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アステリアの祝日


 メイド長のひたすら長いだけの話を、テスティアは表情を動かさずにぼんやりと聞き流していた。
 メイドとしての教育を終えたばかりの新人達が横一列に並んでいる様はまるで軍隊のようである。その列の一番端にテスティアがいた。

「いいですか、宮廷侍女たるもの――」

 質素に優雅に可憐に穏やかに――。
 テスティアが口の中で呟いた通りのことを続けてメイド長がのたまった。当たり前である、そのフレーズを教育と称する説教の中で何度聞かされたことか。

 テスティアたちは宮廷侍女である。いや、正確には宮廷侍女になっている最中――メイド長の演説が終わって仕事を任じられれば、その時点から一人前の宮廷侍女ということになる。
 宮廷侍女の主な仕事は王城に住む官僚や大臣たちの身の回りの雑務と城の保全。雑用と言えば聞こえは悪いが、しかし政府の役職に務める貴族たちと日常的に接することが許されているという点で、この職に特権階級的な幻想を抱いている人々は後をたたない。

 新人メイドたちの前で、軍事教官のように行ったり来たりしながら演説するメイド長の隙をうかがって、顔を動かさずに目だけで左右の顔ぶれを見た。
 ほとんどの人がこれからのことを考えて緊張しているようで、表情が引き締まっているというよりは引き攣っているという表現の方が相応しい少女もいる。
 もちろんテスティアも緊張していないわけではなかったが、その理由は他の娘たちとは大きく異なる。

 テスティアは暗殺者だった。
 彼女の本当の主人はアリニパレスの暗黒街のボス――。テスティア自身は一度も顔を見たことはないが、彼(彼女?)がアステリア王国全土に広がる犯罪組織をすべて牛耳っていることは身に染みて知っている。
 彼女がメイドになったのは、王城の内部に侵入し、もし暗黒街から暗殺指令が出たならば直ちにそれを実行するためである。
 隣に緊張して並んでいる箱入り娘たちとはくぐってきた修羅場の数が違う。その自負がテスティアの心に子供っぽい優越感をもたらしていた。

「――テスティア、聞いているのですか?」
「はい、侍女長」
「いいですかテスティア、あなたのもちうるすべてを捧げてご奉仕するのです。あなたが得るものは何ですか?」
「ご主人様の喜びと安息です」
「よろしい。テスティア、あなたは優秀なメイドです。わたしはあなたに期待しています」
「恐縮です、侍女長」

 まったく恐縮した様子もなくテスティアが答えた。
 それを見てメイド長は満足したふうに二度三度頷いた。

 長い長い話が終わり、今度はそれぞれの新人メイドたちが仕える主人が副メイド長から直々に通達される。
 娘たちは自分の主人となる人の名前を教えられ、ある者は緊張し、ある者は安堵し、口に出さずともその顔には一喜一憂がありありと浮かんでいる。それを見ていたメイド長が空咳をして睨みを効かすと彼女たちは慌てて自分の表情を取り繕った。

 テスティアの番が来た。
 名前を呼ばれて一歩前に出る。

「テスティア、あなたにはニクス・ビクト・リュミエール様に仕えてもらいます」
「ニクス、様?」

 ここに潜入する前にアステリア王国の要職に就いている人物はすべて頭に入れている。しかしニクスという名前の人物には心当たりがなかった。ということは要職ではなくて、あるいはどこかの閑職の人物なのだろうか。
 テスティアの疑問符を察したのか、メイド長がわずかな説明を加える。

「ニクス・ビクト・リュミエール様は先代の法務相リュミエール公爵の次男です。ニクス様も今年から法務部門にお勤めなさることになりました。ニクス様はまだお若い方でいらっしゃいますから、あなたの助けが必要です。公私共に支えて差し上げなさい」
「わかりました、侍女長。このテスティア・フランドル、天地神明に賭けてお仕えさせていただきます」

 恭しく頭を下げるとメイド長が満足したように頷くのが分かった。
 公爵号を授かったリュミエール家の次男……。そして法務部門。悪くない、とテスティアは思った。




 メイド長から正式な文書を渡されて、自分の『ご主人様』がいるらしい法務部門の棟を目指して王城の中を歩く。
 最初にここに来たときテスティアはまだメイド見習いだったが、そのときに建物の構造のほとんどは頭に叩き込んである。王城の住人ですら迷うことのあるアリニパレスの城の中をテスティアは迷うことなく歩いていた。

