まるで定規のような、特徴のない制服の着こなしだったが、それでも、彼女の整った顔、切れ長のぞっとするほど美しい瞳、燃えるような赤い唇と白い肌の対比は、僕の心を無条件にかき乱してしまう。彼女の頭上でも、他の何人かの人たちと同じようにカウントダウンが始まっていた。
 榎丸は美人だった。
 顔もそうだが、雰囲気が、美しい。なんて、そんな気障なことを考える自分が嫌だった。まるで下心があるみたいで、不潔。
 榎丸はこのセカイとは隔絶しているみたいに無警戒な様子で音楽室に入ると、そのまま奥まで行って、ロッカーを開けて箒を取り出した。そしてそのまま、僕とは線対称の位置へ行って箒で床を掃いた。
 僕は問う。
「何やってんの……?」
 もっと強い調子で言えば良かったと、若干後悔した。榎丸は僕の方を見る。銀縁の飾り気のない眼鏡の奥で、彼女の瞳はカッターのように鋭く、美しかった。僕は目を逸らす。
「手伝う」
「は?」
「掃除」
「榎丸は別の班だろ」
「沢渡くん、掃除押しつけられて……」
「なんだよ!」
 その続きを言ってみろ。絶対に許さないぞ。
「掃除押しつけられて、可哀相だから」
 僕は箒を投げつけた。力一杯放った箒は、榎丸を大きく外し、音楽室の壁に叩き付けられる。僕は頭にカッと血が上った自分を自覚していた。
 榎丸は静かに僕を見ていた。僕のことを哀れだとか、可哀相だとか、そんな風に思っているのだろう。彼女の顔の下に何があるのか、僕には読み取れない。
「大きなお世話だよ! てめえ、何様のつもりだ!」
 僕は大声で怒鳴った。びくりと榎丸の体が震える。ここは音楽室だから、僕の声は廊下にまでは届かなかっただろう。怒鳴っている自分の裏側で、そんな冷静な打算が働いているのが不愉快だった。
「お前はそんなに偉いのか? 僕はお前から慰められなきゃいけないような惨めな人間か?」
「そういう意味じゃ……」
「だったら!」泣きそうになっていた。涙は生理現象だから、僕がどんなに強く念じたところで止まってはくれなかった。「放っておいてよ」
 僕をこれ以上惨めにしないでくれ。
 しばらく僕は泣いていたかもしれない。悲しかったのか、腹が立っていたのか、自分でもよく分からなかった。
 だけどしばらくして、榎丸が静かに音楽室から出て行ったのを確認して、僕はやっと落ち着くことができた。
 僕は袖で涙を拭うと、音楽室の掃除の続きを始めた。ただでさえひとりなのに、余計なイベントが起きたせいでずいぶんと時間が掛かっている。またあの音楽教師に嫌味を言われるのだろうなと思うと、僕は自分が限りなく惨めで不幸な存在に思えてきた。
 やめろ。そうやって悲劇のヒロインになろうとするのは。
 自分を悲劇のヒロインに見立てて悲しみに暮れるのは容易いけれど、それはただの自慰行為でしかない。それは分かっていたけれど、心が底冷えしているのを、僕はどうやって温めればいいのだろうか。
 音楽室の掃除が終わって、僕は音楽教師を呼びに行った。音楽教師はこの程度の掃除に時間をかけすぎている僕に嫌味を言ってから、僕に帰宅の許可を出した。僕は無表情で礼をする。音楽教師の頭上に浮かんでいるカウントが、僕を暗く慰めていた。


***

 僕はいつも一人で帰宅する。
 一緒に帰ろう、なんて言う酔狂な人はいない。何せ、大抵のやつは放課後は部活動に勤しむし、部活動に勤しまない帰宅部のやつらは塾に通うか、趣味に打ち込むかで、どちらにしろそれぞれの繋がりを持っていた。
 比較的僕に情けをかけようとする榎丸も、放課後は部活動があるので僕と一緒に帰宅しようとは言わない。クラスの委員長として僕を取り巻く問題には非常に強い関心を示しているようだけど、はっきり言って大きなお世話だし、榎丸にすべての問題が解決できるとは思えない。
 そう、榎丸は委員長キャラだった。彼女が僕に関わろうとする理由はそれだけであって、例えば一人で掃除をさせられているのが僕でなかったとしても彼女は掃除を手伝おうとしただろう。別に、そのことを残念とは思わないけど。
