善意の報酬

TOP





 真夜中の空に、もうもうと上る黒い煙がはっきりと見えた。煙を照らしているのは炎だ。アパートの一階を包んだ火の手は、周囲に街灯もまばらな裏通りで最大の光源だった。
 アパートを囲む人たちは近隣の住人だろうか。寝ているところを叩き起こされたのか寝衣を着ている人も多かった。
 これだけの人が火事を見ているのだ、誰かが消防に連絡したはずだ。もうすぐ助けが来る。
 ――そうやって自分の心を誤魔化そうとした。
 ここに留まることがどれほど危険なことなのかは理解していた。しかし、それでも、どうしても、この場を離れることができなかった。
 視線はアパートの二階に釘付けだった。窓を開け、地上にいる人々に助けを求める女性の姿だった。しかしアパートを囲む人たちは誰も動かない。助けを求める声を聞きながら、バツの悪そうな顔でそれぞれが周囲の人を見るだけだ。
 「お前が行けよ」「なんで俺が」「おいこっちを見るな――」……そんな声が聞こえてきそうだ。
 理性と計算は、すぐにでもこの場から離れることを選んでいた。しかし結局、すべてを裏切って、アパートの中に入ることを選んだ。
 アパートの敷地に入ると駐輪場のそばに水道の蛇口を見つけた。その場に放置されていたバケツに水を溜めて頭から被った。これで少しくらい火に炙られても大丈夫だろう。
 意を決してアパートの中に入る。


*1

 咳払いの声が聞こえた。芝川が新聞から顔を上げると、目の前に所長の国崎が立っていた。
「これはどうも国崎所長」
「……何か面白い記事でも見つかったか?」
「そうですねえ『すべて世は事もなし』という感じですか。あえて挙げるなら九月十二日に葛飾区で起きた殺人事件の続報が気がかりですね。夜中に自宅のアパートで雑誌記者の島原勉という男が殺された事件なのですが被害者は過去に汚職や違法献金についてのスクープをあげてる人物ですのでその筋からの報復で殺されたのではないかと書いてありますね」
「……お前、暇なのか?」
 国崎探偵事務所では所長を除けば現在五名の探偵と一名の事務員が働いている。事務所の探偵たちは、調査のために外出しているか、自分のデスクで忙しく誰かと話しているか、パソコンを睨みながらキーボードを叩いているかのいずれかだった。そういえば、新聞を読んでいる人間は他にいないな、と芝川は思った。
「想像の羽を広げているおかげで暇だとは感じませんね」
「お前が新聞を読んで妄想の羽を広げている間にもうちの事務所はお前に給料を支払い続けているんだ。少しはうちの事務所の利益に貢献したらどうだ? うちの事務所はお前に新聞を読んでもらうために給料を払っているわけではないんだが」
「しかし依頼人が来ないことには何もすることがありません。事務所の外で客引きでもしましょうか?」
「そんなことをしたら事務所の品位が下がる」
 芝川はやれやれと肩をすくめた。国崎の左の頬が引きつった。
「お前のそういうところがお客様の不興を買っているんだよ」
「どういうところです?」
「お前は実に的確に人の気持を読み外す。依頼人の望むことの五メートル隣を掘り下げる。結果、痛い腹を探られた依頼人はうちの事務所の不評を広める。当然、二度とここには来ない」
「二度も三度も探偵を雇う人は稀でしょう」
 思わず指摘してしまったが、国崎はますます頬を引き攣らせた。なるほど、こういうところが依頼人の不興を買っているのか。
「僕としては僕の能力を尽くして真相を暴き問題を解決したつもりなのですが」
「探偵の仕事は真相を暴くことでも問題を解決することでもない。依頼人の望みに寄り添うことだ。依頼人の望まない解決は解決とは言わない」
「なるほど。ではこう言い換えましょう。僕は依頼人の問題を終わらせる」
 咄嗟に思いついた言葉だったが「終わらせる」というのは良い表現だ、と芝川は自分で思った。
「言葉遊びをしている場合ではない」
 真面目な顔で国崎が切り捨てた。肩をすくめようとしたが、その仕草が大げさで芝居がかっていて胡散臭いと目の前の男に言われたのを思い出した。芝川は癖になっている動作を寸前で止めた。
「ところで僕にどういったご用件ですか?」
「暇そうだから仕事を持ってきてやったのだ」