 目的の部屋はすぐに見つかった。
 テスティアの記憶ではこの部屋は別の人間が使っていたはずだが、どうやら持ち主が変わったらしい。
 今はまだ法務部門の一秘書官らしいが、リュミエール家の次男ならば出世も早いだろう。将来の法務相筆頭候補だ。せいぜい今のうちに取り入っておくか、などと黒いことを考えながら、木の重厚なドアをノックする。
 再びノック。返事がない。

「ニクス様。侍女のテスティアでございます。入ってもよろしいでしょうか」

 中に向けて声をかけてみたがやはり返事はない。一応ドアを開けようとしてみたが、鍵が掛かっていてびくともしない。
 外出しているのだろうか。しかしこの時間帯――昼を過ぎたばかりだというのに部屋にいないというのは妙だ。つまりそれは仕事をしていないということなんじゃ…?

「わ、わ、わ!」

 気弱な男の子の声が聞こえたので振り返ってみると、古い本や羊皮紙の束を山のように抱え、ふらふらと左右に揺れながら廊下を歩く人物がいた。
 背はテスティアよりも低く体も小柄だ。おかげで大量に抱えた荷物のせいで前がほとんど見えていないようだった。服のセンスはないようで、どこか古臭くて野暮ったい、その割には少し派手な上着を着ていて全体の調和が取れていない。自分で選んだというよりも人から薦められた服をそのまま着ているような感じだった。
 ぐら、と抱えている束が傾く。テスティアは素早く歩み寄って倒れかかったそれを手で支えた。近くで見れば男の子だと思っていたその人物は子供ではなくて、テスティアと同じくらいの年頃の男だった。

「うわ――って、え?」
「一度にこんなにたくさん抱えて、一体どうしたの?」
「あ、ありがとう」
「ありがとう、じゃないわよ。もしこれだけのものを一度に運んで、廊下にばら撒いてしまったらどうするつもり? あんた前も見えてないじゃない。もし廊下の向かいから大臣がやって来て、前が見えずにぶつかったらどう責任を取るの?」
「あ、いや、それは」
「それは何?」
「す、すいませんでした……」

 男は小さくなって謝った。
 きっとこの男は誰かの執事なのだろうと思う。主人に本や書類を持ってくるように頼まれたのだろうが、こうも大量に一度に運んでは逆に危ない。
 王城では女の小姓が一般的だったが男の小姓がまったくいないというわけではない。ポケットマネーを使って個人的に手伝いを雇うこともあるのだ。その場合は雑用や身の回りの世話だけではなく仕事の手伝いもさせるのが普通だった。

 にしてもこの男、雑用以外のこともできるのだろうか。
 見た限り、かなり要領が悪そうである。こんな男に自分の仕事を任せる人間の気が知れない――などと思っていると、男はまだ荷物を大事そうに抱えたままテスティアの前を動こうとしなかった。

「何? まだわたしに何か用が?」
「あの、そこ」
「はい?」
「どいてくれないと、中に入れないんだけど……」

 抱えた手の指だけを動かして、ニクスの部屋を指差す。
 ああ、もしかしてこの男、ニクス・ビクト・リュミエールに雇われているのか…。もしかしなくても、ニクスという人物は相当に人を見る目がないのかもしれない。

「残念だけど、ニクス様はお部屋にはいらっしゃらないみたいよ」
「知ってるけど」

 そう言っていったん本と書類を床に置いた後、懐の中から鍵を取り出してドアの鍵穴に差し込んだ。
 ドアを開けて、再び本と書類の束を抱えて部屋の中に入る。

「あの……」
「どうしたの? もしかして、ここに用があるの?」
「あの、あなたは……」
「僕の名前はニクス・リュミエールだよ。このあいだ法務相の秘書官になったけど。そういえば今日は専属のメイドさんが来るはずなんだけど、いつ来るのかなぁ。きみ、知らない?」




「あの、先ほどは大変失礼しました」
「いっていいって、気にしてないよ。あ、ごめんね、まだ部屋を片付けてなくて。ここに越してからまだ落ち着いてなくて…あ、今お茶を淹れるから」
「それはわたしの仕事です!」

 なぜかテスティアをもてなそうとするニクスを押し留めて、なんとか執務用のデスクに座らせる。
 部屋の中には梱包された荷物があちこちに置かれていた。家具の類も置いてあるがとりあえず運び込んだというだけでまだ使われた形跡がない。自分の最初の仕事はどうやらこの部屋を片付けることになりそうだった。
 ニクスは執務机の椅子に座っているが、背もたれが大きすぎるのが気になるようだ。しきりに背中の方に目をやっている。