 榎丸の哀れんだ顔がフラッシュバックしてきて、僕は彼女を殴りたい衝動に駆られた。そんなことをしたら問題だし、榎丸を泣かせてしまうかもしれないし、何より今ここに彼女はいなかった。
 放課後、校舎やグラウンドで活動する生徒たちを横目に、僕は一人で帰宅する。鞄を取りに教室に戻ったときには教室には誰もいなかった。僕以外の帰宅部員はもうとっくに帰ってしまったらしい。掃除をひとりで押しつけられるような帰宅部員は僕ぐらいのものらしい。
 榎丸は少し変わったクラスメイトだった。浮いているというか、流されないというか。外部の影響をあまり受けない人だった。その割には、芯がしっかりしているし、頭も良いし、クラスの中での最低限の立ち振る舞い方を心得ているらしく、みんなからは一目を置かれる――とは言わないまでも、クラスのヒエラルキーの外部に位置するような、特殊な立場に置かれていた。と、僕の目には写っている。実際にそうなのかはわからない。まあとにかく、榎丸は僕の敵ではないかもしれないが、かと言って僕の味方ではない。
 結局のところ、榎丸が僕に関わろうとするのはただの自己満足でしかない。自慰行為、という言葉を、女の人に使うのは少し下品なのであまり気が進まないけれど。「自分を慰める行為」を略して自慰行為と呼んでいるだけなので、決して性的なニュアンスは含んでいない。
 まあ……榎丸は美人だし。体つきも、そう悪くない。男子にも人気だった。榎丸に告白して玉砕した大勢の男子の噂を僕も耳にしたことがあった。もちろん、僕はあんな馬鹿なやつらとは違うので、うっかり榎丸に惚れたりもしなかった。
 榎丸は僕のことを可哀相だと言った。見当違いと言わざるを得ない。本当に可哀相なのは、教室という狭くて無意味な場所で必死に権力争いを繰り広げている馬鹿な同級生たちなのだ。
 まあそんなことはどうでもいい。
 問題はカウントダウンだ。
 まあ問題というか、そのことで僕が何か行動を起こすわけではなくて。単なる解釈の問題だ。世の中の問題の半分はどう解釈するかという問いである。断言してみた。
 さて、この街に一体何が起きようとしているのだろう。
 たくさんの人が、同時に死ぬのだ。しかも、街を歩いていると、カウントが始まっているのは僕のような子供の割合が多かった。
 夕方の伊美原商店街は、商売の声や買い物をする主婦、帰宅中に寄り道をする学生たちで混沌とした様相を呈していた。いつものことだ。狭い通路を自転車で無理に通り抜けようとする人がいるのもいつもの光景で、それにぶつかったおばちゃんが通りに響く大声で文句を言う様も同じだった。
 頭上に浮かぶいくつかのカウントだけが、僕にとっての大きな違和感。
 僕は真っ直ぐ家には帰らなかった。伊美原商店街と建園の間には岩衣橋という小さな橋がある。僕は橋を渡らずにその手前で曲がり、背の低い雑草の生えた堤防を川の流れに沿って歩き始めた。
 僕の右側には緩やかな川の流れがあり、僕の背中には死にかけみたいな橙の夕日があった。僕の前には背の高い影が橙に浮かび上がっていて、僕はそれを追いつめるように静かに歩く。考え事をするには絶好の場所だった。
 大勢の人たちのカウントが始まるような空前絶後の大災害がこの街に起きたとしても、僕にできることなんて何もない。大体、カウントダウンが始まってしまったのなら、僕にできる事なんてない。七日後に死ぬのだ。みんな。さようなら。
 まあ、だから何? って感じだが。
 そうですか、死ぬんですか。僕があいつらにそのことを教えてやる義理はないし、ましてや命を救うなんて。
 僕の家族まで死んでしまうのは少し残念だけど、それはあくまで僕の生活とかが家族の死によって大きく変わってしまうからであり、僕の母さんや父さんや祐理のパーソナルな部分に思い入れがあるわけではない。