「依頼人ですか?」
 国崎は頷いた。彼は事務所の入り口の方を見ると、そこに立っている人物に手招きして、こちらに来るように促した。
 それは、十歳くらいに見える少女だった。
「お子さんですか?」
「そんなわけないだろう」国崎はまだ独身だった。「この子が依頼人だ」
 少女は国崎の隣に立った。立ち向かうように芝川を正面から見据えている。怖じけたり、萎縮することは敗北であると、厳しく自らを律しているかのようだ。決意の表情には悲壮感すら感じられる。
「依頼料は?」
 芝川は少女から目を離し、国崎に向けて質問した。しかし答えたのは少女だった。
「わたしのお年玉……」
 スカートのポケットから皺になった封筒を取り出した。表に銀行の名前が印刷してある。
「所長。少しお話が」
 芝川は国崎が何か言う前に彼の腕を掴んだ。少女をその場に残して少し離れる。
「正気ですか?」
「何がだ」
「ほんとにあの子を依頼人として扱えと?」
「依頼人は依頼人だろう。金を持って、助けを求めている」
「未成年者と直接商取引はできませんよ。そういう場合は保護者が代理人になるはずです。それに」
「それに?」
「子供のお年玉を巻き上げるなんてあまりにも情けない」
「一円も稼がずに昼間から新聞を読んでる方が情けないと思うがな」国崎は芝川を睨んだ。「こっちは無駄飯喰らいに給料を支払い続けてるせいで破産寸前だ。子供のお年玉分も稼げないお前にとやかく言う資格はない」
「しかしもしこのことがバレたら」
「バレたらお前が勝手に契約したということにする。それが嫌ならせいぜいあの子を怒らせるようなことをするなよ。騒ぎ出されたら百パーセントお前が負ける」
 なるほど、それが狙いかと芝川は思った。もし自分が依頼人を満足させられない探偵であり続けるなら、今度の仕事で自分を切り捨てるつもりか。
 芝川自身は何度も仕事を解雇された経験があり、失職することへの抵抗感はあまりなかった。しかし詐欺師として起訴された経験は未だになかったし、それはあまり望ましい展開ではない。
 芝川が少女を見たとき、目があった。
 笑顔を作ってみせると、少女は怪訝そうに表情をこわばらせた。いつもの、肩をすくめる癖が出そうになった。


*2

 芝川は応接室に少女を案内した。国崎はやはり自分の仕事が立て込んでいるらしく、すぐに自分の席に戻った。
 一応依頼人ということなので、少女には来客用の麦茶と茶菓子を出した。芝川は、少女が麦茶を飲む様子を観察していた。
「あの、おじさん、探偵なの?」
 先に口を開いたのは少女の方だった。
「そうですよ」
「ぜんぜんそう見えない」
 芝川は苦笑する。
「よく言われます。何に見えますか?」
「……フリーターとか」
「探偵に見えない方が探偵の仕事には向いているんですよ。あからさまに探偵に見える男が話を聞きに来たら大抵の人は身構えますからね。ところでそろそろ本題に入りたいのですがよろしいですか? その前に自己紹介をしておきますが僕はこの件を担当することになった芝川です」
「……成木咲愛なりきさあや
「高校生ですか?」
 高校生には見えなかったが、子供に見られるよりはいいだろうと嘘を吐いた。
「中一」
 芝川を睨むように答える。さすがに嘘くさかったか。藪蛇になってしまった。
「それで成木さんはお年玉の貯金と引き換えに一体何を依頼したいのですか?」
「……浮橋隆信うきはしたかのぶって人のことを調べて欲しいの」
 芝川は、その名前に聞き覚えがあった。しかし芝川の知り合いであるはずがない。違和感を胸の奥に押し込める。
「浮橋さんとあなたの関係は?」
「……命を助けてもらった」
 事件が起きたのは先々月、九月十一日から十二日にかけての深夜だった。
 成木咲愛は葛西区のアパートに両親と三人で暮らしていた。その日、母親は習い事の生花のイベントのために一晩だけ家を空けていた。また、運悪く父親の出張がその日に重なってしまい、その夜は家に咲愛一人だけだった。
 その日の夜のことはよく覚えていない、と咲愛は語った。
 目が覚めたとき、暑さと息苦しさだけがあった。頭は朦朧とし、恐怖や危機感を感じる余裕もなかった。ただ身体の不快感から、布団から這い出て家の外に出ようとしたが、玄関のあたりで力尽きてしまった。