「それにしても驚いたよ、君が僕の専属だなんてね」
「申しわけございませんでした。知らなかったとは言え、わたしは大変失礼なことを……」
「いや、だからいいて。それにテスティアの言ってることはもっともだったしね。だから僕はてっきり、きみはどこかの大貴族の娘さんだと思ってたんだよ。何となく高貴な感じがするし」
「はあ……」

 いやメイド服着てるんだから貴族なわけないだろ、という言葉を喉の奥に引っ込めた。どうやらニクスという男、相当にのんびりとした人物らしい。ここまでマイペースな人物は王城でも珍しい。

「改めて自己紹介させてもらうとね、僕の名前はニクス・ビクト――」
「存じ上げております。かの高名なリュミエール家の……」
「そういうのはやめてくれないかなぁ。僕の家のことは関係ないよ。僕は僕だから」

 形の良い眉をへの字に曲げてニクスが抗議する。本人は怒っているようだがその言い方も含めて子供っぽい。
 テスティアが恐縮して(恐縮したふりをして)顔を伏せるとニクスが慌てて撤回した。

「いや、別に気にしなくてもいいんだよ。うん、まあ普通なら家のことが気になるよね。でも僕は家のことじゃなくて、なんていうかな、僕のことを見てほしいというか。えーと」
「つまり、リュミエール家の次男ということで贔屓するのではなく、ニクスという一人の人間として評価してほしい……と、そういうことでしょうか」
「うん、そうだね。多分そういうの。僕はこのあいだ法務部門の秘書官になったばかりだから、王城のこともよく分からないし…多分色々迷惑を掛けると思うけど、えーと、もし僕に悪いところがあったり足りないところがあったら、さっきみたいに気にせず言ってくれると嬉しい」
「はい。かしこまりました」
「ありがとう。きみのような人が僕のお付でよかったよ」

 ニクスが安堵したように笑みを浮べた。純真で陰りのない笑み。
 テスティアは頭を下げながら、ニクスの顔を探るように見つめていた。




 テスティアのメイドとしての生活が始まった。
 と言ってもメイドの仕事は嫌というほどに訓練を積んでいる。人を殺すことと同じくらいにはうまくやる自信があった。
 来客があったときの案内と仕事が終わった後の部屋の片付けに始まり、ニクスが困っているとき、何かに悩んでいるときにさりげなく助言や紅茶を出すのもテスティアの仕事に含まれる。

 ニクスは勤勉だった。とても向上心があり、人の言葉に耳を傾け、決して自分に妥協しなかった。
 しかし彼の天性のおっちょこちょいがニクスの仕事の成果を邪魔しているようだった。一所懸命なのだがどうしても結果が伴わない。とにかく要領が悪いのである。
 だけどその点に目を瞑ればニクスは申し分のない素晴らしい人だ。ひたむきで真面目で思いやりにあふれ、自分の家のことを鼻にかけたりコネを使って自分の仕事を強引に押し通そうとすることもない。

(そんなに潔癖だから、いつも割に合わない目ばかりに遭うのよ…)

 ニクスの仕事ぶりを見ていてイライラさせられることも多いテスティアだった。ニクスにはリュミエール家の名前という最大の武器があるのにそれを決して使おうとしない。
 それはニクスの、自分の家の名前ではなく自分自身のことを評価して欲しい、という哲学なのだろうが、しかしテスティアに言わせればニクスはただの意地っ張り、もしくは馬鹿である。
 テスティアは結果至上主義ではなかったけれど、ある程度の結果を得られるのならば自分の主義や哲学を躊躇いなく曲げられる人間だった。それは暗黒街で受けた暗殺者としての教育の賜物ではなく、組織に拾われるまで彼女が生きていた治安の悪い『がらくたの街』での経験則であった。
 あの場所と比べれば、ここは天国だ。
 そう思うと、ニクスの頑張りも、苦労も、苦悩も、すべてが些末で矮小なものに思えてくる。

「んー、これは…えーと……むう……」

 日が落ちて空が赤らみ始めたころ、未だに慣れない行政関係の書類に頭を抱えるニクスをテスティアは冷めた目で見つめていた。
 まだまだ書かなければならないこと、判断しなければならないことが山のようにある。現在財務相の秘書官は四人いるが、逆に言えば毎日それだけ処理しなければならない案件が発生しているということだ。
 重大な判断や全体の方向性を決めることは財務相の仕事だったが、その分ニクスの方には非常に細かくて機転や調整を必要とする仕事が回ってくることが多かった。

