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死よ、純白に彩られ


 ノックの音が白宝館の廊下に響いた。
 ドアを叩き、中にいるはずの薬鳥くすりとりに呼びかけながら、鶴井つるいの胸には嫌な予感がこみ上げていた。すでにこの館では殺人事件が起きている。猟奇的な装飾の施された速水の死体を思い出す。これ以上あんな不気味なものは見たくない、というのが鶴井の本音だ。
「も、持ってきました」
 息を切らして家政婦の尾賀谷おがたにがやって来た。彼女が薬鳥の部屋の前に立ち、ドアへ鍵を差し込んでいる間も、鶴井は廊下に集まっている面々を改めて確認した。
「なあに、大げさなんですよ。どうせ疲れて寝てるんだ。あんなことがあったから、みんな少し過敏になってるんだよ」
 大きな体を揺らしてふじが笑った。それに同調するように古賀こがも曖昧な笑みを浮かべる。彼は藤ほど楽観的にはなれないらしい。どこを見るべきか決めかねたように、あちこちへ落ち着きなく視線をさまよわせている。
 鍵が開いた。尾賀谷を押し退けて、それまで黙っていた竿田さおだがドアの前に立った。
「鶴井さん。ゆっくり中に入りましょう。……この部屋は密室だった。いいですね?」
 鶴井の方を向いて言う。彼の意図が分かって、首肯した。つまり竿田は早業殺人を警戒しているのだ。いや殺人でなくても、例えば部屋へ入ったどさくさに紛れて死体のポケットへ鍵を入れるとか、そういう行為がないとは言い切れない。
 犯人は、自分たちの中にいるのだから。
「みなさんはここで待っていてください。僕と竿田さんの二人で中に入ります」
「ん? そいつはどういうことです?」
「わかりませんか? つまり、私たち二人が妙な行為をしないよう見張っていてくれ、ってことですよ。後で言い逃れ出来ないように、ね」
 竿田が藤に言って、左手で髪を撫で上げた。それが彼の癖なのだろう。それとも一見平然としているが、これでも緊張しているのだろうか。彼の左手首に、蛇をかたどったシルバーバングルが鈍く光っていた。
「入りますよ」
 竿田にことわって、鶴井はドアを開けた。
 室内に入るまでもなく、異変にはすぐに気がついた。鼻を突く化学的な臭い。そしてここからでも、部屋の中央に倒れている薬鳥の死体が見えた。
「なんてことだ。また――」
「また白、ですか。レパートリーの少ない犯人です」
 すぐ後ろにいる竿田の声が、微かに震えているのが分かった。
 薬鳥の死体は白のラッカースプレーで真っ白に塗装されていた。死体の倒れている床の半径二メートルほども同様に白く染まっている。死体は仰向けに倒れ、微かに口を開いているが、その内側もしっかりと白色に染まっており、そこにはすべてを白く染め上げなければならない、という犯人の妄執のようなものを感じる。
 本来は生々しいはずの死体が、色を失い、床と同化することで、まるで彫刻を見ているかのような感覚を覚えた。リアリティがない、のである。生きていた痕跡を感じ取ることができない。まるで最初から生命など持っていなかったかのような、錯覚。
 命を奪うだけでは飽きたらず、その痕跡すらも消さなければ気が済まなかったのか――。鶴井は犯人の心境を想像するが、それにしても、死体を塗装するなどというのは正気の沙汰ではない。
 最初に殺された速水はやみの死体も白く塗装されていた。真っ白な死体を見るのはこれで二度目だとはいえ、やはり不気味である。生きているとはとても思えなかったが、だからこそ、形だけは人間と寸分違わないことに不気味さを感じるのだ。
「中へ入りましょう」
 竿田に急かされて中に入る。室内にはペンキの臭いが充満していて、数歩中に入るだけで頭がくらくらした。
 床のペンキを踏まないように気をつけて歩く。屈んでペンキの部分をよく観察すると、まだ完全には乾ききっていないようだ。ラッカースプレーがどの程度で乾くのかは知らないが、この様子では塗装されて一時間から二時間、といったところか。
 死体の上、薬鳥の胸の上に鍵が置かれていた。死体と一緒に白く塗装されている。ポケットからハンカチを取り出すと、慎重に鍵を持ち上げた。
 鍵を持ってドアへ戻ると、鍵穴に差し込んで何度か回してみる。やはりこの部屋の鍵だ。速水の事件と同じく、これは密室殺人なのだ。
「尾賀谷さん、マスターキーはずっとあなたが持っていたのですね?」
「え? あ、はい……」
 竿田の質問に、尾賀谷が怯えながら答えた。尾賀谷は人見知りの激しい女性で、未だに鶴井と会話するのに緊張を要するようだ。しかしこの場では彼女などまだマシな方で、古賀にいたっては顔面を蒼白にして廊下の隅に腰を抜かしていた。目を大きく見開いて、それでも死体から目が離せないでいるようだ。
 犯人はなぜ部屋を密室にしたのだろうか。これ見よがしに死体を装飾し、密室という怪奇の筺に押し込めて。まるで見せつけるかのように、派手な演出を。
 死体のデコレーション。純白の死――。
 鶴井の体に寒気が走った。
 気づいてしまったのだ。呆然とその場に立ち尽くす。もう一度頭の中で繰り返す。どこかに間違いはないか。本当にこれが真相なのか。なぜ死体を白く染めたのか。――なぜ部屋を密室にしたのか。それは妄執などではなく、狂気ではない。恐ろしいほど冷静な合理性によって導かれた、強力な必然性。
 呆然として、動くことを忘れてしまったらしい。竿田が自分の名前を呼んでいるのにやっと気づいて慌てて返事をする。瞬きすら忘れてしまったのか、今までの数秒を取り戻すように目を閉じた。
「……犯人が、分かりました」
 ぼそりと、独り言のように鶴井が宣言した。
 周りの声がよく聞こえる。反応は様々だ。それを遮って、今度こそ強い調子で言う。
「犯人の仕掛けたトリックも、密室の理由も、白い死体の意味も、すべて。……みんなを集めてください。僕が、この事件の謎を解きます」


 稲舛いなますは自室で原稿を読み終えた。探偵の鶴井がとある洋館で起きた連続殺人事件の謎を解決する、という非常にオーソドックスなミステリーだ。しかしながらそこで使われているトリックは非常に先鋭的であり、解決にいたるまでの展開が二転三転する様は非常に読み応えがある。
 この原稿を書いた作者の名前も、作中に出てくる探偵と同じく鶴井和真かずまという。彼とは大学時代にスノーボードのサークルで知り合った。卒業後に偶然再会し、彼がミステリー作家を目指して何度も新人賞に応募していることを聞いたのだ。
 そんな縁があって、その後、彼が書いた小説をたびたび見せてもらっていた。もちろん稲舛に特別な批評の才能があるわけではなかったが、素人なりにどこをどうすればいいかアドバイスさせてもらったこともあった。
 鶴井は昔から照れ屋で人付き合いが下手な人間だったが、それは再会したときにも変わっていなかった。友人と呼べる人間もほとんどおらず、稲舛に原稿を見せる以外はたった一人で黙々と小説を書き続けていた。たまにふらりとどこかへ旅に出ることがあったが、小説に詰まったときはそれが一番のリフレッシュになるらしい。
 少なくとも、稲舛の目には鶴井は毎日を充実して過ごしているように見えた。
 自分が彼を殺すまでは。
 もちろん稲舛が直接手を下したわけではない。しかし稲舛は自分の保身というくだらない理由で鶴井のことを見殺しにしたのだ。それどころか自ら進んで鶴井を罠にはめたのだ。
 だから、これは復讐ではない。
 これは贖罪なのだ。
 稲舛はもう一度原稿に目を落とした。鶴井が書いた最後の小説だ。これを書き上げたあと、鶴井はあの男の手によって殺されたのだ。そしてそのとき自分は傍観者に成り下がっていた。自分も、あの男も、同じ罪を犯している。あいつのことを非難する権利は自分にはない。
 だからこそ、裁かなければならない。
 鶴井の無念を、自分が晴らさなければならない。それ以外に鶴井に詫びる方法がない。自分の罪を濯ぐ唯一の方法は、あの男を殺すことだ。
 いや、ただ殺すだけでは不十分だ。これは鶴井の復讐なのだ。ただの死だけでは物足りない。鶴井に届かない……。
 原稿のその部分をもう一度読み返した。洋館で起きた殺人事件。スプレーで塗装された死体。あの男を、鶴井の小説と同じやり方で殺してやる。鶴井の復讐であることを見せつけてやる。
 スプレーと凶器は用意した。いつでも実行できる。
