破滅の時間まで

プロローグ

 品輪駅を出たばかりの普通列車に、スーツを着た男と中学生くらいの少年が並んで座っていた。
 先頭から三番目の車両だった。日曜日とはいえ、地方都市を細々と走るマイナーな路線である。二人の他に乗客は数えるほどしかいなかった。少年たちの正面にある窓からは、ときおり建物の隙間に太陽が覗き、そのたびに少年は眩しそうに目を細めていた。
「つまりだね、国家間の戦争というのは価値基準の奪い合いなんだよ。古くは宗教的な熱狂によって戦争が引き起こされたが、それはどちらの神が世界の中心であるか、を争う戦争だった。現代では神の代わりに、どちらの貨幣が世界を中心であるかを争っている。千年前から人類は何も変わっていないのさ」
 男がとうとうと語るのを少年は鬱陶しそうに聞いていた。少年は男の名前を知らなかった。少年と男が会ったのはつい数分前、男が品輪駅からこの電車に乗り込んだときである。男はがら空きの車両を一通り眺め、あろうことかわざわざ少年のすぐ隣に座ったのである。
 少年は最初、当たり前のように自分に話しかけてくる彼は自分の知り合いかもしれないと、彼の素性を思い出す努力をしていた。やがて彼が、初対面の人間にも気安く話しかけてくる変なおっさんであることに気がつくと、あらゆる努力を放棄して、とにかく男の話が終わるのを、嵐が過ぎるのを待つような心持ちで耐えていた。
 男は光を吸収する真っ黒なスーツと真っ白なシャツを着て、足は革靴で、髪は黒のオールバック。髪にはワックスがてかてかと光っていた。全身のほとんどをモノクロで統一していたが、唯一ネクタイだけが原色そのままの赤色だった。
「土地の奪い合いというのもそうだね。所詮は価値観の侵略であり、所詮は幻想だね。フランスの土地だろうとドイツの土地だろうとそれは人間が書類の上で決めたことに過ぎない。物質としての土や岩の性質が変化するわけじゃない」
 男の年齢は四〇前後。上品なスーツやピカピカの革靴からは、生活の匂いというものがほとんど感じられない。まるで映画の俳優のような浮ついた完璧さだけが、市民の生活の場である電車の中で妙に浮き上がっていた。
 一方の少年は、ぼろぼろのスニーカーに黒のナップサック、頭には英語の刺繍が入った帽子を被っている。体つきは小柄で、同世代の男子と比べると少し背が低い。どこか他人を軽蔑したような、あるいは自分のすべてを諦めたような目つきと表情で世界を眺めていた。
「愚かしいことだよ。神? そんなものがどこにいるというのだ。金? あんなもの、電子計算機に記録された0と1でしかない。しかし人はそういうものにすがらなければ生きていけない。人は幻想によって生かされて、幻想のために命を落とすのだ。ふふふ、愚かしいことよ」
 愚かしい、愚かしい、と男は繰り返して、喉を震わせて笑った。まるで少年に同意を求めているかのような口ぶりだったが、少年はちらりと男に視線を送っただけで肯定も否定もしなかった。
 それにもかかわらず男は自説の展開を続けた。世界の真理を啓蒙している自分自身に酔っているのであろう。たったひとりの観客である少年は何の関心も示していないのだが、演説というのはえてしてそのようなものである。
「しかしそれを言い始めれば社会というもの、それ自体が幻想なのだよ。人が生きるためには何が必要か? 水と、食料、あとは雨風をしのぐ場所……くらいかな。だとしたら、私たちの社会は一体何を作り出しているのかね? 第一次産業従事者以外の数万の人たちは、日夜ストレスに耐え、精神を削り、時間を切り売りし、一体何を生み出しているんだ? ――何も。彼らは無駄だ。保険を売ることでこの世界にどんな物質が生まれる? 銀行で金を数えることが、一体誰の腹を満たす? 政治家は? 音楽家は? 小説家は? くくく……この世界にはね、すべての人間を養っても余りあるほどの食料がある。それなのに人は死ぬ。餓死や、過労で。一体何なのだろうね。本当はとても簡単な話で、目の前にある食料を食べるだけで、人はみな生きていけるはずなのに。社会とは、人に食事をさせないための幻想なのか。私はそう思っているのさ――」
 男の語り口にはさらに熱がこもる。少年の方へぐっと体を寄せた。少年はそれを横目に見て男の無神経さに顔をしかめる。
 そのときちょうど、車内にアナウンスが流れた。くぐもった音声で、車掌が駅への到着を乗客に告げる。
「世界の大半の仕事は無意味で無駄だ。精神的にどうなのかは知らないが物質的にはまったく何も意味がない。では振り返って、私自身はどうだ? これまで無駄な生き方をしてきたのではないか? 社会という幻想の共有をやめたとして、では私にはどんな可能性が残されているのか。しかしそうは言っても人間は一人では生きていけない。けれど社会に飼い殺されるのもまっぴら御免、ということで、私はその妥協点を探ったわけだよ。わたしが社会に生存を許されている分だけ、私自身も、社会の維持と繁栄に貢献しようと思った。私にしては殊勝だろう? そこで私は閃いたのだが――」
 ブレーキの音が男の話を遮った。少年の体が慣性で引っ張られているときも、男の背筋は針金が入ったみたいに真っ直ぐだった。
 電車のドアが開く。少年は、男が演説を再開する前に席を立つ。この駅が少年の目的地だった。
 別れの挨拶もなく、少年は男の前を通り過ぎてドアに向かった。ドアの前で、少年は足を止めて男の方を向く。少年は初めて男に話しかけた。
「おじさん。僕の方からも、ひとつアドバイス」
「何かな」
「おじさん、三日後に死ぬよ」
 無感動に言って、少年は駅のホームに飛び降りた。

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