「ニクス様――」
「ん。ありがと」
「いえ、紅茶ではありません」

 なんだい、と机から目を上げてテスティアの方を見る。ニクスは美男子だが童顔だった。大きな机と彼の仕事内容が非常にミスマッチである。

「そろそろお夕食の時間です。食堂に行かれますか?」
「いや、まだ全然終わりそうにない…。ここで食べることにするよ」
「ではお食事をお運びいたします」
「そうして。テスティアも一緒に食べよう」
「わたしはニクス様が召し上がってから頂きます」

 それでは、と一礼して部屋を出た。ニクスが残念そうな顔をしたのが分かった。

 食堂と言っても宿場町によく見られるような大衆食堂とは大きく異なる。銀の飾りやガラス細工の窓に彩られた貴族の食事所である。
 基本的には食事は食堂で食べることになっているが、要職に就いている人物や特殊な仕事を賜っている貴族は生活が不規則になりやすい。そうなった場合、自分の部屋が与えられた役人なら食事を自室に運んで済ませてしまう場合が多い。
 しかしアステリア王国の貴族文化では食堂での食事が貴族同士の社交場、あるいは情報交換の場になっている場合もあるので、みだりに自室で食事を済ませるのはあまり褒められたことでもないのだ。

(ほんと、貴族って不自由…)

 テスティアはたまに、飼い犬である自分の鎖が恨めしく思うことがあった。メイドとして組織子飼いの暗殺者として、誰かの命令に従って生きる。
 昔に比べると、今は暖かい寝床と上等な食事が与えられ、盗賊に襲われることもなければ災害に巻き込まれることもない。格段によくはなっているはずなのだけれど、でも本当にこれでいいのだろうか。
 貴族と暗殺者。ニクスとテスティア。不自由なのはどちらだろう。

 厨房に向かう途中、食堂に向かう貴族とその付き人が何人かいた。そういった人たちに遭遇するたびに立ち止まり、道を開けて頭を下げる。
 大抵の貴族の顔と名前、そしてアステリアの政治においてどの程度の影響力があるのか、ということが頭に入っている。無論、どんな暗殺指令が出ても迅速に確実に対処するための準備だった。

 厨房の裏口から声を掛け、コックの一人に事情を話して料理を準備してもらう。年配のコックは嫌な顔を隠そうともしないで厨房に戻って行った。
 しばらく一人で待たされる。厨房の奥からは水を使う音、人の声、足音が騒がしく聞こえた。

 ――――背後に気配を感じて素早く振り向く。
 テスティアの手にはすでにナイフが握られていた。いつも袖口に忍ばせている投擲用の短刀。
 そこに立っていたのはコックだった。手には鉄の大きな鍋。外で洗い物をしてきたらしく、鍋の中にはピカピカの食器が何枚も入っていた。

「わたしの背後に立たないで。殺されても文句は言えないわよ」
「そんなことをしてみろ。すぐに暗殺指令が飛ぶぜ」

 まだ見習いのそのコックとテスティアがにらみ合った。
 もし厨房にいる先輩たちが今のコックを見れば、彼の凄みと殺気に腰を抜かすかもしれない。普段の気弱で軟弱な人格はどこにも見えなかった。
 テスティアは刃物を再び袖口の奥に仕舞う。

「状況は?」
「財務相の秘書官。場合によっては中央にも入れる」
「クイーンには会えそうか?」
「面会そのものが禁じられているらしいわ。六長官でも難しいらしい」
「了解した。ランス、別命あるまで待機せよ」
「承知した、タワー」

 普通のアステリア人には分からない――西にあった今はもう滅んでしまった公国の言葉で会話をする。もちろん、この言語を使うのは機密を守るためという以上の意味はない。ランス、タワーはお互いのコードネームである。
 コックの名前はアクディッツ・ヴァラン。ついこの間新人の料理人として王城にやって来たばかりの男だが、もちろんテスティアと同じくその名は本名ではない。
 彼も組織の一員だった。役割は、王城に潜伏しているエージェントたちの連絡員。
 もしテスティアが組織を裏切れば、組織にそれを告発するのがアクディッツである。