 あの男を殺さなければ、自分は救われないのだ。鶴井が死んでから、稲舛はひたすら罪の意識に苛まれる日々を送ってきた。それが、もうすぐ終わる。
 稲舛が漏らした吐息には安堵の色が浮かんでいた。


 稲舛鮎彦あゆひこが勤めているのはいわゆる闇金会社だ。駅前の大通りを下って、薄汚いビルが列挙する商業地域に事務所を構えている。と言っても、オフィスビルの一フロアを借りているに過ぎないが。
 会社の名前は「ミニツグ」という。社長の味谷みたに秀嗣ひでつぐが自分の名前にちなんでつけた社名だった。業務内容はとてもではないが合法とは言えない。債務者に違法な利子で金を貸し付け、それが回収できなくなると外部の業者へ委託する。業者、というと聞こえはいいが、暴力団紛いのこれまたいかがわしい組織だ。債務者の中には内臓を売られたり、時には保険金を掛けられた挙句事故に見せかけて殺された者もいる。
 鶴井も保険金を掛けられて殺された。もちろん、表向きは事故死、ということになっている。警察の見解では酒に酔った鶴井が川に落ちて溺死した、ということだ。ただし、当時の鶴井は暴力団関係者からの度重なる取り立てに苦しんでおり、とてもではないが酒を飲んでいられる状態ではなかったことを稲舛は知っている。
 金に困った鶴井を社長の味谷に紹介したのが最初だった。稲舛は大学を卒業して食品会社に就職したが、職場の空気が合わず、わずか二年で退職してしまい、当てもなくバイトで食いつなぐ生活をしていた。そんな稲舛と偶然知り合い、会社に拾ったのが味谷だった。当時の稲舛はその恩義があったから、友人の鶴井を味谷に売ることすら厭わなかった。
 それがすべての間違いだった。あのときの稲舛は味谷の本性をまだ理解していなかったのだ。
 稲舛は誰よりも早く出社して、事務所の鍵を開ける。船部ビルと呼ばれる三階建ての小さなビルの、最上階すべてがミニツグの事務所となっている。磨りガラスの両開きのドアの上下に鍵が掛けられている。
 現在、稲舛は味谷の秘書という立場にあった。会社の鍵の管理はすべて稲舛の仕事となっている。
 しんと静まりかえった社内に一人だけだ。自分のデスクに着くと、鞄を開けてビニール袋を取り出した。中には味谷を殺すためのロープと見立てのためのスプレーが入っている。用意にぬかりがないことを確認して、他の誰かの目に触れる前に机の引き出しの一番下に仕舞った。
 八時を回る前に社長を除くすべての社員が出社した。稲舛と味谷以外の社員は三人だけだ。
「あの、稲舛さん、顔色が良くないですけど、えと、大丈夫ですか?」
 同僚のこずえがファイルで顔の下半分を隠しながら遠慮がちに言った。髪はショートカット、縁のない眼鏡がよく似合っている。かなりの童顔で、高校生と言っても十分に通用するだろう。梢は極度の恥ずかしがり屋で、一緒に働き始めてからしばらく経つが、未だにまともに目を合わせようとしてくれない。
「いや……大丈夫。そんなに顔色、悪そうかな」
「ええ、あの」か細い声で答えて、稲舛に帳簿を渡す。「難しそうな顔をしてました」
「稲舛さんはいつもそうですよー。難しいのがデフォって感じで」
 向こうのデスクから新沢にいざわの間延びした声が届いた。彼は味谷が拾ってきたバイトだ。アルバイトを募集していたわけではなかったが、社長の気まぐれで突然雇うことになった。大学を中退して、今はアルバイトで生活費を稼いでいるらしい。
「あの、社長はまだ……」
「来てないみたいだね。まあ、多分遅くても昼までには来ると思うけど」
 来てもらわなければ困る、というのが正直なところだ。味谷は誰よりも遅く会社に来て、誰よりも早く帰宅する。彼と安全に二人きりになれる時間は、昼休みにみんなが外へ昼食を食べに出ている時間くらいしかないのだ。
「ああ、味谷さんなら午後までには必ず来ると思いますよ。なんでも、今日の午後に来客があるらしいです。昨日彼が漏らしていましたが」
 月成つきなりがパソコンのキーを叩きながら言った。ブランド物のスーツを上品に着こなした中性的な顔つきの男だ。年齢は四十を超えているはずだがモデルのような色気のある顔立ちはさぞ女性の目を引くだろう。
 月成はミニツグで働く前から味谷の知り合いだった。少し前までアメリカで暮らしていたのが、向こうで日本人女性と結婚し、それがきっかけで日本に戻って来たのだという。特にこちらで仕事をするつもりはなかったらしいが、味谷に強く頼まれ、期間限定でミニツグの手伝いをすることになった。
 稲舛と梢は正社員、新沢はバイトで月成に至ってはただの手伝いだ。あまりまっとうな職場でもないので、離職率はかなり高い。稲舛が初めてミニツグに来たときは梢以外にも男の社員が二人いたのだが、味谷のせいで一年もしないうちに二人とも辞めてしまったのだ。
 ということで今では梢が一番の古株ということになる。古株、という単語は梢の持つイメージからはほど遠いが。人見知りの激しい梢が一番長く続いているというのは不思議な話だった。梢は味谷の愛人なのではないかという面白くもない噂が流れたこともあった。
 ガラスのドアが開いて、客かとそちらの方を見ると、入ってきたのは味谷社長だった。五十代も後半のはずだが相変わらず趣味の悪い派手なネクタイとスーツを身につけている。コレステロール値がかなり高いらしく、最近は締まりのない腹が一段と自己主張を強めてきていた。
「稲舛くん、後で社長室に来てね。どうも今朝から肩の調子が悪くてね……。この間のゴルフのときに無理しすぎたのかも。よろしくね」
「え? あの、どうして俺が?」
「んなの決まってるじゃない」脂ぎった笑顔を浮かべた。まるで稲舛を挑発するみたいに。「君がわたしの肩を揉むんだよ。秘書なんだから、わたしの健康も気遣ってよね」
「あの、社長。えと、この間の中富さんの――」梢が怯えながら味谷に呼びかけた。びくつきながらも仕事に関するいくつかの報告をする。
「ああ、あれね。うん、まあなんとかしといてよ。後で中富のところ行って、挨拶しておいて」
 無責任に言って味谷は、みんなが仕事をしている事務室には一歩も入らずに、廊下の曲がり角にある社長室へと行ってしまった。見捨てられたみたいに、梢がその後ろ姿を見送っていた。結局あの男はいつもそうなのだ。仕事に関することにはほとんど興味がない。そのくせ、部下が失敗をするとその責任を問うてネチネチと責め続ける。
 しかし表立っては誰も文句を言えないのだ。みんなが味谷のことを恐れている。それは暴力団とつながりがあるということだけではなくて、味谷秀嗣という人間そのものに、人を威圧し怯えさせる何かが備わっているのだ。
 憂鬱な気分になりながら――あるいは、場合によっては警察に捕まることも覚悟して、この場でやつを殺す必要があるかもしれない。
 事務室を出て、玄関から続く廊下の突き当たりに社長室のドアがある。廊下を曲がってさらに先へ行くと非常口だ。普段は防犯上の理由で内側から鍵が掛かっている。その扉を外から開ける鍵はもちろん稲舛が管理している。オフィスの物理的な部分に関しては稲舛がミニツグの大半を管理していることになる。
 社長室のドアを三度ノックして――社長から入るように言われ、稲舛は意を決して中に入った。
 事務室とは違い、社長室にはかなりの金がかけられている。高級そうな木の机に、革張りの椅子。部屋そのものが広く、床は黒色のタイルカーペット。机と向かい合う壁には油絵が飾られていた。味谷の知人である、とある有名な画家に描かせた絵だと、以前自慢話を聞かされたことがあった。
「おう、稲舛くん。肩を揉んでくれ」
「これでも俺は忙しいんですが……」
「揉んでくれ、って頼んでるんだ」圧力のある笑顔を稲舛に向けた。「まさか断ったりはせんよなあ?」
 椅子にふんぞり返って、稲舛が後ろに回るのをずっと待っている。稲舛は渋々、これから殺すことになるだろう男の背後に回り、その肩に両手を伸ばした。
「そうそう、あまり力を入れんようにな」
 肩を揉みながら、稲舛の脳裏には鶴井のことが浮かんでいた。大学時代に彼と話した内容。小説家を目指すと語った鶴井の照れくさそうな表情。ほんのささいなエピソードがいくつも浮かんでは消えて、そのたびに稲舛はいたたまれない気持ちになった。
 鶴井に泣いて詫びたかった。もし彼が生きていたら……。いや、そんな仮定を持ち出すのなら、そもそも鶴井をこいつに紹介しなければ――。
「なあ、稲舛くん」唐突に味谷が言った。「そういえば、彼はなんと言ったかな。ほら、きみの友人だった、大学時代に知り合ったとかいう」
