アステリアの休日アステリア王国の休日は、いつも目が痛くなるほどの晴天だった。 冬は終わり、肌寒さが完全になくなったことで、きっと今が一年でもっとも過ごしやすいときなのだろう、とナザレは思った。 アステリア王国の首都アリニパレスは海に面した平野に位置し、周囲をコの字型に囲う山間部が、他の国からの侵攻を遮る天然の城壁となっていた。 ナザレ・スレショルドはアステリア王国第二騎士団団長だ。 彼は貴族ではなく平民の出だが、騎士団の登用試験に合格して現在では貴族と同等の待遇を得るまでになった。 剣の腕に自信はある。ナザレは自分の強さを正確に自覚していた。 しかし、心の底から敵わないと思う人間が五人ばかりいる。 王室財務調査官のリリ・オールトはそのうちの一人だった。 「馬が二頭に剣が三振り……この申請についてですが」 レポートをめくりながらリリが言った。 リリとナザレのやり取りを、他の騎士団員たちが遠巻きに眺めている。 第二騎士団の訓練場は、ただっ広い原っぱを木の柵で囲っただけの非常に簡素な施設だった。その訓練場を中心として、周りには剣や槍を保管しておく武器庫、馬の世話をする厩舎など、騎士団の運営に必要な様々な建物が建っていた。 アリニパレスの王城は全体的に豪華で清潔であったが、兵士たちの訓練場だけはどうしても埃っぽく、そして汗臭くなってしまうのだ。 その中で、スカートを履いたリリは異質だった。 眼鏡を掛け、茶色の混じった長い髪を頭の上でまとめ、唇にはうっすらとルージュが引かれている。その唇の瑞々しさに、ナザレは少しだけ動揺した。 「ついこの間も馬と鎧の補充をしたばかりなんですが」 「そうだな」 「どういうことですか?」 「どうもこうも、馬も剣も鎧も永遠に使えるわけじゃないからな。古くなれば新しいのに換えなきゃならんし、いつも使える装備を揃えることがこの国を守ることに――」 「国を守るのは結構ですが、アステリアの財布にも限りがあるんです。古くなったから、と言って、ハイそうですかと新しいのを買うわけにはいきません」 「ええ? いや、けど――」 「けど、じゃありません。大体何でまた馬を補充しなければいけないんですか。前回の申請で四頭追加したばかりじゃないですか。まだ必要なんですか?」 「逃げちまったよ」 「はあ!?」 「東の森で野戦の訓練をしたときだよ。合図用の花火に間違えて引火しちまったら一斉に爆発して、その音で馬が驚いて逃げたんだ。一応探したんだが、どうしても二頭が見つからなくて……」 「申請は却下します」 リリの言葉に、ナザレはぽかんと口を開けた。 「大体あなたたちは王国のものを粗末にしすぎです。馬一頭を買うのにいくらかかると思ってるんですか? 普段の餌代、場所代、維持費だって馬鹿にならないのに、それを何ですか、逃げたなんて、ありえないですよ!」 「い、いや、そうは言ってもだな。逃げてしまった馬はどうしようも……」 「逃がしたあなたたちの責任です」 「けどだな、もしこの時期を狙って他の国が攻めてきたらどうするんだ。ケチな財務調査官のせいで馬が足りなくて負けました、ってんじゃ、笑い話にもなんねえぞ」 「そのときは馬を逃がした自分たちを呪ってください」 「話になんねえ」 「こちらの台詞です」 ナザレとリリは睨み合った。 が、視線は再びリリの唇に吸い込まれ、ナザレは慌てて視線を外した。そんなナザレの様子をリリは不思議そうに見ていた。 ナザレは女性のような癖のない黒い髪を後頭部で縛っている。日に焼けた体は決して大柄とは言えないが、引き締まった筋肉は実戦で戦うためのものだ。子供のような純真な黒い瞳は、騎士団に憧れる貴族の娘たちの憧憬の的だった。 ナザレはリリよりも頭一つ分背が高く、こうして至近距離で見詰め合えばどうしても見下ろす形になってしまう。 そして、たとえ見下ろされても一歩も引かないリリが言う。 「とにかく、王室財務調査官として、今回の備品補充申請は却下させていただきます」 「それじゃ……どうしろってんだ。馬がなきゃ、俺たちはただの重歩兵だぜ」 「さあ? 走ったらどうですか?」 取り付く島もない。 王室財務調査官は、アステリア王国の各部署から申請される備品や設備の要求に対して、それが本当に必要な経費であるかを審査する役職だ。 昔、財務調査官という役職がなかったころは、官僚による物資や設備の私物化が横行していたらしい。