 そのとき、誰かが家の中に入ってきたのを感じた。その人物は咲愛を抱えると、そのままアパートの外に連れ出してくれた。そのとき咲愛は、自分を抱えている男の顔を見たという。
「……気がついたらわたしは病院にいたの。後から聞いたんだけど、あの日アパートの一階から火事が起きたって。通報するのが遅れたせいでアパートは全部燃えちゃったって」
 しかし事件後、咲愛を助けた人物は名乗り出なかった。
「その人物が浮橋隆信であると知ったのはいつですか?」
「先月くらいに、雑誌で見たの。お父さ――父が読んでた雑誌が目に入って。スキップドールって会社のコンサルタントだって、取材を受けてて……」
「コンサルタント……」
 そういえば、そんな名前の経営コンサルタントを新聞かテレビで見たことがあった。
「父に頼んだりして、会社に問い合わせたりしたけど知らないって話もさせてくれなくて……会いに行こうとしたけど面会すらだめって言われて」
「なるほど。つまり成木さんはその浮橋隆信に無礼な対応のツケを払わせたいと……」
「なんでそうなるの。そうじゃなくて、助けてもらったお礼を言いたいの」
「しかし向こうは知らないと言っているのですからわざわざお礼をする必要もないのではありませんか?」
「ううん。浮橋さんのためにお礼を言いたいんじゃないの。命を助けてもらったのにそれだけで終わっちゃうのが……どうしても気持ち悪いの。だって、誰かに何かをしてもらったら、そのときはお礼を言うものでしょ?」
 それは、自分の大切な貯金を使ってでもやる価値のあることなのだろうか。
「了解しました。必ずやお望みの結末をお見せしますよ」
 言ってから、少し芝居がかった物言いになってしまったことを反省した。
 しばらく少女の様子を伺っていたたが、どうやら彼女の信頼を得ることには成功したようだった。


*3

 芝川は川崎市にある株式会社スキップドール本社ビルの受付に来ていた。
 咲愛と会ってから二週間が経っていた。芝川はここまでの時間を火災と浮橋についての情報収集に充てていた。
 飾り気のない、白い十階建てのビルである。受付のある一階のフロアには、芝川以外には受付の社員が一人だけだ。よく掃除された床が蛍光灯の明かりを反射していた。
 化粧の濃い受付の女性社員は、怪訝な表情で芝川の出した名刺を見ていた。
「『月間さきがけ』編集部……東欧出版様、ですか?」
「いかにもその通りです。ぜひ浮橋さんにお取次ぎを」
「アポイントメントはございますでしょうか?」
「本来なら事前にお約束してから伺うのが筋なのですが実は僕の部下がポカをやらかしましてねえ。しかしすぐにでも浮橋さんのコメントを頂けないと創刊号の目玉記事がまるまる穴になってしまうわけでして。どうかよろしくおねがいしますよ。悪いようには書きませんから」
「はあ……」
 芝川はさらにまくし立てた。こちらがいかに困っているかを強調する。人懐っこい笑顔を見せて、こちらが無能で無害であることを装う。
 やがて女性社員は芝川に押し切られる形で、内線電話をかけて伺いを立てた。
 芝川の名刺は偽物ではない。国崎探偵事務所で働く前、一時期は本当に東欧出版の社員だったのだ。ただし三ヶ月で解雇されたし、作った名刺を誰かに配る機会もなかったのだが。安くない金を払って作った名刺を捨てるのももったいなくて、何かの役に立つかと取っておいたのだ。
 受付の女性社員は内線電話で誰かに事情を説明している。目が合ったので、皮肉っぽくならないよう心がけて笑顔を作った。
 やがて女性社員が受話器を置いた。
「浮橋がお会いするそうです。今は立て込んでいるので、午後になってからまたお越しください」
「どうもありがとうございます。これで記事に穴を開けずに済みます」
 芝川は何度も礼を言ってから、言われたとおり一度会社を出た。
 午後になるまで近所の喫茶店で時間を潰してから、再びスキップドールを訪問した。
 受付に顔を見せると、すぐに別の社員がやってきて芝川を奥に案内した。十階へと登るエレベーターの中で、その男は浮橋の秘書だと名乗った。人を疑うことを知らないような、善良で単純な男に見えた。