「鶴井、ですか?」
「そうそう、その男。あの事故は不幸だったなあ。可哀相に。溺死だってねえ。酒は怖いねえ。きみもそう思わないか? ん?」
 突然鶴井の話題を振ってくる。こういうことは今に始まったのではない。鶴井が稲舛の親友であり、その彼を間接的に殺してしまったことで稲舛がどれだけ後悔したか、すべてを知った上で鶴井の話題を出してくる。
 それに、なんと白々しい言い種だ。
 お前が鶴井を殺したんだ。お前が……。
「しかしうちとしては助かったんだけどねえ。いやいや、別に死んで良かった、と言うつもりはないんだけどさあ。あの人が死んで、保険金が下りたじゃない。そのおかげでうちは回収できてラッキーってことで。まあ不幸中の幸いだよねえ。天国の鶴井くんもそれは喜んでくれるんじゃないかなあ」
 味谷が、唐突にこちらへ振り向いた。稲舛の表情を確認するためだ。理性を振り絞って、心の中の嵐を表情に出さないよう努めた。しかし味谷の加虐的な笑みを見る限り、どうやら表情のコントロールには失敗してしまったようだ。自分の言葉が稲舛へ与えた影響を確認して、味谷は満足そうに笑っている。
「ところできみ、少し力を入れすぎだよ。それじゃまるで、首を絞めようとしているみたいだ。ふふふ」
 ――いっそこのまま、本当に首を絞めてしまおうかと考えた。
「……すみません。力の加減を誤りました」
「加減を誤って、謝るわけだ。つまんないことを言うねえ、きみは。ふふふっ」
「社長の午後のご予定は?」
「ん? ああ、午後からは友人が訪ねてくるんだがね。来たら社長室へ通してくれ。あと、肩はもういいや。さっさと仕事に戻ってね」
 その言い方にますます殺意を強めながら、稲舛が一礼して退室しようとする。
「あ、そうだ。昼に用があるから、正午にまたここに来て。……これはちょっと内密な話だから、他のみんなには言わないようにね。こっそり来てよ」
「内密、というと?」
「ん、まああれ絡みでね。色々と」
 暴力団関係の話だろうか。釈然としないものを感じるが、これはまたとない殺害の機会を得たと考えるべきだろう。渡りに船とはまさにこのことだ。正午ならばみんなは昼休みで昼食を食べに出る時間だ。殺害の瞬間を誰かに見られる心配がない。
 味谷が社長室を出ると、背後で社長室のドアに鍵が掛かる音が聞こえた。味谷には社長室にいるとき鍵をかける習慣があった。部屋の内側からツマミを回すと錠が降り、外側から操作する場合は鍵が必要となる。その鍵はもちろん稲舛が管理している。つまり社長室の錠は殺害の邪魔になるようなものではない。
「お疲れ様です。大変でしたね」
 事務室に戻ると、月成が同情するように言った。今の状態で口を開けば呪詛の言葉が出るのは確実だった。よって曖昧な返事を返して席に着く。しかし月成は会話を続けようとした。味谷の加虐嗜好の犠牲に選ばれることのないあいつには、俺の悲劇なんてのは対岸の喜劇でしかない、と稲舛は心の中で毒づいた。
「あの人の性格は最悪ですからね。友人の私が言うのだから間違いない」
「最悪、っていうか」新沢が話題に食いついてくる。人の悪口が好きな年頃だ。「悪質です」
「まあ、あれでも良いところはあるのですが」
「例えばどこです?」
「利益が絡んでいる相手には礼儀正しいのですよ。義理堅いですし」
「むしろそれはマイナスポイントだと思いますが」
「性格を除けば良い人ですよ、味谷さんは」
 褒めているようで全く褒めていなかった。あまり愉快な話ではなかったので話題を変えることにする。そもそもこれから殺すやつの美点なんて、聞かされるだけ毒だ。
「ところで、梢さんは?」
「あの人は中富さんのところに行きましたよ。梢さんはあそこの部長のお気に入りでしたね、そういえば……下世話な話ですが」
 ミニツグはまっとうな金融会社ではない。それだけに横の繋がりは重要だと言える。中富さん、というのもミニツグと同じ金融関係の小さな会社だ。
「そうそう、月成さんと話してたんですけど、今日のお昼は一緒しませんか? 何かすごい美味いコーヒーの出す店があるとかで」
「すごく美味い、ですね」月成が新沢の言葉遣いを訂正する。「コーヒーを出す、でもあります」
「細かいですよ……」
「それで稲舛くんはどうです? このあたりで本格的なコーヒーを飲める店はいくつかありますが、安価で堪能できる場所はあそこくらいしか知らない」
「あいにく、俺はコーヒーが苦手なもんで。飲むと腹を下すんです」
「それは残念です」
「すみません」
「いえ、車を出していただこうと思っていたものですから」
 月成がしれっと答えた。ミニツグの社員で免許を持っているのは、稲舛と梢の二人だけだった。
「月成さんとふたりきり、ってのも味気ないですねえ」
「私では不満ですか?」
「いやいや、そういうわけじゃないですけど」苦笑いをする新沢。「後で梢さんも誘ってみましょうか」
 そうですね、と同意する月成を横目に見ながら稲舛は仕事の続きを始めようとした。梢がそんな誘いを受けるとは思えなかった。
 そういえば味谷社長が死んだとして――まあ俺が殺すわけだが、その場合ミニツグはどうなるのだろうと、稲舛はぼんやり考えた。この会社は味谷の人脈と悪辣さと気まぐれで成り立っているようなものだ。代表取締役が死んだ場合の法律上の扱いは知らないが、仮に今まで通り営業を続けられたとしても、今までのような非合法な業務を続けられる体力は残されないだろう。


 昼近くになって梢がやっと会社に戻ってきた。
 月成と新沢のふたりがさっそく梢を口説きに掛かったが、熟考の様子すら見られずにあっさりと断られてしまったようだ。梢は誰かの誘いを受けたことがない。基本的に他人と触れ合うのが嫌いなのだろう。
「それじゃ、本当に店番は任せちゃっていいですか?」
 新沢が嬉しそうに稲舛に言った。店番という表現はなんとなくしっくり来なかったが、事務室にひとり残って来客に備えるというのは間違いなく店番だった。
 社長室には味谷もいるはずだが、誰も彼のことは勘定に入れていなかった。味谷がまともな労働をするはずがない、というのがこの場の全員の共通見解である。
「ああ、俺が残るから、みんなは構わず行ってくればいい」
「自己犠牲なんて今時流行りませんよ」
 月成が余計な茶々を入れてきたが、稲舛は笑顔でそれを撃退した。さっさと昼飯に行け。じゃないと味谷を殺せないだろうが。
「それでは、お言葉に甘えて……」
「すみません、先輩」
「あ、あの、わたしも、残りましょうか?」
「梢さんも行ってきなよ。別に二時間も三時間も空けるわけじゃないでしょ?」
 梢はしばらく食い下がったが、最後まで稲舛が譲らなかったので三人とも昼食に出ることに決まった。梢は面倒見が良いし、対人恐怖が影響しない範囲ではとても優しい人だ。
 三人が去ってから、念のためしばらく時間を置くことにする。
 十分ほど経って、稲舛は社長室の前へ向かう。殺人のための道具一式の入ったビニール袋ももちろん持参している。
 稲舛はドアをノックしようとしてその手を止めた。
 社長室の前で数秒考えを巡らせて、ビルから少し離れた路地裏に死体を棄てることに決めた。そのときにスプレーを吹き付ければいい。自分は昼休みの間中、ずっと受付をしていたが社長は現れなかった。気がつくと社長は部屋におらず、近くの路上で殺されていた。おそらく自分で、非常口の方から外に出たのだろう。暴力団関係の人間と約束があって、稲舛たちには秘密で外に出たのだ。
 ……なるほど、不可能な流れではない。スプレーで塗装されたのはヤクザの自己主張か。いや、そんな阿呆なことをするヤクザがいるものか。とはいえ現実的に考えて他に手段はない。死体の塗装を諦めればまだ選択肢は増えそうだが、それこそがこの殺人計画の肝であり目的なのだ。懺悔したいがための殺人など、計画ではなくただの衝動かもしれないが。
 稲舛は今度こそドアをノックする。すぐに返事が返ってくると思っていたら意外にも無反応だった。
 今度は少し強めに、叩き付けるようにノックして、それでも反応がないので味谷は事務室のデスクへ社長室の鍵を取りに戻った。《社長室》のタグが付いた鍵を見つけて、それを持って再び社長室へ。
 中にいるはずの味谷に声をかけてから、鍵を差し込んでひねった。
 ロックの外れる確かな手応えがあった。
