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白猫の構造解析


 目を開けた瞬間、あまりに頭が痛くて俺は体を丸めた。体が汗でびっしょりだ。息苦しい。嗅いだことのない匂い。これは何の匂いだろう。化粧品?
 俺は飛び起きた。体を動かす度に頭がズキズキと痛む。カーテンの閉じた薄暗い部屋だ。どこかのアパートの一室なのだろう、玄関とキッチン、それにリビングがひとつの空間にまとめられていた。床の上には本や、雑誌、飲みかけのペットボトルが落ちている。テーブルの上にはノートパソコンが半開きで置いてあった。あまり奇麗な部屋だとは言い難い。
 見たことのない部屋だ。俺の家ではない。俺の家はローンを組んで買った一戸建てだ。家には妻と高校生になる娘がいるはず。ここはどこなのだろう、と俺は辺りを見回した。
 ここに至って、俺は自分がワイシャツを着ていることに気がついた。ベッドの周りの散らかった中に、俺のネクタイとベルト、スーツの上着が落ちているのに気がついた。俺は慌ててそれを拾うと一気にカーテンを開けた。
 部屋の中に光が差し込む。頭がズキズキと痛む。何度見ても、この部屋に見覚えはない。誰の部屋だろうか。そして自分はどうしてこんな場所にいるのか。
 誰かの呻き声が聞こえて肝が冷えた。
 見ると、ついさっきまで俺が眠っていたベッドの上に、俺以外の人間がもうひとり眠っていた。布団がもぞもぞと動いて、中からそいつが出てきた。
「カーテン、閉めてよ」
 眩しそうに、俺の方へ掌を向けながら、女が言った。
 俺は言われたとおりにカーテンを閉める。彼女はそれで落ち着いたらしく、しばらくベッドの上で目を閉じてうつむいた。
 その間に俺は女のことを確認する。ジャージを着た二十代の女。肩まで届きそうな、金色に染めた髪の毛はひどい有様だ。寝顔はあまり美しいとは言えないが、化粧をしていない女の顔とはそういうものだ。
 たっぷりと時間をかけてから、女は本格的に覚醒する。
「……おはよう」
「あんた、誰だ?」
「何、それ」女は唇を尖らせる。「あなたこそ誰だよ。それにおはようと言われてその返事はどうなのさ」
「おはようございます」
 俺は渋々と挨拶をする。女は満足そうに頷いて、もそもそとベッドから這い出る。
「ちょっと待て。ここはどこだ」
「あたしの家。覚えてないの?」
 最悪だ、と俺は思った。
「その、もしかして、昨日は、その、俺たち――」
「ああ、安心して。あなたとあたしは何もなかったから。同じベッドで眠っただけだよ。残念だったね、千載一遇のチャンスだったのに」
 きひひひ、と下品に笑って、女はキッチンに面したドアを開けた。どうやらトイレらしい。
 どうしたものかと俺は途方に暮れていた。トイレから水の流れる音がして、女が出てきた。ジャージの下に手を入れて、腹部をポリポリと掻いていた。
「何か食べる?」
「……その、昨日の夜は」
 昨日の夜は、会社の飲み会があった。三次会まで行った記憶がある。三次会の席でワインボトルを開けて以降、自分が何をしていたのか、思い出せない。
「あなた、駅で倒れていたんだよ。それをあたしが拾って、ここまで連れてきた」
「なんで?」
「なんでって、別に理由なんかないよ」面倒くさそうに答えて、大きなあくびをした。「朝は食べない派?」
 俺は答えずに、スーツの上着から携帯電話を取り出した。何件も着信がある。確認すると、夜中に何度も家から電話がかかっていた。きっと妻だ。無断外泊なんてして、俺はなんと謝ればいいのだろうか。
 着信履歴を見ながら肩を落としていると、女はまったく気にする様子もなくフライパンを取り出してガスコンロにかけた。何を作るのかと見ていると、フライパンに食パンを入れて炙り始めた。
 何か料理を作るのかと思っていたら、少し焼き目が付いたところで食パンを皿に移した。冷蔵庫からマーガリンを取り出して、食パンに付けて食べる。キッチンに立ったままだ。そして食事を続けながら、フライパンを流し台に置いて水に浸けた。
「欲しいなら、あなたの分も作るよ」
 その所作をじっと見ていると女がそんなことを言ってきた。俺はかぶりを振る。ああそう、と女は言って、残り半分の食パンを一気に口に含んだ。冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。コップを使わずにパックから直接牛乳を飲む。
 そんなものを見ている場合ではない。
 俺にとっての一大事だ。
 最近はただでさえ家族との仲が疎遠になりつつある。妻とはしばらく事務的な会話しかしていないし、娘にしても、最近は夜が遅くてまともに顔を合わせていない。最近妻が、俺を蔑ろにしているのを肌で感じていた。この失点をどうやって挽回すればいいのだろうか。
 携帯電話の時刻を見ると、会社の始業時間が近づいている。家に帰る時間はない。このまま会社に行かざるを得ないだろう。
「あの、ここはどこなんです?」
「住所?」
「駅はどこにある?」
「んー、歩いて十五分くらいかかるかも」
 だとしたらそろそろ行かなければ。俺は身なりを整えて、女の私物に埋もれていた自分の鞄を掘り出すと、女に礼を言って部屋を出る。
「あのさ」外に出たところで女が言った。「あなたの名前は?」
「山内純一」
「あたしの名前、興味ない?」
 俺は片手を挙げて、女に別れを告げた。