そんな状況に嘆いた当時の国王が、支出を引き締め私腹を肥やす官僚たちを一掃する目的で設けた小さな部門が財務調査官の前身である。 「走ったら、って…おいおい、冗談だろ」 「馬が逃げた、ってことの方が冗談に聞こえますけど」 「しょうがないだろ。次からは気をつけるよ」 「前から気をつけておくべきでしたね。残念です」 「頼むよ」 「無理です。だいたい第二騎士団は備品申請が多すぎますよ」 「ちょっとくらい融通してくれたっていいじゃねえか」 「駄目です駄目です! 無駄遣いは許しませんよっ。質素倹約!」 「そういうお前たちだって、1グラン2000ペイルもするような馬鹿みたいに高い紅茶を公費で買ったりしてただろうが」 「そそそそんなの関係ないじゃないですか! それに、お客様に出す大切な紅茶なんですから、高いのを買うのは当然ですっ!」 「嘘付け。お前、確か厨房からくすねてきたクッキーを広げてティーパーティーやってただろうが。そのときに飲んでたのがあの高いやつだったはずだ」 「し、知りませんよっ。そんな事実はありません!」 「どうした?」 二人のやり取りに割って入ってきたのは、副団長のオスカ・ドーンツだ。 ナザレと同じ歳の彼は、ナザレとは違い由緒正しい貴族の出身だ。もちろん、身分だけで副団長になれるほど、アステリアの騎士団は甘くはない。銀色の短い髪と何事にも動じない細い目がどこか冷徹な印象を抱かせる男だ。 「ああ、オスカ、聞いてくれよ。馬と剣の補充が却下された」 「そうか……」しばらく顎に手を当てて考えた後、「わかった」 「いやいやいや、わかった、じゃねえよ。納得するな」 「しかし受理されなかった、のだろう?」 「もちろん。今の王国にそんな余分なお金はありません」 「では仕方がない。ご苦労だった、王室財務調査官殿」 無感動に言ったあと、副団長の証であるマントを翻してさっさと兵舎に戻って行ってしまった。 「お、おい! 待てよ!」 「ではこれで調査を終わります。申請は却下。ありがとうございました」 「勝手に完結するな!」 リリ相手にわめくナザレを、他の騎士たちは諦めたように眺めていた。 ナザレが隊長室に戻ると、オスカが自分の机で手帳に何かを書き込んでいた。 王城の隅にある第二騎士団の隊長室には、隊長と副隊長が事務処理をするための無駄に豪勢なデスクが置かれている。 オスカが書き込んでいるのは、黒い革の随分高級そうな手帳。オスカの日記だ。 オスカは日記魔だった。自分の体験し考えたことすべてをことあるごとに手帳に書き込むのだ。それを他人に見せるようなことはしないので、ナザレがその具体的な内容を知ることはできないが。 オスカに挨拶して自分の椅子に座ったナザレは、机の引き出しから紙を一枚取り出した。 ペンに黒いインクをつけて書き始める。 「何を書いているんだ? お前にしては珍しい」 「申請書だよ。……再申請してやるよ。馬と剣の」 「そうか」 特に興味もなさそうに、短くオスカが答えた。 しばらく隊長室には紙の上をペンが走る音だけが響いていた。 それを破ってオスカが言う。 「……楽しそうだな」 「そうか?」 「好きなのか」 「は?」 ペンを走らせる音が止まった。 いつの間にか、オスカは自分の日記を書き終えていた。 「あの女と会いたくて、却下されることを知りつつ何度も申請書を出しているんだろう。臨時の備品申請には必ず調査が入るからな」 「べ――別に、そんなつもりじゃねえよ……」 「そうなのか? だったら申請書は私が書こう。お前よりも多少はうまく交渉できる自信があるが」 「それは……」 ナザレは言葉に詰まった。 それを見てオスカは溜め息をついた。呆れた、と言わんばかり。 「相手はリリ・オールトだぞ」 「…だから何だよ」 「なんだ、知らないのか? あのオールト家の三女だぞ」 「……有名なのか?」 「オールト家といえば名門中の名門……だった、ところだな。最近はあまりぱっとした話は聞かないが。ナザレ、本当に知らないのか?」 「知らん。俺は政治とかにはまったく興味がないからな」 「いくらお前でも四代前の財務相の名前は知っているだろう」 「知らん」 「お前は…。よくそれで騎士団の団長が務まるな」 片手で頭を押さえるオスカ。 彼はいつもナザレのせいで頭痛に悩まされているのだ。 