 ドアを開けて中に入ろうとしたとき――何だろう、この臭いは。まるで――ドアの隙間から流れてくる空気に生臭さが――血の臭いだ。
 ドアを開けた。部屋の中央に味谷が倒れていた。
 仰向けで、両手足を大の字に開いている。稲舛の方に足を向けていて、だらしない腹が小さな丘のようにイメージされる。その丘に墓標のようなものが立っていた。それは見間違いようもなく、味谷秀嗣の命を奪った一振りのナイフである。
 稲舛は手にしていたビニール袋をその場に落とした。少し耳を澄ませば自分の吐息がうるさい。自分の吐息だけ、だ。味谷の腹は呼吸によって上下することもなく、社長室は不気味なほどに静かだった。
 稲舛は社長室の中に一歩足を踏み入れて――そのとき、死んだ味谷の顔と目が合った。
 淀んだ目が、稲舛を捉えてしまった。
 そのおぞましさに稲舛は全身の毛が逆立ったような気がして、慌てて引き返すと社長室のドアを閉めた。
 息が荒い。まるで自分の足下が一瞬で崩れ去ったみたいな不安定感。体重を預ける物がなくてひたすら墜落し続けるような消失感。
 呼吸困難に陥った稲舛が、少なくとも肉体だけでも平生の状態に戻るのに数分を要した。
 社長室のドアを開けてもう一度中を覗き込む。我ながら懲りないな、と心のどこかにある冷静な自分が嘆く。
 味谷はナイフで胸を刺されて倒れている。それは動かしようのない事実だ。出血はほとんどない。彼の服を若干赤色に染めている程度だ。
 気分が悪くなってドアを閉めた。
 ドアを背中で押さえて――もしかしたら、味谷が今にも起き上がって、社長室から出てくると無意識に考えたのかもしれない。二回大きく深呼吸する頃には、味谷が誰に殺されたのかを冷静に考える余裕が生まれていた。
 生きている社長を最後に見たのは他ならぬ自分だ。稲舛のデスクは廊下に面しており、事務室と廊下はハイパーティションと呼ばれる簡易な壁で仕切られている。二つを結んでいる通路にはドアのようなものはない。もし事務室の誰かが社長室の方へ行けば自分が真っ先に気づくだろう。
 もちろん稲舛は仕事もせずにずっと廊下の方を監視していたわけではないし、一度も席を立たなかったわけでもない。社長室のドアが直接視界に入るわけではないので見落とす可能性もあるだろう。しかしそれを差し引いても、社員の誰かが社長室を出入りしたとは考えにくい。
 だとしたら外部犯だろうか。例えば泥棒が社長室に忍び込み味谷を殺してしまうという可能性だ。あるいは暴力団からの差し金で、殺し屋とかヒットマンとかそういう類の人間が味谷を暗殺した。
 稲舛は立ち上がり、おぼつかない足取りで非常口の方へ歩いて行く。非常口とは名ばかりの、ただの裏口だ。
 ドアには鍵が掛かっていた。念のため鍵のツマミを回すと、ガチャリと音を立てて錠前が解除される。ドアを開けると外の空気が流れ込んできた。すぐに閉めて、元通りに鍵を掛ける。
 ……味谷を殺した殺人犯は、どうやって社長室へ入ったのだろう。
 ここは三階で、窓からの侵入も不可能だ。長い梯子を使えば可能かもしれないが、そもそも窓の鍵は閉まっていたような気がする。もう一度あの部屋へ入る勇気はないので確かめようがないけれど。
 表向きは、稲舛の行動は冷静そのものだった。しかし彼の内側には混乱と恐怖の台風が吹き荒れていたのである。その発露として、稲舛は荷物も持たずに――かろうじて自分のデスクの上に放り出していた車のキーを取ると、何かに追われるようにビルの階段を駆け下りた。
 裏の駐車場に駐めてあった自分の車に乗り込むと、稲舛は一目散に発進した。冷や汗で背中がべったりと湿っている。何もかもが嫌で泣きたくなった。ストレスを回避するための防衛反応だと稲舛の冷静な部分が解釈した。
 そのまま運転し続けていると、習慣で稲舛の行きつけの喫茶店に着いてしまった。昼食はいつもこの店で済ませている。今はとにかく落ち着ける場所が必要だった。
 稲舛は車を降りて喫茶店に入ると、顔見知りのマスターにカレーライスとコーヒーを注文した。
 一心不乱にカレーを食べ、コーヒーで辛さを流し込み、煙草を一本吹かしたところで自分の陥ったこの上なくマズイ状況を改めて認識することができた。
 社長室の鍵を持っているのは自分だ。あの部屋に入り、社長を殺し、社長室の鍵を掛けることができるのは稲舛だけだ。
 いや、稲舛が事務所を出てきたとき、鍵は開けっ放しだったから、稲舛だけが社長を殺した、という風には警察は判断しないかもしれないが。だとしても会社を放り出して勝手に出てきたのは不自然きわまりない。今からでも遅くない、戻って社長の死体を始末した方が――いや、下手に関わると泥沼に陥る可能性がある。そして何より、怖くてあの部屋には戻れない。
 「怖い」。
 稲舛は愕然とした。自分はあれだけの覚悟と殺意を持っていながら、いざ想定外の出来事が起きるとこうも脆いのか。なんと情けないのだろう。所詮俺に殺人は無理なのだ。ましてや復讐なんて。
 これからどうするべきだろう。稲舛は途方に暮れた。
 警察にすべてを話す――というのはあまり気が進まない。何せ状況が状況だ。自分の証言が通用するなら、それはすなわち容疑者の不在ということになり、犯人は最初に密室を破った自分だけということになる。警察が稲舛の無実の可能性を徹底的に調べてくれるとはどうしても思えなかった。
 ちょうど一本目の煙草を吸い終わったころ、スプレーとロープを入れたビニール袋を社長室に置き忘れてきたことを思い出した。


 いつまでも喫茶店で時間を潰しているわけにもいかない。
 一時を回ったころ、稲舛は会社に戻ることにした。車でビルに近づいて、周辺を回って様子をうかがう。警察が来ている様子はない。死体はまだ発見されていないのだろう。
 裏手の駐車場に車を止めて、しばらく覚悟を決めるために時間を費やして、意を決してビルの階段に足をかけた。
「あ、稲舛さん! 会社開けっ放しでどこ行ってたんですか!」
 フロアへ戻るなり新沢の非難の声。言葉にはしないが月成も同様の視線。梢は居心地が悪そうにしているが、自分のデスクより外側の領域へは関わらないようにしているらしい。稲舛の方を一瞥もしなかった。
「すまん。その、ちょっと急用で」
「なんですか、急用って」
「本当にすまん。ちょっと、その、プライベートなことで」
「プライベート、ね」月成が含みを持たせた言い方をした。「便利な言葉です」
「稲舛さんが残るって言ったんじゃないですか。外出るなら最初からそう言ってくださいよ。そうすれば他の誰かが残ったのに」
「ちなみにその、プライベートな用事というのは何なのですか?」
「それは……」月成が妙に食い下がる。稲舛は嫌な予感を覚えた。「その、ちょっと人と会ってたんですが」
「仕事を放り出して? 鍵を開けたまま? ずいぶんと急ぎの用事だったんですね」
 稲舛は内心舌打ちしていた。新沢は何も気づいていない様子だが、月成は明らかに稲舛の行動に不審を持っている。下手な切り返しはさらなる疑惑を招くだろう。
 対応を決めかねていると、階段を上がってコートを着た品の良い老人がやって来た。
「い、いらっしゃいませ」
 すかさず梢が声を掛けた。弱々しい声と怯えるような態度だが接客としての最低ラインは一応クリアしている。あの人はこれでも稲舛より先輩なのだ。
 老人は丈が長い黒色の上着に同じく黒色の折り目の付いたズボンを身につけている。今時珍しく灰色の山高帽を被っており、帽子を持ち上げて梢に挨拶を返した。鼻の下には白髪の交じった髭が生えている。金を借りに来た人間とは思えない上品さだ。
「こちらに味谷秀嗣さまはおられますかな?」
 事務室の中には足を踏み入れず、老人が尋ねる。凛とした声だ。
「ええ、あの。どちらさまですか?」
「これは失礼しました。わたくし、宮藤くどうと申しまして、入瀬いるせ影尋かげひろさまの代理人でございます」
「入瀬……?」
「さようでございます」梢のオウム返しに満足そうに頷く。「今日の午後にお会いになると、味谷さまと約束されたはずです」
「は、はい。すぐに社長を呼んで参ります」
 こういう客は珍しい。梢は少しうわずったような声で言って、慌てて立ち上がると社長室の方へ歩いて行った。
 これは、予想外の展開だ。今もまだ社長室の中には死体があるはずだ。
「社長、社長!」
 梢が社長室のドアをノックする。宮藤が横目で廊下の奥を見ているのが稲舛には分かった。稲舛の手が、嫌な汗でべっとりと濡れていた。