 十階に着いて、エレベーターを降りる。廊下を進むと、社員が仕事をしているフロアを通り抜けた。向かい合わせにデスクを並べた島が平行に並んでいて、社員が忙しく仕事をしている。そのフロアの一番奥が浮橋の部屋だった。
 秘書はドアをノックした。中からの返事を待ってから、ドアを開けて芝川と一緒に中に入る。
「東欧出版の芝川様がいらっしゃいました」
 部屋の奥に浮橋隆信が座っていた。芝川の姿を見て浮橋は立ち上がる。
「どうもこんにちは。浮橋です。どうぞこちらへ」
 友好的な笑顔を見せながら言った。
 部屋の奥には浮橋のデスク、手前にはソファとテーブルがあった。デスクの上にはデスクトップ型のパソコンとディスプレイ、メモ帳とペンスタンドに、白い電話機が置いてある。
 浮橋に言われるがまま芝川はソファに座った。
 メディアで顔は知っていたが、実際に会うと体格の良さに驚かされた。引き締まった胸板、日に焼けた肌、自信満々で野心に満ちた目。しかし声色は紳士的で他人に対する気遣いを感じさせられる。
「初めまして。スキップドールの経営顧問を務めている浮橋隆信です」
「こちらこそ初めまして。東欧出版の芝川です。ご活躍はかねがね」
「あはは。テレビですかね? あれは過剰宣伝ですよ。私はあくまでアドバイスをしただけで、経営を立て直したのはその会社の努力の結果です」
「ここは浮橋さんの個室ですか?」
「ええ、まあ。私はスキップドール以外の顧問も引き受けていますから、ここを使うのは年の半分ほどですが。これもすべて梅田さんのご厚意ですよ」
 梅田篠武うめだしのたけ、スキップドールの社長だ。そのくらいは事前に調べてあった。
「梅田社長との付き合いは長いそうですね。顧問になる前から面識があったとか」
「ええ、まあ。私の命の恩人ですよ。独立してから仕事もなく、事務所の家賃すら払えなかった私を、何の実績もないのに使ってくれて……。今ここで働いているのは、まあ恩返しのようなものです」
 ノックの音がした。浮橋が入るように言うと、秘書がお茶を運んできた。芝川は浮橋より先に湯のみに口をつけた。玉露だった。
 湯のみを傾けながら、芝川は浮橋を観察した。その浮橋も、芝川のことを見ていた。芝川が浮橋を探っているとき、浮橋もまた油断なく芝川のことを探っていた。
「ところで本日いらっしゃったのは雑誌の取材だそうですね。えーっと……」
「はい。今度新しく月刊誌を作ることになりました。創刊号にはぜひ浮橋さんの特集記事を載せたいと思いまして」
「私で読者を引っ張れますかね?」
「もちろんですよ」
 芝川は笑顔で返した。
「それで。私からどんな話を聞きたいんですか?」
「九月に葛飾区で起きた火災についてです」
 芝川は浮橋の反応を見逃さないように神経を注いだ。
 浮橋の表情はピクリとも動かなかった。何も反応がなかったことが、逆に浮橋の潔白を否定しているように思えた。
「さて、妙なことをお聞きなさいますね。火災は私の専門外ですが」
「九月十一日の夜です。正確には十二日を回った深夜の一時半。あるアパートから火の手が上がりました。そのとき火事の中から一人の少女を助けた男がいたそうです。目撃者の証言によると男は自分の体に水をかけると制止する声も聞かずにアパートの中に飛び込んでいったとか。しばらくすると男は少女を抱えてアパートから出てくると名前も名乗らずに姿を消したそうです」
「今時、殊勝な人もいるものですね」
「お心当たりはありませんか?」
「まったく」
「失礼ですが九月十一日の夜はどちらへ?」
「あなた、東欧出版の人ではありませんね?」
 芝川は苦笑した。
「最初から僕が出版社の人間ではないと知っていたんでしょう? お人が悪い」
「午前中のうちに東欧出版に電話をかけて、身元を確かめました。あなたがあまりにも大胆だから、一体どんな話があるのか、試しに会ってみたくなりましてね。まさかそんな用件だとは思いませんでしたが」
「ところで九月十一日の夜はどちらへ?」
「さあ、覚えてませんね。何せ二ヶ月も前のことなので……。失礼」
 浮橋は立ち上がるとデスクの方へと向かった。電話を取ってダイヤルし、通話の相手に部屋へ来るように言った。
 芝川は、浮橋が警備を呼んで、自分を追い出そうとしているのだと思った。しかし部屋にやってきたのはさきほど芝川を案内した秘書の男だった。