「シャルマ・オールト財務相だよ」 「ああ、そういえばいたな、そんな人。へ――個性的な名前だなと、印象に残ってたんだ」 変な、という言葉が出そうになって、慌てて言い直したナザレ。 いくら騎士団の隊長と言えど、平民出身のナザレが貴族の、しかも政府の要職にいた人間を馬鹿にすることは許されないのだ。 もちろん「変」を「個性的」と言い換えたところで失礼なことには変わりないのだが。その手のことが苦手なナザレは気付かない。 「……門前払いだと思うが。こんなことは言いたくないが、お前は平民の出だ」 「関係ねえよ。男なら階級や生まれじゃなくて、腕っ節と度胸と知恵で勝負するべきだろ」 「お前に知恵があるのか?」 「…足りない部分は熱意で補う」 「本気なのか? だったらもっと誘い方というのがあるだろう。申請書を出すだけではずっと今のままだ」 いつも他人に冷たいオスカには珍しく、諭すような言い方だった。 ナザレよりもオスカの方が正しいのはいつものことだが。 オスカは日記を引き出しに仕舞い、代わりに長方形の小さな紙を二枚、取り出した。 「これを使え」 そう言って、ナザレにその紙を手渡した。 改めてそれを見ると、それは演劇のチケットだった。 「それに誘え。本当なら社交場で知り合うのが筋だが、あの娘はそういう場には滅多に出ないからな。……誘うなら、これくらいが適当だろう」 「おお…おおおお! 演劇か! いいな、リリと演劇か。うん、気に入った。やっぱりお前は親友だぜ!」 「大げさだな」 口ではそう言いつつも、オスカはまんざらでもなさそうだった。 やったぜやったぜ、と誘ってすらいないのに浮かれまくるナザレ。リリに断られる可能性を完全に失念していた。 「にしても、だな」 「なんだ?」 「どうしてお前がこんなもんを持ってるんだ? 演劇、しかも二人分のチケット……」 「お前と一緒に行こうと思っていたんだ」 「…………は?」 オスカの表情が固まった。 それを怪訝そうに見ながら、 「変か?」 「いや……さすがの俺も、男と二人で演劇に行く趣味はないが……」 「そうか…」 幾分とトーンダウンした声で言った。 もしかして、残念がっているのか? しかしナザレはそれ以上の追求をやめ、それよりも、どうやってリリを誘うか、ということに頭を使うことにした。 いろいろ方法を考えたが、最終的に至った結論は「当たって砕けろ」である。 単純に考えるのが面倒になった、とも言う。本来ナザレは直情型の男で、あれこれ策を労するのは苦手なのだ。そういうのは全部オスカに任せている。 どんな文句で誘うか、は彼女と会ってからその場で決める、ということにして、とりあえずナザレはリリを探すことにした。 「見つからねえ…」 財務部門の執務室にはいなかった。 どうやら今もどこかの部門の調査に出ているらしい。 そうなると本格的に行方不明だ。 「一体どこに行ったんだ」 城はかなり広い。 しかも外敵への対策としてかなり入り組んだ構造をしている。 第二騎士団が駐屯している訓練所を少し離れれば、ここでの暮らしが長いナザレといえど、自分の庭のように気ままに歩く、というわけにはいかない。 ナザレは一階の、長方形の中庭に面した回廊を歩いていた。 巨大な白い柱が二階部分を支える構造になっている。明り取りのための窓が一面に並び、いくつもの光の正方形が廊下に差し込んでいた。 城にはいくつかこのような小さな庭がある。そっくり同じ形のものが、たくさん。 よって、この庭がどこの庭なのか、ナザレはすでに分からなくなっていた。 ………ここはどこだ。 「くそう…あの財務調査官、どこにいるんだ」 「わたしのことですか?」 「うおっ」 柱の影からにゅっと顔を出し、リリ・オールトが微笑を浮べていた。 そして驚いて固まったままのナザレに近づいてくる。 「珍しいですね。武門の人がこういうところに来るのって」 「お…おお。まあな」 「いいですよねえ、ここ」 そう言って、窓から上半身を出してうーっと伸びをする。 「わたしはここの庭が一番好きです。人が来なくて静かだし、イセコアの花は綺麗だし」 リリにつられてナザレも中庭のイセコアの花を見た。 幾何学的に、模様のように綺麗に並んで植えられている。 薄い赤にほんのりと白が乗った、若い女性がよく好む花だ。 「ところで、スレショルド隊長。