「あ、あれ? 鍵が開いてる……」
 とうとう扉は開かれてしまった。隠されていたものが今、白日の下に晒される。
 悲鳴が廊下に響いた。稲舛はすぐさま駆けつける。異常事態が起きるのは分かっていた。しかし意外にも、先に社長室の前に着いたのは宮藤の方だった。老人の外見に似合わぬ素早さだった。
「どうされたのですか――」
 異常を尋ねる言葉が途端に意味を失った。一目瞭然のはずだ。中では人が死んでいるのだ。どうしたもこうしたも――。
「あ…………」
「な、何ですか、これ」
「ふむ……。死体、ではありませんかな」
 鼻を突く溶剤の臭い。室内からむっとした空気が流れてきた。
 社長の死体がペンキで塗装されていた。周辺の床も同じ色に。他ならぬ稲舛自身が用意した色で。色を失った味谷の死体はまるで燃え尽きたみたいだ。床の色と同化してしまっていて、ちらと見ただけでは死体を見逃してしまいそうである。
 社長室へ一歩踏み込んで、さりげなく中の様子を確認する。
 稲舛は混乱していた。自分が発見したときにはただの死体だった味谷が、今はスプレー缶で一色に塗装されている。誰が塗装したのか、そして鶴井の小説を読んだ人間は自分だけなのに、どうして死体を塗装するという発想に至ったのか、何一つ分からない。
 室内にスプレーの缶は見あたらない。ビニール袋も絞殺用のロープも見つからない。その点ではとりあえず胸をなで下ろした稲舛である。
 加えて、前に見たときは刺さっていたナイフも回収されていた。死体の胸には血の赤色が見られないから、犯人は血が乾いてからスプレーを吹きかけたのかもしれない。
「何かトラブルでも?」
 月成が後ろから顔を突き出して部屋の中を覗き込んだ。しばらく無言で味谷の死体を見つめた後、がたがたと震えている梢を廊下から連れ出した。
「稲舛さんは救急車を呼んでください」
「分かりました」
「結構。落ち着いていますね」
「馬鹿な」一瞬心の中を見透かされたような気がして焦る。「これでも動揺していますよ。月成さんだって」
「私はこれが初めてではありませんから」
 死体を見るのが?
 そう問い返そうとしたが、月成は事務室の奥へ梢を連れて引っ込んでしまった。
 宮藤老人が近寄ってきた。
「ふむ……亡くなっていらっしゃるようですね」
「かもしれません」
 不用意に死亡を断定するような言葉は慎むべきだ。それは不謹慎、ということではなくて、単に自分の保身のためなのだが。
「どちらにしろ、警察を呼ぶ必要もありそうですね。それならばわたしもここに残るべきでしょうな」
「ええ……お願いします」
 別にこちらが頼む義理などないのだが、何となく流れで頭を下げてしまっていた。
 稲舛は救急と警察に連絡をした。救急車を呼ぶことが徒労に終わると知っている稲舛は、それでも必死な通報者を装わなければならないのに少しだけ骨が折れた。


 最初は最寄りの警察署からパトカー数台が来るだけだったのが、いつの間にかスーツや作業着の男たちがわらわらと集まって来た。とりあえず何が起きたのかをかいつまんで警官に説明したのだが、本格的な事情聴取はこれから始まるようだ。
 稲舛たちは事務室で待機させられ、廊下を慌ただしく行き来する鑑識の腕章を付けた作業服の男たちを会話もなく見ていた。
 やがて、白い布を掛けられ担架に乗せた味谷の死体がビルの外へ運ばれていった。味谷の死体が重かったのか、運び出すのに苦労している様子だった。
 宮藤の姿が見えない。最初に警官が到着したときは一緒にいたはずだ。彼は誰かの代理人だと名乗っていたから、おおかたその人物に連絡を取っているのだろう。
 ……犯人はこの中にいるのだろうか。
 梢は見知らぬ人間が大勢押し寄せてきたことで、居心地が悪そうに椅子の上で縮こまっている。新沢は好奇心をむき出しにして捜査員を観察しているし、月成は含みのありそうな笑みを浮かべたまま相変わらず何を考えているのか分からない。
 何となく、姿の見えない犯人が、自分を陥れようとしているのではないか、という気がしてならない。
「なあ、みんな」稲舛が口を開いた。頭を必死に働かせながら。「今日の昼は、何をしてたんだ?」
「アリバイですか?」
 月成が素早く反応する。やりにくいな、と稲舛は思った。こいつは頭が良い。自分の屁理屈がどこまで通用するだろうか。
「いや、そういうわけじゃないんですが……。でも、警察は訊いてくると思うんですよ、俺たちのアリバイを。だからまあ、その予行演習というか」
「意味がよく分かりません」
 月成が微笑んで答えた。
 とにかくこの事件は不可解な点が多すぎる。しかも自分は中途半端に関わってしまっているから、このまま素知らぬふりをし続けるのはとても不安だ。特に、最初に味谷の死体を見つけた状況の不可解さが。この際、警察よりも先に真相を見つけて、先手を打って処理をするしかないと思ったのだ。
「いいですね、アリバイ。ボクにも聞かせてください」
 透き通るような声だった。全員が一斉にそちらを向くと、車椅子に座った茶髪の青年が宮藤に押されて事務室に入って来た。透き通るような白い肌に、すぐに折れてしまいそうな病的に細い体。上品な物腰で、彼が宮藤と並んでいる様子はとても絵になる。
 そして、青年はずっとまぶたを閉じていた。にこにこと上品な笑みを浮かべながらも目は絶対に開こうとしない。
「ああ、これですか? ええ、ボクは目が見えません。歩くこともできませんから、こうして宮藤に世話をしてもらっています」
 稲舛の疑問を察して彼が答える。
「あの……どちらからいらしたんですか?」
 梢が質問した。美青年に目を釘付けにされていた。
「四年前から日本に住んでいますよ。日本語は、勉強しました。ちゃんと話せる自信はあるのですが、不自然なことを言うかもしれません」
「いや、えっと、そうじゃなくて」
「ああ、ボクの素性をお尋ねになったんですね。いえ、目は見えませんがその素敵な声はちゃんと聞こえていますよ。ボクは入瀬影尋といいます。生まれは日本で、両親も日本人ですが、すぐにアメリカに渡っているので、日本語よりは英語が得意です」
「入瀬……? もしかして、今日社長と会う約束をしていた人ですか?」
「ええ、味谷に呼ばれたのです。本当はあまり気が乗らなかったのですが、来て良かった」
「どういうことです?」
「ボクは探偵をしています。ボクはこういう事件の専門家なのです」
 稲舛の問いに入瀬は自信に満ちた声で答えた。華奢なイメージとは裏腹の、思わず信頼したくなる魔法が含まれていた。
「探偵、ですか? どうして味谷さんは、探偵なんか……」
「探偵なんか、とは失礼ですね」月成のつぶやきに若干気分を害したようだ。「とはいえ、ボクは仕事をするためにここに来たのではありません。味谷は個人的にボクの話を聞きたがっているのです」
 そういえば、確かに味谷には妙な趣味があったな。彫刻家とか役者とか、ときには学会から疎んじられた科学者とか、味谷は才能があると認めた人間に対しては援助を惜しまなかった。例えば社長室に飾ってある絵を描いた画家は味谷がパトロンになっていたらしい。
「ボクは過去に何度か殺人事件を解決しています。味谷はその話を聞いて、ボクのことに興味を持ったらしいのです。ボクはお金に興味はありません。そんなものはいくらでも持っていますからね。しかし味谷がどうしてもと言うのでボクは今日ここに来たのです」
 宮藤は入瀬の執事、ということか。彼がしばらく姿を消していたのは、車椅子の入瀬を階下から運ぶのに時間がかかったのだろう。
「話を戻します。みなさんのアリバイをお聞かせください」
「犯人を捜す、と?」
「犯人捜しがボクの趣味なのです」
「悪趣味ですね」
 月成が容赦なく言ったが、入瀬はそれを笑顔で迎え撃った。月成がここまで敵意を露わにするのは珍しい。二人の間で緊張感が高まった。
「……まあいいでしょう。私は朝からずっとこの部屋にいました。十二時……いや、その少し前でしたね。新沢くんと一緒にお昼を食べに行きました。あの店の人たちが私たちを覚えていればアリバイを証明できると思いますが、店内は混んでいたので難しいかもしれません」
「あ、はい。そうです」新沢は慌てて頷いた。「そのあと、十二時回って、えーと、二十分とか三十分とかそれくらいの時間に、月成さんと別れて僕はCDショップに行きました。予約していたやつを取りに」
「新沢が会社に戻ったのは何時ですか?」