「秘書官の名前は?」
「そこまで報告する義務があるの?」
「これはただの雑談だ」
「ニクス・リュミエール。リュミエール家の次男らしいわ」
「名前を聞いたことがあるな。美男子と聞くが、どうなんだ?」
「さあ。一応そういう部類には入るんじゃないかしら」

 興味なさげに答えると、アクディッツがいやらしい笑いを見せた。

「ニクスと執務室に二人きり、か」
「やめて。そんなんじゃないわ」
「お前の好みじゃないのか?」

 テスティアは沈黙をもって答えた。何か言って揚げ足を取られるよりは、このまま言いたい放題言われる方がまだマシだと思ったからだ。

「警告しておくが――」
「聞き飽きたわ」
「そのニクスとやらもいつ対象になるかわからないんだ。暗殺者が暗殺対象に恋などするなよ。そうなったら組織はお前を生かしておかない」
「あら、わたしを殺せるような人間が、この国にいるのかしら」

 「おーい、お嬢ちゃん」と声がして、さっきのコックが料理を盆に載せて持ってきた。
 自然と会話は中断し、アクディッツは再び猫を被って無邪気な人格を演じつつ厨房に戻って行った。




「街を見たい……ですか?」
「うん。それも貴族の屋敷とか教会とかじゃなくて、市場とか居住区とか」

 ニクスからアリニパレスの街を見たいと相談を受けたのはその七日後だった。
 突然の話題にテスティアは怪訝な顔で問い返す。

「でしたら行政部門の方に申請を出してはいかがでしょうか。政をなさる方が一般庶民の暮らしを視察なさるのは、それほど珍しいことでもないと聞いていますし」
「いや、そういうのじゃ駄目なんだ。だってあれ、ぞろぞろと何十人も護衛の騎兵や剣士がついて来るじゃないか。おまけに視察できるのは治安に問題のない貴族たちの居住地だけ。そんなので本当のアリニパレスの生活が見られるわけじゃない。それに――」
「それに?」
「申請ならもう出したよ。却下されたけど」
「却下……されたのですか?」
「多分、うちの人が圧力を掛けたんだろうね。貴族ともあろう者が、平民に媚を売るとは何事か、なんてね。お母様が言いそうなことだよ」

 ニクスは絶望的につぶやいて、机の上で頭を抱えた。
 リュミエール家がニクスの視察申請を握りつぶしたのはもしかしたらそれ以外の理由もあるのかもしれない。
 名門のリュミエール家、裏を返せばそれだけ政敵が多いということだ。王城の中にいれば安全なものを、わざわざ外に出るのは、確かに危険な行為かもしれない。

「却下されたのでしたらどうしようもありませんね。残念ですが諦めるしか……」
「だからテスティア、僕はこっそりと視察することにしたよ」
「……はい?」
「王城の警備部門に昔の友人がいて、多分あの人に頼めばこっそり裏から外に出してもらえると思うんだ」
「…………は?」

 ぽかん、と口を開けてテスティア。
 少し考えて、ニクスの言っている言葉が何かの比喩ではなくて文字通り以上の意味がないことにやっと確信を持った。

「いや、あの、それはさすがにまずいと思うんですが…」
「ばれなければ大丈夫だよ」
「きっとばれるからまずいと言っているんですけど」
「そこをなんとかしてほしくてテスティアに頼んでるんだよ」
「わたしに規律違反の片棒を担げとおっしゃるんですか?」
「それもあるけど、僕って平民の町をちゃんと歩いたことがないからさ、道案内が必要なんだ。できれば目立ちたくないから、平民の格好をしてこっそりと覗きたいなーって…ダメ?」

 ちょっと紅茶を淹れてくれない? と普段テスティアに頼むのと同じ口調でニクスは言ったが、さすがにこんな重大なことはそう気安く請け負う気にはならない。

「頼むよ、テスティア。他に頼れる人がいないんだ。法律というアステリアの全ての人間を縛るものを作る以上、平民の人たちがどんな暮らしをしているのかを知らないと話にならないんだよ。アステリアの政治を動かしているのは貴族ばかりだけど、貴族が食べてる小麦や肉はみーんな平民が作り出しているものなんだ。大貴族たちは自分たちが生きながらえることばかりを考えてるけど、僕はそうじゃないと思う。平民たちの安定と幸福が、この国全体を豊かにしてくれるんじゃないかと――」
「わかりました。わかりましたから」

 まだまだ続きそうなニクスの話を遮って、テスティアが投げやりに返事をした。




「テ、テスティア、この格好何か変じゃない?」
「そうですか? 大丈夫です、ちゃんと溶け込んでますよ」
「で、でもなー。さっき僕が選んだ服の方が合ってるんじゃないかな」
「ニクス様はサーカスにでも入団されるんですか?」