多分、わたしの勘違いじゃなければ、あなたはわたしを探していたんだと思うんですが」 「あ、ああ…」 「なんの御用ですか?」 柔らかい笑顔を浮べてナザレに言った。 背後の窓には一面にイセコアの花。 一瞬見惚れて頭がくらくらした。 「…………再申請されても答えは同じですからね」 「いや、違う。そういうのじゃねーんだ……」 「じゃあ何ですか?」 リリの不審そうな顔。 ナザレは追い詰められてさらに挙動不審になっていく。 「ああ……その……えーと」 「わたし、これでもあなたと違って忙しいんですが」 「俺だって暇じゃねえよ」 「だったら早く言ってくださいよ。はーやーくーっ」 「そうだな……」 リリの顔を見ていられなくて、ナザレは窓の方を向いた。 鼓動が早鐘のように鳴っていた。 「その……お前……今度……いつ休みだ?」 「はあ?」 「……ううう」 耐え切れなくなって、何も言わずリリの方へ演劇のチケットを突き出した。 リリはそれを見て、大きな瞳を二度三度まばたきさせた。 「これは?」 「チケットだ。演劇の」 「見れば分かります」 「……その、今度の休日に」 「はい?」 「もし……その……」 「……はい」 ナザレが言い終わらない内からリリは頷いて、彼の手からチケットを一枚受け取った。まるで奪い取られたみたいだとナザレは思った。 「それじゃ、どこで落ち合いますか?」 「え?」 「いや、だって、もしかして現地集合ですか?」 「あ、ああ……それじゃ、西の時計台の前で」 「何時にしますか?」 「昼に」 「わかりました。楽しみにしています」 リリは目を細めて微笑んだ。 その微笑みを真正面から見てしまって、ナザレは頭がくらくらした。 アリニパレスの住人が時刻を知るための手段はいくつかある。 そのうちの最も一般的な方法は、朝から夕方の間に撞かれる大時計の鐘である。アリニパレスには大きな広場が三つあり、それぞれに巨大な時計台が建っていた。 アステリア王国は未だに時計の小型化には成功しておらず、時刻を知る手段は個人で持つには大きすぎるのだ。 次の休日、ナザレとリリが会ったのは昼を示す鐘の音が鳴り響いた直後だった。 リリは時計台の前でずっと待っていたらしく、彼女の性格らしいとナザレは思った。 私服のリリも素敵だった。 それに比べて、と自分の格好を改めて見る。横に並んでみるとさらに情けない気分になった。 「それじゃ、行きましょうか」 そんなナザレの気持ちを吹き飛ばすような素敵な笑顔でリリが言った。 思わずにやけそうになるのを必死に堪える。 王城勤めのナザレたちにとっては休日だが、アリニパレスに住むほとんどの人たちにとって今日は特別な日ではない。 広場から広がる道を行くと、道の左右では食べ物や雑貨を売っている様々な店が開いていた。 二人で並んで歩いているとしきりに声を掛けられる。 「いやあ、今日も賑やかだなぁ」 白々しいことを言ってみる。 仕事以外でリリと二人きりになるのは初めてで、何を言っていいのかまったく分からなかった。 「当たり前じゃないですか。アリニパレスの人口を知っていますか?」 「お、俺だってそれくらは知っている」 「じゃあ何人か答えてください」 「……三万人?」 「三十万人です。よくそれで騎士団長になれましたね」 「う、うるせえ。俺には剣があるから十分なんだよ」 「その剣を買うお金はどこから来ているか、ご存知ですか?」 「やめてくれ、休日に仕事の話は……」 せっかくのデートなんだから、と言おうとして赤面した。 ナザレの様子を不思議そうに見ているリリ。 そんな調子ですぐに演劇の会場に到着する。 係員にチケットを見せて入場した。 会場は頂点のステージを中心に扇状に観客席が広がっており、外側ほど高くなるようになっている。ステージの上には舞台の背景が描かれた布が吊るされてあり、演劇の進行に合わせてあれをめくると、ストーリーに合った背景の絵が表れるようになっているのだ。 今日は幸いにも雲ひとつない晴天だった。街のざわめきの向こうに鳥の鳴く声がわずかに聞こえた。 「お客さん、あんまり来ていないみたいですね」 リリがナザレの耳元で小さく言った。 会場を見渡すと、観客席のほとんどが空席だった。 ほどなくして係員が演劇の開始を告げる。 観客席からぱらぱらと拍手が起こる。ナザレたちもそれに倣った。 ステージ脇に並んだ音楽隊が、緩やかなメロディを奏でる。それと同時に階段を上って役者が舞台に登場した。 