「二ヶ月前の九月十一日は、確かここに来ていましたよね? その日の私の予定を確認してもらえませんか?」
 秘書は一瞬怪訝な顔を見せ、ちらりと芝川の方を見てから「少々お待ちください」と一礼して出て行った。
「繰り返しますが、そのヒーローは私ではありませんよ。私にはとてもそんな勇気はありません」
「ご謙遜を。勇気のない人間が独立して経営コンサルタントになんかならないでしょう」
「私の独立は金に目が眩んだ結果ですよ。しかもそれは勝算があったから飛び込んだに過ぎない。まあ実際には梅田さんに助けてもらう体たらくでしたが」
「成木さんを助けた男はどうして火事の中に飛び込んだのでしょうか。火に目が眩んだわけじゃないでしょう」
「さあ。私は飛び込まないので何とも。ただ……勝ち目があったわけではないでしょうね。きっと、ベランダから助けを求める声を聞いて、思わず損得を忘れてしまったのでしょう」
 秘書が戻ってきた。
「九月十一日はこちらにいらしてますね」
「何時まで?」
「確か、翌朝までずっといたと思います。ほら、次の日が連合の――」
「ああ」浮橋が頷いた。「思い出した。社長のスピーチをずっと考えていたんだったね」
「次の日、わたしコーヒーを買って出社しましたよね。あの、夜中に電話で言わて。クリームとキャラメルがたっぷり乗ったやつ」
「そうそう。あのときは大変だった。色々とトラブル続きで……。電話といえば、あれはいつしたんだったかな」
「前の日の夜中ですよ。九月十一日――というか、日付が変わって十二日ですね。浮橋さんが電話で、十二日の予定をもう一度確認したいと。そのとき、明日の朝はコーヒーを買ってきて欲しいと」
「あの電話は何時くらいだったかな」
「一時でした。夜中に電話で起きて、時計を見たから覚えてます。そのあと電話で、深夜の一時に電話する用件じゃないでしょうって言いましたよね、私」
「あのときは悪かった。しかしどうしても確認しておきたくてね、見落としがあってはいけないから……。あ、もういいよ。ありがとう」
 秘書の男は一礼して出て行った。
 浮橋が芝川に社交的な笑顔を見せる。
「思い出しましたよ。あの日の夜はずっとここで電気通信連合会の準備をしていました。さっき芝川さんも聞いたとおり、電話で話したりもしていますから、私の思い違いということもない。……ところで、火事が起きたのは夜中の何時だと言っていましたか?」
「一時半です」
「夜中の一時にここにいた私が、三十分でその現場まで行くことは可能ですか?」
「無理でしょうね」
「これでご納得いただけましたか? ……ところで、芝川さん、一体何者なんです?」
 攻守交代か、と芝川は身構えた。浮橋の質問攻めをのらりくらり躱しながら、芝川は浮橋の言葉を頭の中で何度も精査していた。


*4

 スキップドール本社ビルの玄関から、浮橋の秘書が出てきたのを見た。芝川はタバコをもみ消して彼の背後に近づいた。時刻は八時を回っていたが、社屋の窓にはまだいくつも明かりが灯っていた。
「すみません。少しよろしいですか?」
 十分に会社から離れたところで声をかけた。振り向いた秘書の表情が驚きに変わる。
「はい? あ、あなたは、雑誌の――」
「どうも。芝川です」
「まだ何かご用ですか? 浮橋は今日はもう大阪に発ちましたよ」
「いえ用があるのはあなたです。それも内密な」
「……受付を通してもらえますか?」
 警戒心を露わにして言った。芝川は苦笑して見せる。
「僕の用件はあなた個人に対する用件でして。会社は関係ありません」
「何ですか?」
「立ち話もなんですから。どこかゆっくり話せる場所に行きましょう。あまり人に聞かれたくない内容なので」
 しばらく考える素振りを見せていたが、秘書はやがて芝川に従った。
 駅に向かって少し歩き、大通りに面したコーヒーショップに入った。
 芝川はカウンターでアイスコーヒーを注文した。秘書も同じものを注文する。芝川は二人分のコーヒーを持って、一番奥のテーブル席についた。秘書がテーブルを挟んで芝川の向かいに座る。平日の夜とはいえ、店内には他にも客がいたが、いずれも他人には無関心で、それぞれのテーブルで独立した個別の世界を作っていた。