***

 俺の仕事は医薬品メーカーの営業である。一応部長であり、社内の同期たちの中ではそれなりに出世して成功している部類に入る。大学時代に知り合った妻と結婚し、娘が生まれてからはもう、とにかく仕事と家族サービスに邁進し続けてきた。気がつけば俺は今年で四十代も半ばになっていた。
 会社にはなんとか遅刻しなかったものの、時間を見つけて携帯電話から家に連絡を入れたときの妻の対応はとても冷たいものだった。言葉に刺があったころはまだ良い方で、最近は俺のことなど無関心、すでに諦めている節がある。
 仕方ないだろう、俺にだって職場の付き合いがあるんだ、上司に言われたら断れないんだと言い訳を並べるが、「別に怒ってませんよ」と明らかに不機嫌な語調で冷たく返されるだけだった。
 その日の昼は、新製品の除菌スプレーのプレゼンのためにある大型量販店を訪問していた。
 帰り、運転手には先に会社に戻るように言って、俺は車を降りて一人で歩き始めた。駅前のビルで、妻や娘が気に入りそうなものを探す。しかしあの二人の好みなど分からない。ケーキのひとつでも買っていけばいいのだろうか。仕方がないので俺は、ブランド物のバッグと、和菓子の詰め合わせをカードで購入した。
 家族のご機嫌取りである。
 仕事と、家庭と、その両輪を守るのはとにかくしんどいものだ。今はとにかく耐えなければならないと、俺は自分に言い聞かせた。
 帰り道、全国にチェーン展開をしている某ファミレスの前を通った。特に意味があったわけではないが、俺は歩道からファミレスの店内をガラス越しにちらりと見る。
 今朝の女がいた。ぱっと見ただけでは分からなかったが、はて、あの女性をどこかで見たことがあるな、と考えていると、突如今朝の女の顔と一致した。彼女は化粧をしていて、髪の毛も、さらさらな上につやつやだった。なぜか相変わらず服は上下とも青のジャージだったが、朝の彼女とは、レベルで言えば幕下と大関くらいは違うだろうか。
 すぐに立ち去ろうと思ったのだが、不幸なことに彼女も瞬時に俺のことに気がついて、あろうことかこちらに向かって大きく手を振ってきた。
 俺は気づかないふりをして立ち去ろうとする。足早に歩き始める。
「あなた、偶然!」
 と大きな声がしたので振り返ると、ファミレスから彼女が飛び出してきてこちらに走ってきた。その後ろをファミレスの店員が追いかけてくる。一体何なんだ。何が起きているんだ。
 ぜえぜえと肩で息をしながら、俺の前に女が立った。
「二日酔いは直った?」
 そんなくだらない話題のために走ってきたのかお前は!
「あのー、すいません。お客さん、お会計……」
 気の毒なファミレス店員が、女の後ろで息を切らしていた。