「ああ、はい。えーと、一時よりは前だったと思いますけど……」
「あ、あの、わたしが会社に戻ったのが一時五十分でしたけど、に、新沢くんはそのとき、もうここにいましたよね」
 梢が所々つっかえながらも補足する。
「新沢と一緒に昼食を食べた方のお名前は?」
「月成です。私は新沢くんと途中で別れた後、まっすぐ会社に戻ってきましたよ。多分、三十分ごろに」
「そちらにいる素敵な声の方は?」
「わ、わたし、梢です!」慌てて自己紹介した。「あの、えと、月成さんたちと一緒に会社を出て、車で家に帰って一人でご飯を食べました。あの、その後会社に戻ってきて、時間は五十分くらいでした」
「一人でランチ、ですか? それはよくない。あなたのような素敵な方は、ランチにはパートナーを付けるものです。よければボクが立候補したいくらいですよ」
 入瀬が気障な冗談を言うと、梢は耳まで真っ赤にしてうつむいてしまった。その様子を見て新沢が笑いを必死に堪えているのが分かった。どうやら入瀬は気づいていないようだ。月成も馬鹿にしたみたいに入瀬の方を見ている。
 入瀬が宮藤に耳打ちする。宮藤は頷くと、入瀬の耳元で質問に答えた。
「もう一人の方は、どこですか?」
「あの、俺ですか?」
「はい。名前は?」
「稲舛、です」稲舛は緊張する。「正午くらいに会社を出た後、個人的な用事を済まして、戻ってきたのが一時十分か、十五分くらい」
「個人的な用事とは何ですか? その時間、殺害現場での不在を証明できますか?」
 あの喫茶店のマスターなら、今日稲舛が昼に来ていたことをちゃんと覚えてくれているだろう。だが、今の話からどうやってそこに繋げるべきだろうか。
「その……。個人的な用事ってのは、人に呼び出されたんですが、それが終わって腹が減ったのでいつも行く喫茶店に寄ったんです。そこの店員なら俺のことを覚えていると思います」
「どうしてすぐに会社に戻らなかったのです? おかげで味谷さんも殺されてしまいましたし」
 月成の嫌がらせのような質問に、稲舛は俺のせいじゃないと叫びたくなる。しかし冷静に考えてみれば、月成たちから見れば、味谷を殺した犯人として真っ先に挙げられるのは外部の人間で、稲舛が会社を空けている隙に社長を殺して逃走した、と考えるのが自然なのだ。まさかみんなが会社にいる時間にはすでに殺されていた、などと普通は考えないだろう。
「その……実は昔の恋人に呼び出されて」すべて嘘だ。「近くまで来たから会おう、って。会いに行ったら喧嘩になって、それで会社に戻るような気分じゃなくなって」
「だったらその人が稲舛さんのアリバイを証明してくれますね」
 墓穴だった。稲舛は慌ててかぶりを振った。
「いや、違う。その、実際には呼び出されたわけじゃなくて、俺が単に勘違いしただけというか」
「それでは、恋人とは会っていないと? なんで嘘を吐いたんです?」
「それは。ほら、ただの見栄ですよ。まさか勘違いして独り相撲で、勝手に傷心して仕事をさぼったなんて、言いにくくて」
「でも今、べらべら喋ってるじゃないですか」
「それは、月成さんが言えと言うから」
 話せば話すほどぼろが出る。何もかも投げ出して今すぐどこかへ消えてしまいたかった。すべてが裏目だ。何もせずに警察を呼んでいた方がマシだったかもしれない、と今さら後悔したところで何も解決できない。
「何のお話ですか?」
 廊下からスーツを着た刑事がやって来て一同を見回した。彼の目を一番引いているのは間違いなく入瀬だろう。
「ただの雑談です」
「あなたは?」
「ボクは入瀬という探偵です」
「連絡先はもう伺いましたから、お引き取りいただいても構いませんよ」
 不快感をあらわにした刑事の言葉に、入瀬は肩をすくめる。
「みなさんひとりひとりから詳しく事情を伺いたいので、呼ばれた方からこちらに来ていただけますか? まずは月成啓さんから」
 言葉は柔らかいが高圧的な態度だった。月成はその態度に反感を抱いているようだったが、表面上は嫌みを言うこともなく大人しく刑事の言葉に従った。
 二人は廊下へ出て行った。社長室で話を聞くのだろうか。
「味谷が生きているのを最後に見たのは誰ですか?」
「あ、俺です」
「稲舛ですか?」
「はい」声だけでよく判断がつくもんだな。「朝、十時くらいに社長室で会いました」
「では、最初に現場へ入ったのは誰ですか? 社長室に入ったのは誰ですか?」
「わたしです。えと、梢です」
「わかりますよ。素敵な声ですからね」
 入瀬の歯の浮くような言葉に、梢は顔を赤くしてうつむいてしまった。何となく、入瀬には月成と同じものを感じる。紳士的な態度の裏にどんなどろどろしたものを隠しているのか計り知れない。もちろん人間の内面なんて見えないから、厳密に言えば誰一人として計り知ることはできないのだが。
「わたしが最初にドアを開けて、そしたら宮藤さんと稲舛さんが来たんです」
「新沢は現場を見ましたか?」
「いや、ちらっとしか見てないな。なんか臭いがすごかったから、気持ち悪くて近寄れなかった」
「現場の様子を説明してください。細部まで」
 なるほど、これが入瀬のやり方なのか。安楽椅子探偵ならぬ車椅子探偵か。
 稲舛と梢は、思い出せる限りの現場の様子を入瀬に語った。表現が曖昧な部分では入瀬が的確な質問を投げかけてくる。
「現場の様子は大方把握しました。塗装した死体とは奇妙ですね。何か心当たりのある方はいらっしゃいますか?」
 そのとき、刑事に連れられて月成が戻ってきた。相当やり込められたらしく、うんざりした表情の刑事とは対照的に、月成は晴れやかな顔だった。
「それじゃあ……。次、新沢さん」
 この場でのディスカッションに未練があるような様子で、新沢は渋々刑事の後について事務室を出て行った。
「それで、調査は順調ですか?」
「佳境に入ったところですよ」
 月成に笑みを返す。
「死体が塗装されていた理由を考えるのはこの事件の大きなポイントです。犯人はあらかじめ色を塗るためのスプレーを用意していたと思われます。味谷がいつもペンキを置いていたのなら話は別ですけどね。だとすればなぜそんな準備をしてまで死体に色を塗る必要があったのでしょうか」
 実際にはあの缶は稲舛が偶然現場に落としたものだ。なので犯人が事前に塗装を計画していたかというと、それは少し怪しい気がする。
 だとしてもなぜスプレーを死体に吹きかけるという発想が生まれたのかが疑問だ。死体を塗装する理由は鶴井の小説への見立てなのだが、この見立てを知っているのは小説を読んだ稲舛と、小説を書いた張本人である鶴井だけなのだ。この点も自分以外の犯人を想定するときに障害となる壁だった。
 もうひとつ不自然な点は、犯人がわざわざ現場に戻り、そこで死体を塗装している点である。稲舛が最初に味谷の死体を発見してから梢が社長室に入るおよそ一時間の間に、犯人は再度現場へおもむき死体を塗装しナイフと稲舛が持ち込んだ殺人道具一式を持ち去ったのだ。
 もしかしたら、稲舛が最初に社長室へ入ったときに、犯人はまだ社長室の中にいたのだろうか。例えば机の下に隠れていれば、十分に稲舛をやり過ごすことが可能だ。
「あの、何かの見立て、とかじゃないでしょうか。えと、ミステリーとかであるじゃないですか」
「その場合は何に見立てたか、そして誰に向けての見立てか、ということが重要になるでしょう」
「一応聞きますが、何か心当たりのある方はいますか?」
 月成が冗談交じりに言ったが、それには誰も応えなかった。肩をすくめて「ほらね」と言った。
「多分猟奇殺人とかそういうのですよ。変質者の理屈です」
「ボクは外部犯の可能性は低いと考えています」
「つまり何ですか、私たちの中に犯人がいるとおっしゃる」
「ええ。ボクと宮藤を除いた四人の中に、です」
「ちゃっかり自分は抜かすわけですね。本当に悪質な人だ」
 月成はそれ以上この話題にこだわるのをやめて、そうだなあと顎を撫でながら考えを話した。
「例えば死体に誤ってペンキをこぼしてしまい、それを隠すためにスプレーで一色に塗装した」
「犯人がペンキの跡を隠す理由が分かりません。自分のミスを予想して犯人があらかじめスプレーを用意していたと考えるのは不自然です。犯人はいつもスプレーを持ち歩いているのですか?」
「私たちに恐怖を与えるため」
「月成はあの状況を見て恐怖を覚えましたか?」