 次の休日――今日はアステリア王国の祝日だった。
 王城には本日は休暇で帰郷すると申告してある。もちろん実際には、こうして平民の服に変装してアステリアの平民街を歩いているわけだが。

 城外に出るにあたりニクスは変装用の服を自分で準備していたのだが、そのセンスがあまりにもアレだったために仕方なくテスティアがニクスの服を用意することになってしまった。もちろん服などのお金は公費ではなくニクスのポケットマネーである。
 男物の服を選ぶ経験はあまりないので、本当にこの服でいいのかと訊かれれば正直に言ってあまり自信はないテスティアだった。

 二人の目的地は市場だった。まさか本当にテスティアの故郷に案内するわけにもいかないので、とりあえず手っ取り早く平民の生活を見ることが出来る場所、というので深く考えずに選んだ場所だった。
 休日の市場は人でごった返していた。ほとんどお祭り騒ぎだ。今日の祝日は、アステリア王国を建国したとされる古代の神々をあがめるための日だった。と言っても本気でそんな神々をあがめるのは教会の熱心な信徒だけで、大半の国民はただの祭り以上の意味を感じていなかった。
 貴族たちの市場とは違い、ここの市場は粗末なテントを建てただけの簡易な店で商売をしている人がほとんどだ。
 平民の格好をしているとはいえ、それでも一般的な市民のなりよりも立派な服を着ている二人はよく商人から声を掛けられる。言葉巧みに商売文句を並べるやり手の商人に耐性のないニクスは何度か流されて買いそうになったが、そのたびにテスティアが横から出てきてその商談を妨害するのだった。

「ニクス様…露天で声を掛けられるたびに立ち止まるのはいかがなものかと思いますが」
「え……でも……話くらいは聞いてあげないと失礼じゃないの?」
「話だけ聞いて買わないのはもっと失礼ですよ。それならば最初から無視して通り過ぎるのが礼儀というものです」

 テスティアの無茶苦茶な理屈にも「そうか、そういうものなのか」と何度も頷くニクスだった。もし一人でこんなところに来ていたら、手練の商人たちによってたかってカモにされていたことは想像に難くない。
 ニクスが平民の街を見た事がないというのは本当らしく、街にあるもの、人、暮らし、文化、すべてに目を輝かせ、ほんの数リアンの道のりを行くだけで半日を費やしてしまった。

「ニクス様、楽しそうですね」
「初めて見るものばかりだからね。それにこういう服を着るのも初めてだし……。あと、女の子と二人で歩くのも初めて」
「ニクス様、舞踏会や晩餐会に出た経験はないのですか?」
「そりゃ踊ったり一緒に食事をしたりしたことはあるけど……でも、二人で一緒に歩くのって、多分これが初めてだと思う。でも僕たち、けっこう様になってると思わない?」
「ニクス様のその格好、お似合いですよ」
「ありがとう。テスティアのその服は……えーと、新しい服? 新しいの買ったの?」
「…………」
「なんで目を逸らすの」

(言えない……ニクス様から渡されたお金でわたしの分の服も買ったなんて言えない……)

 ニクスが突然立ち止まる。道から少し外れた広場で子供達が遊んでいるのが見えた。ニクスはそちらの方を興味深そうに見ている。
 と思ったら、突然そちらの方に歩き出した。

「あの、ニクス様」
「ちょっとだけだから」

 意味不明の言い訳をして子供達の方へ歩いて行った。
 最初は怪訝な顔をしていた子供達も、ニクスの童顔が威力を発揮したのかあっという間に彼を迎え入れて一緒に遊び始めた。綿を布で丸めた球を足で蹴る遊びだった。

 テスティアも昔、あの遊びをしていた子供達を見たことがある。
 裕福ではなかったけれど、とりあえず生きていけるだけのお金を持っていた子供達。
 自分よりもずっと幸せだった子供達。
 うらやましそうに見ていた自分。とうとう仲間には入れなかった――。
 昔のことを思い出していたら、テン、テン、と小さく跳ねて、テスティアの方にボールが転がってきた。それを追いかけて男の子が走ってくる。