***

「へー、それじゃあなた、おっきな会社の部長なんだね」
「まあ」
「金持ち?」
「……普通だよ」
「一戸建て?」
「ローンで」
「車は?」
「妻と二台」
「金持ちじゃん」
 ストローでメロンソーダをシャカシャカとかき混ぜながら女が言った。なぜかファミレスに引きずり込まれた俺。心なしか、店員が彼女のことをずっと見ているような気がする。食い逃げという誤解は解けたが、それでも未遂ということで、店員たちの警戒心を無駄に煽ってしまったのかもしれない。
「なあ、もう行っていいか? 俺は忙しいんだ」
「何で?」
「何でって、仕事があるんだよ」
「休めば?」
「休めないよ」
「何で? そんなにお金持ってるのに?」彼女は不思議そうに訊ねた。「ちょっとくらいサボってもいいんじゃないの?」
「そういうわけにはいかないんだよ。色々、その、人間関係とか、責任とか……色々あるんだよ」
「それじゃ、あなたは何のために働いているわけ?」
 俺は答えずに、成り行きで注文してしまったコーヒーを一口飲む。ここのコーヒーは実に薄っぺらい味だ。ファミレスなんてこんなものだろう。
 それは何、と俺が持っていた紙袋を指差した。中には妻と娘へのご機嫌取り。誤魔化そうと思っていたら、彼女は妙に紙袋にこだわってくる。仕方がないので素直に白状してしまった。
「へえ。奥さんと娘さんがいるんだ」
「ああ」
「えへへ。それじゃ、あたしと寝たりしたらヤバいんだね」
「何言ってんだ」
 不意に言われてどきりと心臓が跳ねる。平静を装おうとして、自分の唇が震えているのが分かった。しかし彼女には本当に他意などなかったらしい。グラスの中に残っていた氷を口に含むと、ガリガリポリポリと咀嚼し始めた。
「なあ、俺はもう行ってもいいだろ? 別に俺に用があるわけでもなさそうだし……」
「あんで?」
「そもそもお前はここで何やってるんだ?」
「人待ってんの」
「だったらなおさら俺はいない方がいいだろう」
「だって来るまで暇なんだもん」あは、と破顔する。「ねーねー、あたしが誰と会うか、気にならない?」
「ならない」
「あたしは気になるけどな」
「お前自身は誰と会うか知ってるだろ」
「そーじゃなくて、あたしがあなたなら、あたしが誰と会うか気になるって話」
「俺は気ならない」
「あのねー、担当さんと会うの」
 俺の言葉を無視して答えを疲労した。彼女はしばらく黙って俺の反応を伺っていたが、正直言って、それだけでは反応の仕様がない。
「担当? って、何だ? 中国のタン・トーさん?」
「ううん。ちょっと近い気がするけどぜんぜん違うかな。あたしの担当さん。編集者。名前は敷島さん」
「編集者?」
「あたし作家先生なの」
「嘘吐け」
「本当だっつの」
「漫画家?」
「小説家」
「ジャンルは?」
「すっげーエロいの。ドロドロのぐちゃぐちゃ。読むと二ページ目で勃起して、四ページ目で射精するよ」
「嘘くせえ」
「じゃあ賭けようか? 本当に担当が来るかどうか」
「……やめておく」
「なして?」
「別にどっちでもいい」
「どっちでもいいなら信じなよ」
 けらけらと笑って彼女は席を立った。ドリンクバーのコーナーに行き、メロンソーダと氷をグラスに入れて、また戻ってくる。ストローは使わずに、メロンソーダの半分ほどを一気に飲み干す。直後にゲップが出て、恥ずかしそうに口元を押さえると「失礼」と言った。
「あなたさー、良い大学を出て、良い会社に入って、良い奥さんと結婚して、良い役職に就いて、良い家を建てて良い娘さんができて、それでその体たらくなわけ?」
 何だって、と俺は聞き返した。
「いやだからさー、そんな風に家族の顔色伺って、会社じゃ付き合いでべろんべろんになるまで酔っぱらって、駅でぐてんぐてんになってるところをあたしに拾われて、二日酔いなのにそれでも会社に行かなくちゃいけなくて、お昼どきに友達とファミレスでお喋りする時間もないくらい忙しくて、それって何か意味あるの?」