「一色に染めた、というのが何をモチーフにしているか、ですね。……色、単色。うーん、よく分からないな。色のイメージかな。正義感、純粋さ、もしくは無。犯人の心理が顕現しているのか。それともカモフラージュ……」
 後半はほとんど月成の独り言だった。稲舛と梢は意味が分からずに呆然として聞いている。対照的に入瀬は興味深そうに、身を乗り出して月成の言葉を聞いていた。取りこぼしがないよう、貪欲に。そんな入瀬の態度に気づいて、月成は慌てて言葉を止めた。
「次の質問です。味谷の様子はどうですか? 何か変わったところはありましたか?」
 それには梢も月成も口ごもってしまい、仕方なく稲舛が答えることになる。
「いつもと同じでしたよ。相変わらず、性格は悪かったですが」
「味谷は性格が悪い」
 稲舛の言葉を入瀬が復唱する。
「悪いというか、意地が悪いというか」
「味谷を恨んでいるような人に心当たりは?」
 今度は稲舛も黙った。稲舛自身も味谷に恨みを持っていたわけであるが、その点を除いても味谷を恨んでいる人間は多そうだ。ただでさえ金貸しは恨まれるというのに、あの性格では。
 三人の沈黙を聞いて、入瀬は大体の事情を察したらしい。それ以上の追求はなかった。
 そのとき、新沢が刑事に連れられて戻ってくる。
「次は稲舛さん。お願いします」
 とうとう順番が来てしまった。後ろめたいことがある稲舛が戦々恐々としていると、その様子を見た月成が呑気な声で励ました。
「なに、刑事さんの質問に答えるだけですよ。殺人を犯すよりはよっぽど簡単です」
 月成は前髪を掻き上げる。左手首に、蛇をかたどったシルバーバングルが鈍く光っていた。


 事件のあった日から二週間が過ぎていた。
 あれからミニツグは別の経営者によって引き継がれていた。味谷の友人を自称している、やくざまがいの男だ。ミニツグは今や完全に暴力団の下部組織になってしまったのだ。
 稲舛はあの後すぐにミニツグを退職している。味谷のこともあるが、あの職場に渦巻いている悪意のようなものに耐えられなかったのだ。味谷を殺した犯人がこの中にいる、と考えてしまっては、今まで通りに素知らぬ顔で働くことなど不可能だ。
 入瀬たちが稲舛のアパートを訪ねてきたのはその日の午後だった。インターホンが鳴って玄関を開けると、そこには車椅子に乗った入瀬と、その後ろには影のように付き添う宮藤の姿があった。
 稲舛が二人を部屋に通そうとすると、宮藤が入瀬の体を抱き上げて居間まで運んだ。稲舛に断ってから、入瀬の車椅子を折りたたんで玄関に立てかける。
「宮藤はボクの足となり目となる存在です。宮藤には本当に感謝していますよ」
 宮藤に運ばれながら入瀬がそう言うと、宮藤は恭しく頭を下げて恐れ入りますと答えた。
 稲舛は突然の来訪に戸惑いながらも、とりあえず二人のために茶を差し出した。
「こんにちは、稲舛」今さら挨拶もないだろう。「時間がないので本題に入りましょう。今日ボクは味谷の事件を解決するためにここに来ました」
 にこやかな笑みを浮かべるが、その言葉には有無を言わさない圧力のようなものが含まれていた。
「根拠はないのですが、稲舛は何かを隠しているとボクは考えています。ボクがそれを聞けば事件は本当に解決します。稲舛は話したくないでしょうが、どうか答えてください」
 その言葉に、この二週間稲舛の中で溜まり続けた何かが決壊した。ほとんど衝動に任せるがまま、稲舛は事件当日に起きた本当のことを入瀬に話していた。稲舛が復讐を計画していたことを話しても、入瀬にはほとんどリアクションがなかった。
「なるほどね……。ボクが分からなかったところがすべて解決されました」
「……それじゃ、犯人も分かったんですか?」
「犯人?」意表を突かれたと言わんばかりに入瀬が驚いた。「ああ、その問題はすでに解決しています。ボクが知りたかったのはそれではありません」
「教えてください。あの日何があったんですか? 俺、そのせいでずっとくすぶってて――」
「その前にボクが質問します。稲舛はあの事件のことをどのように考えているのですか? 稲舛は真相が分からないとしてもそれなりに想像しているのではありませんか? これはボクの好奇心を満たすための質問です」
「それは――」
 稲舛は意を決して、この二週間で考えた推理を入瀬に話し始めた。
「最大の謎はあの密室――犯人はどうやって社長室へ入ったのか、ということです。しかしこれは、そもそも犯人は社長室に入らなかったと考えればすべての謎は消滅します。つまり、俺が社長室への出入りを見ていた時間には、犯人は出入りしていないのです。では俺が見た死体は何かというと、あれは味谷が俺を驚かそうとして死んだ振りをしていたんだと思います」
 言いながら味谷の嫌らしい笑みを思い出していた。まるで蛇のような、狡猾で獰猛な双眸。あのときの味谷は稲舛の殺意に気づいていたのではないか。それを最大限に利用して稲舛をいたぶるために、死んだ振りなどというふざけた悪戯を思いついたのではないか。
 しかし、その効果は抜群だった。
「味谷は死んだ振りで俺を驚かせます。俺が怖くなって会社を逃げ出したその後で、昼食を終えて戻ってきた月成さんに殺されたのです」
「では稲舛は月成が殺人犯だと思うのですね」
「……まあ」
 稲舛は曖昧に肯定した。
「その根拠をボクに教えてください」
「月成さんの言葉に不自然な点があったからです。その、後から思い出したんですけど……。月成さん、色のイメージについて話すとき、『正義感』とか『純粋さ』とか『無』とか言ってましたよね。それで調べたんですけど、『無』はまあ譲るとしても、正義感とか純粋さって明らかに一般的なイメージじゃないですよね。それはもちろん、色のイメージですから個人差はあると思いますけど。でも普通、『純粋』って言ったら黒じゃなくて白ですよね。味谷の死体は黒に塗装されていたし、俺が読んだ鶴井の小説だって死体は黒に塗装されてたんですよ。だったら月成さんの思い込んでいた『白』のイメージってどこから来たのかなぁ……って」
 最後の方は語尾を濁してしまった。穴だらけの推理であることは自覚していた。それゆえに、推理の専門家である探偵にこんな素人考えを話すのは赤面モノだった。
 稲舛は味谷の死体を見たときのことを思い出す。まるで燃え尽きて炭になってしまったかのような真っ黒の死体。カーペットの色も黒だったので、死体とカーペットが同化して溶け込んでしまっているようにも見えた。あれほど強烈な光景を見てどこから白のイメージが出てきたのか、稲舛には想像できない。
 入瀬は稲舛の推理を面白そうに聞いていた。やがて一度頷くと、
「実はボクも稲舛と同じ事を考えていました。稲舛の推理は悪くありませんよ。ただし、ある情報によってその可能性は否定されます。稲舛が二度目に――つまり、梢たちと一緒に社長室へ入り、味谷の塗装された死体を見たとき、味谷の服は以前見たときと同じでしたか?」
 稲舛は記憶をたどる。真っ黒だったので色は分からないが、やつの服を見て特に違和感は感じなかったはずだ。
「だとしたら不自然です。たとえば味谷が玩具のナイフと偽の血液を使って死んだ振りをしたのなら、月成が会社に来る時間まで服も着替えずにいる理由がありません。死んだ振りを計画していたなら当然着替えは用意しているはずです」
「なるほど、確かに変ですけど……。それじゃあ、俺が見た死体は何だったんですか?」
「その前に、ボクは稲舛の疑問を解決しましょう。月成が黒の死体を白の死体だと間違えたのには理由があるのです。稲舛は知らなかったようですが、鶴井は自分の小説を、現実の事件をもとにして書いていたのです。白宝館という、とある日本の富豪がアメリカのミズーリに建てた別荘で起きた事件です。犯人も被害者も日本人でしたけれど、色々と政治的な圧力が掛かって日本では報道されていませんけどね」
「白宝館……。俺が読んだ鶴井の小説では黒宝館となってました。もちろん、舞台は日本で」
「アメリカの白宝館での事件を解決したのが鶴井なのですよ。鶴井こそ本物の名探偵だったのです。そのときの死体は犯人によって白いスプレーで塗装されていました。鶴井はこの事件をもとにあの小説を書いたのです。もちろん、現実の事件に配慮して、トリックや舞台や登場人物も大幅に変更してありますが、死体にスプレーをかけるという発想は同じです」
 生前の鶴井が、小説に詰まるとふらりと旅行に行くことを思い出した。あれは、もしかしたら小説のネタになるような事件をあちこちで探していたのではないか……?