「私のことも記事にするつもりですか?」
「いえいえ。実は僕は記者じゃないんですよ。嘘をついてすみません。実は警察なんですよ僕」
 そう言って芝川は内ポケットから警察手帳をさっと取り出した。表紙を秘書に見せてからすぐにポケットに戻す。
 もちろん偽物の警察手帳だ。これがバレたら怒られるどころの騒ぎではない。記者を詐称するのとはわけが違う。警察官の身分を詐称するのは犯罪だ。
「まさか……どうして……?」
「浮橋さんは気づいていたみたいですよ。僕が出版社の人間じゃないということに」
 浮橋の態度に心当たりがあるのか、秘書はしばらく考えこんだ。もちろん浮橋は芝川のことを警察官などとは思っていない。
「あの、どうして警察の人が……?」
「まあ潜入捜査の一種だと思ってください。それに社会的に身分のある方のところに警察手帳をぶら下げて行ったらご迷惑がかかるでしょう。何も僕は浮橋さんを逮捕しに来たってわけじゃないんです。ただお話を伺いたいだけで」
 自分が敵ではないということをアピールする。警戒してくれるのは一向にかまわないが、頑なな態度を取られては困る。
「こうして僕と話していることは他の誰にも決して口外しないでください。特に浮橋さんには。あらぬ誤解で波風を立てたくないのです。お分かりですね」
「はあ……」
「僕があなたからお聞きしたいのは浮橋さんのことについてです。特に九月十一日の夜について」
「今日、浮橋さんに聞かれた件ですね」
「深夜に浮橋さんと電話で話したのは本当ですか?」
「本当です」
「浮橋さんの方から電話をかけてきた」
「はい」
「電話で何かいつもと違うことはありませんでしたか? 浮橋さんのご様子とか受話器の向こうから変な音が聞こえたとか」
「いえ、特にそういうことは……ありませんでしたけど……」
「では九月十一日に限らずその前後で浮橋さんの周りに何か変わったことはありませんでしたか? 普段とは違う人が浮橋さんに会いに来たり逆に浮橋さんが会いに行ったり」
「その……どうだったかな……九月……。そういえば、浮橋さん、九月十二日に連合の大会があるって前から知ってるのに、ぜんぜん準備を始めなかったんですよね」
「普段はそうじゃない?」
「いつも余裕を持って念入りに準備をする人です。なのにあのときに限ってぜんぜん手を付けなくて……だから十一日は徹夜で準備する羽目になったんです。それに、私が手伝いましょうって言っても、きみは帰れ、私が一人で準備するからって。普段は容赦なく残業させる人なのに。……そういえばあの日、浮橋さんが遅れて出社してきたんですよ」
「十一日ですか?」
「そうです。たしか十時くらいでした。聞いたら寝坊だって言ってて、珍しいなあって覚えてたんです。それからは夜に自分が帰るまでずっと社内に居て……特に忙しかったわけじゃないのになあ。徹夜なんかしなくても、早く片付ければ良かったのに」
「それは妙ですね。ところで十一日はずっと会社にいたんですか?」
「はい。朝からわたしが退社するまではずっと。その次の日も、夜までずっとわたしと一緒でした」
「誰かに会いに行ったとか誰かが会いに来たということもない?」
「その日は、そうですね。……そういえば、これは別の日なんですけど、九月にも警察手帳を持った人が会いに来ましたよ。九月の頭くらいだったと思います。偽物でしたが」
「どういうことですか?」
竹城たけじょうって名前の人でした。前もってアポを取ってから来た人だったんですが……。その人が帰ってからの浮橋さんの様子が、その」
「何かおかしかった?」
「尋常じゃなかったです。すごい不機嫌で。普段、そんなところは人に見せない人なので、すごく印象に残ってるんです。あと、あれは警察の人間じゃないって。次に同じようなのが来たときは警察に通報しろと」
 芝川は自分の動揺を隠すために、アイスコーヒーで喉を潤した。


*5

 芝川は安煙草をくゆらせながら道路を挟んだ向い側にある空き地を眺めていた。路上喫煙を咎められる可能性もあったが、周囲に人通りはなかった。