「何か、って……。お前みたいな貧乏暮らしよりはマシだろ?」
「でもあなた、お金使っても全然楽しめてないじゃん。あたしは楽しいよー。月に一度ここでステーキ食べるのさ。高いから月に一度だけだよ。あたし金ないからさ、原稿料じゃどうにもなんないからバイトとかもしてるんだけど、まあそれなりに楽しいよ。怪我したり病気になったときは収入止まって死亡寸前まで行くけど、まあ、それも人生だしな」
 へっへっへ、と品のない笑い方をした。
 何が楽しめてない、だ。そんなに世の中甘くないんだ。じゃあ老後はどうする? もっと大きな怪我をしたらどうする? バイトで働けなくなったら? 今はそれで生きていけるかもしれないが、それじゃあ、十年後や二十年後はどうするっていうんだ。
 俺はそれを遠回しに説明した。俗に言う説教というやつだ。しかし彼女はあっけらかんとした顔で、
「そんときは死ぬかもしんないけど、まあ、それはそれでアリなんじゃない? というかあなた、人生が順風満帆すぎて辛いんじゃない? 人生のレールってあるじゃん。良い大学に入って、良い会社に就職して――ってやつ。あれね、気づいてない人もいるかもしんないけど、あんまりレールの上ばっか走ってると、今度は脱線するときに大事故になるんだよ。速度が出てるからね。そのうち目的地に着くために走ってるのか、脱線させないために走ってるのか、分からなくなったりしてね。あはは。山内さん、ちょっと成功しすぎたね」
 ご愁傷様、と彼女は手を合わせる。そのことが俺はひどく悲しくて、まるで見捨てられたみたいな気分になる。
 ふう、と彼女は溜め息を吐いた。
「成功するんならたまには失敗しておかないと、あとで取り返しの付かないことになるよ。あたしなんか失敗続きだかんね。高校は中退しちゃったし、結婚してたけど二年で離婚したし、子供は向こうに取られちゃったし。そういうままならないことはいっぱいあったけど、そういうのも面白いとおもうよ、あたしは。みんな失敗とか苦しいことを避けたがるけどね、あたしはそんなに嫌いじゃないよ。成功なんてたまにするくらいで十分なんだから。あなた、今とっても息苦しいでしょう?」
 その言葉に、俺は今日初めて、素直に彼女に頷いた。催眠術にかかったみたいに。まるで無意識に、頷いていた。俺の本心を確認して、彼女は満足そうだった。
 ファミレスに新しい客が入ってきた。そのスーツの男は、店内を見回すと、俺たちのテーブルに駆け寄ってくる。
「直理先生! すみません、遅れて」
「先生はやめろって言ってるだろ」少し真顔で彼女は担当に言った。「ほら、言ったとおり。ちゃんとあたし、小説家だっただろ?」

***

 彼女と会ったのはそれっきりだった。俺は彼女の名前も聞いていなかったのだ。数ヶ月後、ふと彼女のことを思い出して、あの日の記憶を頼りにあのアパートへ行ったことがある。その部屋はすでに空室になっていた。部屋の前を通りかかった近所の住人に話を聞くと、数日前にどこかへ引っ越したのだという。どうやら男性関係のトラブルで、警察沙汰にもなったらしい。三角関係の末に、男たちは別れろ別れないだのと大乱闘を繰り広げたのだという。
 あれ以降、俺は順調に人生のレールの上を走り続けていた。仕事と家庭の二つの車輪は速度は増すばかりで、ここまで加速してしまうともはやブレーキも脱線もできない状態である。
 いつか車軸が歪み、車輪が左右に吹っ飛んで、レールの上で派手に横転する日が来るのだろうか。日々速度を増す人生の中で、俺は少しだけ、そんな大事故を心待ちにしている節があった。
 あの日以来、ファミレスの前を通ると、ついつい店内に彼女の姿を探してしまう馬鹿な俺である。


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