「月成はその白宝館での本物の事件に巻き込まれているのです。当時は結婚する前で竿田という名前でしたが。そのときのイメージが強くて、塗装された死体は白だとつい考えてしまったのです」
「……それじゃあ、月成さんは犯人ではない?」
「昼食を食べ終えた月成が味谷の死体を塗装したのは事実です。本人も認めていますから。どうやら死んだ鶴井の復讐のためにミニツグに来たようです。味谷を殺す機会を伺っていたのですね。鶴井の鎮魂のために死体を装飾したという思考の流れも同一でした。スプレー缶を処分したのは復讐心を同じくする正体不明の殺人者を庇ったのですね。どうせなら二人が共闘して味谷を殺せばよかったんですよ」
 そう言ってから入瀬は上品に笑った。どうやら冗談のつもりらしいが、稲舛には何が面白いのか分からなかった。
「味谷が死んだ振りをしていないのならば、稲舛が味谷の死体を見た時点で味谷は殺されていたということになります。味谷が社長室に入ってから昼に死体となって発見されるまでの間、ミニツグの社員のうちアリバイがない時間があるのは梢だけです。よって梢が犯人です。すでに逮捕されていますが。稲舛は本当にこのことを知らなかったのですか?」
「そんな……。どうやって社長室に入ったと言うんですか?」
「それは逆なのです。梢が社長室に入ったのではなくて、味谷が社長室から出て行ったのです。別の言葉で言えば、味谷はミニツグからこっそり抜け出して、外で梢と会っていたのです。裏口は外から開けることはできませんが、内から開けることは可能です。そして、稲舛の席から廊下を監視することはできても、裏口の方までは目が届きません」
「いや、だけど、俺が社長室に入ったときには鍵が掛かってたはずですが、それはどうなるんです?」
「順を追って説明しましょう。午前中、梢は会社の外で味谷に命じられた仕事を終えた後、そこで偶然味谷と会います。もちろん事前に約束をしていたのかもしれません。味谷と梢には深い関係があって、それが理由で味谷を殺したのかもしれません。それはともかく、梢はそこで味谷を殺しました。しかしそのまま味谷の死体を外へ放置しておくことが梢にはできなかった。味谷の死体が会社の外で発見されて、ミニツグの社員で外へ出たのは梢だけという状況なのです。このままでは自分に疑いが向けられると考えて、味谷の死体を会社の中に運ぶことにしたのです。これならば、死体は社内で見つかることになり、社員の中で唯一外に出た梢が特別疑われることもなくなるでしょう。それが合理的かどうか、ではなくて、梢はそう考えた、ということです」
 味谷の死体を社外に運ぶことで容疑を逃れようとした稲舛とはまったく逆の発想だ。殺害時に社外にいた梢と社内にいるはずの稲舛。ちょうど鏡に映したみたいに、正反対の理論だ。
「梢はすぐにでも死体を社長室に戻そうとしますが、その時点では会社には他の社員が残っていて危険が高い。そこで死体は彼女の車の中に残して、実際に社長室へ運ぶのは、みんなが昼食を食べに外へ出ているときが適当だと考えます。ところが稲舛がひとりで会社に残ると言い出した。梢にとっては自分一人だけが会社に残る、という展開が理想だったはずです。結局、梢は稲舛に押し切られる形で、稲舛を外に出すことができませんでした。仕方がないので梢は危険を承知で死体を裏口から社長室へ運び込みます。裏口の鍵は味谷が外へ出たときのままになっていたので当然開いていますね。梢は裏口の鍵を掛け、社長室に入り、そこでも鍵を掛けます。死体と一緒にいるところを見られては一巻の終わりですからね。ちょうどそのとき、稲舛が社長室へ来たのです。出るに出られず、梢は机の下に潜って稲舛をやり過ごすことにしたのです」
 そうか、やはりあのとき、社長室には犯人がいたのか――とぼんやりと考えると、今さらながらそのときの恐怖が蘇ってきて稲舛はわずかに身震いした。
「稲舛が社長室を出て行きました。今通報されるのはまずい。もしかしたら机の下に隠れている自分を彼は見ているかもしれない――と梢が考えたかどうかは知りませんが、とにかく梢は死体のナイフを引き抜き、稲舛の後を追います。が、そこにはすでに稲舛の姿はない。仕方がないので梢はそのまま家に帰ることにしました。半ば諦めていたでしょう。ところがその後、昼休みを終えて出社してみると、まだ死体が発見された様子がない。稲舛は通報しなかったのです。ここで梢は稲舛が自分をかばってくれたのだと思い込んだのでしょうね。安心して死体の第一発見者となったのです。もちろん稲舛と同様に、死体がスプレーで着色されていたのを見たときは心底驚いたはずですが」
「ええ、でしょうね。その気持ちは分かります」
 予想外の事態に大混乱に陥っていた稲舛と同様に、真犯人の梢の方でも同じような混乱があったに違いない。月成にしたって、誰かの殺人に便乗する形でスプレーを使っただけだから、この中に犯人がいると考えて、頭の中ではあれこれと推理を働かせていたのかもしれない。
「にしても、よく平然としれいられましたね。もし俺に姿を見られたら、って考えると、気が気じゃないと思うんですけど」
「どうやら梢は稲舛が自分をかばってくれているのだと思い込んでいたようですね」
 まったくの買いかぶりだ。そもそも自分は犯人が誰なのかすら分からなかったのだから。
「そりゃ、ずいぶんと楽観的なんですね」
「梢は稲舛が自分に気があるのだと思い込んでいたようです」
「はあ?」今度は仰天した。「ま、まさか。そんなのあり得ないですよ。失礼な。社長じゃないんですから」
「そこまで嫌がることはないでしょう。彼女に失礼ですよ?」
「彼女?」そこで入瀬の勘違いにやっと気がついた。「もしかして、梢が女だと思っているんですか?」
「……違うのですか?」
「そりゃ、声は高いし、しゃべり方も女みたいですけど……」稲舛は言葉を濁した。「顔を見れば一目瞭然ですよ。あれで女だと思うのは目の見えない人間だけです」
「そうなのですか? 宮藤」
「ええ、はい。おっしゃる通りでございます。配慮が至らず、申し訳ございませんでした」
「それでは味谷は――」
「そういう趣味があったんですよ。だから俺は味谷が嫌いだった。ミニツグの社員がすぐに辞めるのも、あいつにセクハラまがいのことをされるからですよ」
 稲舛は溜め息を吐いた。職がなかったとはいえ、あんなところに勤めたおかげで、友人の命を含め様々なものを失ってしまった。
「大体、梢さんが犯人だって分かってるなら、あの人が男だってのも分かると思うんですけど。だって入瀬さんの推理だと、梢さんは味谷の死体を一階から三階まで担いで登ったわけですよ? それなりに体力がないと、あの体格の人間一人を運ぶのは無理でしょう。まあ女性には不可能だとは言いませんが、少なくとも入瀬さんの考えているようなキャラクターじゃないことは確かですよ」
 その点には思い至らなかったのか、稲舛の言葉を聞いて入瀬が唸る。
「梢さん、入瀬さんのことをずいぶん気に入っていたみたいですよ。話しているときも、なんとなく照れて顔が赤くなってたし。梢さんが簡単に自供したのって、案外入瀬さんのおかげかもしれませんね」
 稲舛がそう言うと、入瀬は困った表情をして曖昧に笑った。


《 死よ、純白に彩られ / The pure black murder 》
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