 かつてこの空き地には成木咲愛が住んでいたアパートが建っていた。しかし九月の火災でアパートは全焼、残骸は取り壊されて更地となっている。かつてのアパートを偲ばせるものはアパートの敷地を囲っている背の低い塀だけだ。アパートの名前らしき「メゾン・ド・シュエット」の文字と、馬の蹄鉄を表すシルエットが描かれた金属製のプレートが塀に埋め込まれていた。
「あの、探偵さん、こんなところで何をやっているんですか?」
 不意に聞こえた人の声に、芝川は意識を現実に戻す。声の方に首を向けると、成木咲愛が不機嫌そうな表情で仁王立ちしていた。
 成木はブレザーの制服を着ている。何故だか、授業をサボっているところを委員長に咎められたかのようなバツの悪さがあった。かつて学生だったころ、バイトに明け暮れていた芝川を叱ってくれたクラスメイトがいたのを思い出した。
「……何?」
 不機嫌を通り越して不審そうな表情を見せる。芝川は表情を取り戻して答えた。
「火災のことを調べていました。一応実物を見たくてこうして足を運んでいるわけです」
「何か分かったの?」
「火災の原因は一階の部屋のコンセントの断線によるものだとされています。当時その部屋の住人は外泊していたために出火の発見が遅れました。その上火災を察知して避難した住人が誰も通報しなかったために火の手が回るまでさらに通報が遅れました。最終的に通報があったのは九月十二日の午前一時二十五分です。成木さんが謎の人物に救助されたのはこの直後。十分後に消防車が現場に到着し消火活動を開始しました。住人の一人が火災から逃げるために二階の窓から飛び降りて骨折していますが幸いにも怪我人はその一人だけです」
「別に火事の犯人探しをして欲しいわけじゃないんですけど」
 短くなった煙草を地面に落として踏み潰した。成木が眉をひそめる。
「ですから犯人はいません。事故です」
「……で、それが何? それが浮橋さんと何か関係あるの?」
 芝川は返事をしなかった。代わりに、再び思考に没頭する。
 実験してみたところ、川崎市からこの場所まで深夜に車を飛ばせば三十分以内に移動できないこともない。しかし何のためにそんな移動をしたのかが説明できない。火事は偶発的な原因によって発生したものだ。その時間を狙って浮橋が車を飛ばすことはあり得ない。
「成木さんの」
「え?」
「成木さんの部屋はどのあたりにありましたか?」
「どの……って」
 成木は道路の向こう側を見た。そこには更地が広がっているだけだ。
「うちは206号室だから、ここから見て二階の右から五番目かな」
「……五番目?」
「うん。201、202、203、205、206号室……」
「204号室は?」
「ないよ。4とか9の付く数字が縁起が悪いからって、ここのアパートはみんなそういう番号は飛ばしてるの。……あんまり効果なかったみたいだけど」
「五番目……」
「よく分からないんだけど、それって大事なこと?」
 成木は首をかしげる。
 芝川は自分の記憶をひっくり返していた。しかし知りたい情報が見つからない。鞄を開けて、中に入っていた資料をひっくり返す。新聞記事はすべてスクラップしていたが、その中にも欲しい情報はなかった。
「成木さん」
「え?」
「成木さんの家の隣の住人について教えて下さい。おそらく205号室の方の」
「えーっと、女の人が一人で住んでたと思う」
「その人が火事のときどうなったかご存知ありませんか?」
「さっき芝川さん言ってたじゃん。二階から落ちて怪我をした人がいるって。その女子大生の人だよ。確か、その人も逃げ遅れてて、火がすぐ迫ってたから飛び降りたって聞いた」
「窓から飛び降りた?」
「そうだと思う」
「窓から飛び降りる前は?」
「さあ。そこまでは分からないけど」
 芝川は次の煙草を咥えた。火をつけようとライターを擦る。
「芝川さん。それ、体に悪いよ?」
「これを吸っている方が頭が働くんです。大目に見てください。ここではこれが最後の一本ですから」
 成木が怪訝な表情を見せた。構わずに煙を深く吸い込む。
 頭の中で、未解決の問題がないかを精査する。検算を繰り返す。あの男を追い詰めるにはもう少し準備が必要だ。
 半ばまで吸った煙草をもみ消したときにも、成木はまだ芝川の横で待っていた。


*6

 浮橋はスキップドール本社ビル十階の自分の部屋でメールを書いていた。電話が鳴ると三コール以内に受話器を取った。相手は一階の受付だと名乗った。