「ねーちゃんもやりなよ。ニクスのダチなんだろー?」
「いや、わたしは…」
「なんだ、ねーちゃん、球蹴りもできないのか? じゃしょうがねえな」
「出来ないなんて言ってないわ。今はやらないってだけで」
「じゃやりなよ。やればできるってのは、できないやつが言うことだってじーちゃんが言ってたぞ」
「だからわたしは――」
「あっそう。やっぱ出来ないんだ。運動音痴なんだ。球蹴りもできないんだ」
「…………いい、根性じゃない、少年。わたしは、そういう安い挑発、乗ることにしてるから」
「じゃ、やるんだな。おーい! このねーちゃんもやるってさ!」

 少年が大声で叫ぶと、球蹴りをしていた子供達が小さく沸いた。ニクスもすっかりそれに馴染んでいる。
 最初にボールを蹴るのはテスティアだった。冷静な暗殺者を自分に言い聞かせていても、根っこの部分ではただの負けず嫌いな少女なのだった。




「はぁ…はぁ…はぁ…っ、ねーちゃんやるじゃねーか」
「ふふっ…はぁ…はぁ…これがわたしの本気よ」

 肩で息をしながら少年とテスティア。
 見れば、他のほとんどの子供達も二人同様に今にも倒れそうか、あるいはすでに倒れているかのどちらかだった。
 すでに日は落ちてしまい、子供達が家に帰らなければならない時刻が迫っている。

「いや、でもすごいよテスティア」

 早々にゲームをリタイアし、ほとんど観戦しかしていなかったニクスが元気な声で言った。

「ありがとうございます、ニクス様……」
「人間があそこまで高く飛べるものだとは思わなかったよ。それに最後の方はすごかったねえ、ほとんどずーっと全力疾走だったし」
「少し大人気なかったですね」
「そうかな。テスティア、楽しそうだったよ」

 子供達に別れを告げる。
 あの子達はこれから自分の家に帰るのだろう。家に帰り、家族に今日のことを話すのだろうか。
 テスティアとニクスの二人も王城に帰らなければならない。夜風が火照った体に気持ちよかった。

「すごいね。夜なのにまだこんなに人がいる。それに商店も…」
「真夜中になるまでここの辺りは人気が絶えませんよ。アリニパレスの市民が一番集まる市場ですから。特に今日は祝日ですし――」
「だよね。すごい活気だ。貴族の優雅な文化もいいけど、こういう活気と熱気のある――」

 テスティアはすでにニクスの話を聞いてはいなかった。意識は背後に向けられている。

(わたしたちの後をつけて来ているのがいる。四人…五人? 一塊になって動いてるあたり、尾行のプロじゃない。目的はわたし? それとも…)

 ちらり、と隣のニクスの顔を盗み見た。彼は自分のおしゃべりと、夜の幻想的な町並みに目を奪われていて、背後の追跡者どころかテスティアの方を見ることすらない。

(いっそそれなら好都合だわ)

 テスティアの足が徐々に遅れ、ニクスが自覚なしに先行する。ある程度距離があいたところで、人ごみに紛れて一気に姿を消した。
 街道の端に寄り、レンガ造りの建物の影に隠れた。相手も建物づたいに、一応隠れながら移動しているらしい。
 テスティアは建物の影で追跡者を待ち伏せることにした。身を隠す直前に一瞬だけ相手を目視できた。相手は五人。体格は良く、ゆったりとした服を着て誤魔化しているが武器を携帯しているのは確実だった。

 どうやら相手の目的はテスティアではなくニクスの方らしい。テスティアが姿を消したにも関わらず依然変わりなく尾行を続けている。
 テスティアは袖に仕込んだナイフを服の上からそっとなぞった。常に武器は携帯している。人ごみで目立つ行為はなるべく避けたい。これを使うような事態は避けたかったのだが…。

 ドン、と空が一瞬明るくなった。花火が上がったのだ。
 市場にごった返している人たちの視線が一斉に空に移る。
 花火に目もくれず、むしろこれ幸いにとニクスとの距離を急激に詰める五人。
 テスティアは建物の影から飛び出し一瞬で襲い掛かった。完全に五人の死角である。

 まずは一人目。こちらの襲撃にまだ気付いていない無防備な後頭部に、大胆にもテスティアは空中からの膝蹴りをお見舞いする。
 首の付け根を横に払うような一撃。骨独特の軽い音がして、一人目の男の体は前に崩れ落ちた。
 ドン、ドン、ドン…花火の炸裂音。七色の光。良い具合に迷彩になってくれている。
 すぐにその近くにいる二人目。目が合った。
 声を出される前に懐に潜り込み鳩尾へ拳を打つ。駄目押しで反対の肘で顎を払う。うめき声を上げて倒れた。