演劇は、他愛のない、ありきたりなロマンスだった。 演劇の最中にナザレは隣に座るリリの顔を盗み見た。彼女は一心不乱にステージに視線を送っていて、その真剣な表情をこんなに近くで見つめることができるのが、ナザレにとっては何よりも嬉しいことだった。 演劇が終わり、最後に役者達が一列に並んで礼をする。観客の数が少ないにも関わらず盛大な拍手が起こった。ナザレも意識して大きな音を立てて手を叩いた。 もうすでに日は落ちて、観客席にも闇が下りてきていた。係員によってステージの両側に置かれた松明の炎だけが灯りだった。 空を見れば月には雲がかって頼りない光源になっている。 「いやー、面白かったですね」 「そいつはよかったな」 「……何か不満そうな顔なんですが」 「いや、まああれだ。楽しめるのが一番いいだろ。うん。楽しんだ者勝ちだ」 「……面白くなかったですか?」 「逆に俺の方が聞きたいくらいなんだが……」 「えええええ!? 最高だったじゃないですか! もう最後の方はずっと涙ぐんでましたよわたし」 「そうなのか?」 「それは嘘ですけど。でも泣きそうになったのは真実です。……ナザレさんはそういうのなかったんですか?」 「んー。かったるい話だなあ、とか」 「鈍感! 不感症! 劇団の人に謝れ!」 「ぬうう……」 罵られてしまった。 しかし罵倒するリリの顔には笑みが浮かんでいて、つまり単純にナザレを困らせて遊んでいるだけなのだった。 にこにこ笑うリリにからかわれるのは、そう悪い気がしなかった。 普段仕事場で罵り合うだけの二人が、この夜は特別とばかりに色々なことを話した。仕事場の愚痴から始まって、宮廷の噂話や流行りの菓子職人の話、王国の経済はこれからどうなるのか、戦争の可能性は、ところでもっとも面白い悲劇は何か、いい加減大いなる神々の劇は飽きた、そういえばもうすぐ西の国から大道芸の一座がやって来るらしい、等々。 リリはよく笑い、ナザレはそれを幸せな気持ちで眺めた。 自分との会話がこの笑顔を作っていると思うと、見当違いかもしれないけれど、なんだか誇らしい気持ちになって来る。 途中で屋台を見つけて二人で食事をした。 鶏肉を揚げただけの簡単なもので、塩味が利いていて美味しかった。 夜は更けて、人の通りは少なくなり、灯りは消えて、夜空がいっそう綺麗に見えて――。 別れの時間が、近づいてきた。 「……そろそろ、帰らないと」 「ああ」 「……だったら、手、離して」 リリの手を握り締めていた。 今日という一日を、これほどまでに惜しいと思ったことが今まであっただろうか。 ゆっくりと、露骨なほど名残惜しむようにして、ナザレは彼女の手を解放した。 なんて女々しいのだろう自分は。 「……わたし、今日は城に戻らずに家に帰るから。あなたは、兵舎でしょう?」 「ああ。だから、ここでお別れだな」 「今日はどうもありがとう」 「いや――また、」 また、誘っていいか? それだけの台詞を言おうとして、恐怖に竦んでしまう。これまで戦場で奮ってきた勇気と同等のものを使っても、この一歩を踏み出すことができない。 「ばいばい」 「――!」 急に柔らかくなって、ぬるってして、いい匂い、あったかい、呼吸音、自分の出した息が、跳ね返って自分の顔を暖める、それだけじゃなくて、彼女の息もナザレを暖めて、その反射が、また彼女のことも暖めて――。 なぜだか、感覚が突然研ぎ澄まされて、夜の静寂の、風の音とか、彼女の呼吸音とか、自分の耳鳴りとかが、非常によく聞こえるようになっていた、それから、ナザレはやっと、リリに口付けされたことが、夢や妄想ではないということを確信した。 「……お休みなさい」 彼女はさっきと同じニュアンスの挨拶をして、だけどさっきよりもずっと頬を赤く染めて、ナザレに背中を向けて歩いて行った。 月の光はリリの背中を照らすには心許なく、すぐに彼女はナザレの視界から闇の中に吸い込まれてしまった。 しばらく、ナザレはその場に立っていた。 夜の風を頬に受けて、さっきの場面を何度も思い出そうとしたけれど、何故だろう、うまく思い出すことができない。 ナザレは、リリにキスされたという事実だけを抱えて、ことさらゆっくりとした足取りで自分の兵舎へと戻って行った。胸の高鳴りと頬の熱は、春の夜の冷たい風に晒されても、そう簡単には消えそうになかった。 |