 あの人たちは家族だから一緒に住んでいるのであって、別に好きであの家に生まれたわけじゃない。こういう考え方は、格好悪くてあまり好きではないけど。
「悩んでいるな少年!」
 脈絡もなく誰かが叫んだ。僕はびっくしりしてその場でひっくり返ってしまった。と言葉にすれば簡単だが、実際には草を踏んで足がずるりと滑り、手をついて手首がずきりと痛み、尻をついて尾てい骨に衝撃、しかしブレーキが利かずに、僕は情けない格好で堤防の坂道をずるずると滑り落ちていった。
 僕の体が滑落するのを止めてくれたのは川のそばに立つ男の両足だった。僕が立ち上がろうとすると、その男の人は僕に手を貸してくれた。礼儀正しい僕はお礼を言いそうになったけど、僕がこんな痛い目にあった原因はこの男が突然声をかけてきたことにあると思い出して、すんでのところでお礼の言葉を罵倒の言葉に差し替えることに成功した。
「な、何するんだ」
 罵倒の言葉である。
 言葉に疎い人が聞けば、これをただの疑問の言葉と間違えてしまうだろうが、まごう事なき罵倒の言葉である。決して、その男の怪しすぎる風体を見て怖じ気づいたのではない。
「悩んでいたな少年!」
 過去形だった。
「考え事はしてたけど……」ちょっと待ってください。僕はどう答えるべきか? 「えっと、何の用?」
「ふふ、何の用、ときたか。きみは中学生だろう? だったら大人には敬意を払って敬語を使うべきだろう。おっと、そう恐縮することはないよ。大人だからと言って無条件に尊敬しなければならないわけではないからね。世の中を見たまえ、不祥事を起こした大企業の社長、権力争いに奔走する官僚、ビルを爆破したテロリスト、みーんな大人だ。子供のする悪さと言えば、せいぜい親を殺すとか妹を殺すとか同級生を殺すとか、その程度の物だろう。きみたち子供は誇っても良い、その凶悪性において、子供は大人よりもずっと健全なのだからね」
 早口にまくし立てる。
 その調子を聞いて、僕は彼のことを思い出した。
 夕闇に溶け込む真っ黒のスーツに、過剰にワックスを塗りたくったオールバックの髪、夕日よりもなお赤い原色のネクタイ。体はすらりと細身だったが、僕に差し出した手は思った以上に筋肉質で、力強かった。風向きが変わると、男からは柑橘系の香水の匂いがする。
 そうだ、この男、先週の休みの日に電車で会った、カウントが残り「3」のサラリーマン――。
「世の中の秩序というのは大人が作る物だ。だから大人が子供に教育するにあたって大人に敬意を払えと教育するのは至極当然のことなのだ。誰だって尊敬されたいからね。そして子供は思うわけだ、畜生、なんで俺たちはこんなクズな大人にへこへこしなきゃいけないんだ、みてろ、俺が大人になったときは子供たちにへこへこさせてやる……とまあこのようにして尊敬の再生産が行われるのだ。人はそれを秩序と呼び、道徳と崇める。別に正義じゃないのさ。神様がこの世界を見ていて、大人が偉くて子供が馬鹿だと決めつけたわけじゃない、何事にも例外がある。子供よりも馬鹿な大人がいる一方で大人よりも賢い子供がいるのだね、そういう例外を社会は想定できていないから……少なくとも今の私たちの社会は。例外をどれだけ許容できるかが社会の懐の深さを測るバロメータになるのなら、この社会は実に――」
 流れる滝のような演説が始まって、僕は走って男から逃げ出した。
 何だ何だあの変人は。
 一体何者だ。
 ああそれにしても息がつらい。心臓が痛い。これは運動不足だ。たしかに運動能力は人間の価値を決めないけれど、それにしたってもう少しくらいは動けても悪くはないだろうに。
 ああそれにしてもそれにしても。
 あの男、どうして今も生きているんだろう。
 先週は頭上にあったはずのカウントダウンが、今はもう彼の頭上には見当たらなかった。

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