 流石にここで他の三人は気付く。だがもうテスティアの射程内だった。
 バンダナをつけた小柄な男が腰に刺した剣を鞘から抜こうとする。しかしテスティアは素早く手を伸ばし、その剣の柄の頭を押さえてしまった。

「え…………」

 緊急事態に男が一瞬だけ固まる。至近距離での剣の弱点。鞘から抜けない剣ほど邪魔なものはない。
 手刀を男の首に打ち込み、怯んだ隙を突いて後ろ回し蹴り。
 回し蹴りの最中、テスティアの耳は別の剣が鞘から抜ける音を聞いていた。
 バンダナの男を蹴り倒した後、相手の姿も見ずに後ろに下がる。そこをワンテンポ遅れて剣の切っ先が走る。

 残りは二人。いずれも完全に剣を抜いている。髭面の男と長身の男。
 髭面の男が先に飛び出した。斜め上から振り下ろす軌道。しかしテスティアの目の前で無防備に剣を振り上げる行為ほど愚かなことはない。素早く懐に飛び込み、剣を持つ手を取って背負い投げた。
 地面に叩きつけると同時に踵で男の喉を踏み潰す。男は口から泡を吐いて動かなくなった。

 最後の一人。睨みあう。逡巡は一瞬だった。花火がうるさく鳴り響いていた。
 地面を蹴ってこちらに突進してくる。予想以上に早い。剣はレイピア。突きを狙っているのは確実だった。
 剣先が走る。
 テスティアはその切っ先を――膝と肘で挟んで止めた。

「な――」

 男の顔が驚愕で凍る。神速の刃をこんな手段で止める人間など聞いたことがない。
 手元の剣が一切動かせないことを知って、すぐに手放して背中に隠していたナイフを取り出す。順手に持ちテスティアの首を狙って薙ぐ。
 次の瞬間――男の体は地面に叩きつけられていた。どうやらナイフを持つ手をテスティアに取られたことと、そこから柔術のようなもので地面に叩きつけられたということは分かったが、突然のことに頭が真っ白になっている。
 動けない男の腕の間接を、テスティアは容赦なく破壊した。
 男のうめき声は花火に紛れてほとんど聞こえなかった。テスティアは男に近づいて口元に耳を寄せる。

「お、お前…な、なにも………」
「言いなさい。どうしてわたしたちを追けていたの? 誰に頼まれたの?」
「あ、あの男…立ち振る舞いが……貴族だと思って、だから、金を盗ろうと……」
「なに、あなたたち、ただの強盗なの?」

 やれやれ、とテスティアは頭を抱えた。どうやら少し考えすぎたらしい。まあ自分たちを狙う強盗を無傷で排除できたのだから、これはむしろ幸運なんだろうが。
 苦しそうに地面で呻く男たちをその場に残して、人が集まる前にテスティアはその場を退散することにした。




「あ、テスティア! どこに行ってたんだよ、心配したんだよ」
「すみません。ちょっとはぐれてしまいました」
「もうどこにも行かないでくれよ…。それに、見ず知らずの場所に一人というのはものすごく心細いんだから」
「そうですね…。それからニクス様、この辺りは強盗や泥棒が多いですから、あまりはしゃぎすぎて無防備にならないでくださいね」




 結局二人が街に出たことは誰にも知られることはなかった。王城での元通りの生活が再び始まった。
 平民の生活を見た後もニクスの仕事ぶりに特に変わるところはなかったが、以前と比べて仕事によりいっそうの熱が入るようになった。その熱が前よりももっと空回りしているのを、紅茶を運びながらテスティアは内心苦笑して眺めているのだった。
 どうぞ、と机のそばにティーカップを置いた。どうやら今日も食堂での食事はお預けのようだ。

「ありがとう、テスティア」
「お仕事は順調ですか?」
「大変だよ。でも目標が出来たから」
「目標ですか?」
「うん。テスティアのおかげだよ」

 ニクスが無邪気な笑顔を見せる。
 見る人を安心させる笑顔だった。それはテスティアも例外ではない。

「お夕食はいかがなさいますか?」
「そうだね、今日もここで食べようかな」
「かしこまりました」
「テスティアも一緒に食べようよ」
「そうですね…。ではご一緒させていただきます。失礼します」

 驚いた顔のニクスを執務室に残し、テスティアは一礼して部屋を出た。
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