「浮橋さんにお客様です」
「予定にない来客は断るように。……一応名前は聞いておこうか」
「島原さんという方です」
「…………そうか」
 深く呼吸をした。動揺を見せてはならない、と自分に強く命じた。
 思案した結果、ここで追い返したところで問題の解決にはならないと結論づけた。
「お通ししてください」
 受付からの電話を切ってから、秘書に電話をかけて来客を案内するように伝えた。
 浮橋はパソコンのディスプレイの電源を落とし、待ち構えるようにドアの方をじっと見つめていた。
 ノックの音がして、秘書が島原と名乗る人物を連れてきた。
「どうも初めまして。島原勉です」
「……お久しぶりです、芝川さん」
 秘書が連れてきたのは、国崎探偵事務所の芝川だった。
 先週、芝川がスキップドールを訪れたとき、芝川はとうとう自分の正体を明かさなかったが、すでに彼の身元はこちらで調査済みだった。芝川は大きなビジネス鞄を手にし、安っぽい深緑のコートを着ていた。
 秘書は困惑したように芝川と浮橋を交互に見ていた。浮橋は「もういいよ」と言って秘書を下がらせた。
「また偽名ですか? よく受付を通れましたね」
「こういうのは自信満々に名乗るのがコツでしてね。そうすると人はまず自分の記憶のほうを疑うって寸法です」
「ところでその偽名、何か由来があるんですか?」
「浮橋さんならご存知でしょう?」
 どのような反応を返すのが正解か分からず、愉快とも不愉快ともとれる曖昧な表情を作った。不自然でないところまで返事を先延ばしにする。
「どういう意味ですか?」
「その話は後にしましょう。まずはこれから行きましょうか」
 芝川は鞄の中から、分厚く折りたたまれた紙を取り出した。それを応接用のテーブルの上に広げる。テーブルの上からはみ出るほどの大きさだった。
「何ですか、これは」
「以前お話した火事のあったアパートの見取り図です。管理会社に連絡してコピーをいただきました」
「あなたもしつこいですね……。私は知らないと言ったでしょう」
「まあ最後まで我慢して聞いてください。これは二階の見取り図です。ここにある206号室というのが謎の人物に救助された成木さんの家です。階段から五つ目の部屋です」
「五つ目?」
「そうなんです。206号室なんだから二階にある6番目の部屋だと思うでしょう。ところがそうではないのです。このアパートは4と9のつく数字の部屋が存在しないのです。二階には210号室までありますが部屋の数は八部屋しかありません」
 芝川が見取り図の上の方を指差した。アパートの名前である「メゾン・ド・シュエット」の文字が読めた。
「シュエットというのはフランス語で梟を意味します。知り合いに教えてもらったのですが梟というのはフランスでは幸運のシンボルだそうですね。おまけにアパートの看板には馬の蹄鉄のマークがありました。馬の蹄鉄も幸運をもたらすというおまじないですね。このアパートの持ち主は非常に縁起をかつぐ人なのでしょう。だから日本語で不吉な音のする4や9の番号をアパートから排除したというわけです」
「非合理的ですね」
「浮橋さんは占いはお嫌いですか?」
「今までの人生、祈りだけで助かったことは一度もありません」
「浮橋さん。あなたと前回ここで話したときに謎の人物は『窓から助けを求める声を聞いて』火事の現場に飛び込んだのだと言いましたよね。僕は一度も成木さんが窓から助けを求めたなどと言っていないし実際に成木さんはあの晩誰かに助けられるまでずっと部屋の中で眠っていたんです」
「想像ですよ。思い込みで、間違ったことを言ってしまっただけです」
「いえ見ていたんです。なぜなら実際に九月十二日の火災で窓から助けを求めた人物がいたのです。消防と警察に確認を取りました。もちろんそれは成木さんではありません。成木さんの隣の部屋に住んでいる人物です。205号室の女子大生です」
 浮橋の頭の中に、アパートの光景が蘇った。
「あなたはアパートの窓から助けを求める声を聞いた。その窓は端から六番目にあった部屋だ。当然部屋番号は206だと思い込んだ。階段で二階へ上がり煙の中を走る。部屋番号をすべて確認していれば204号室がないことには気づけたはずだった。しかしあなたは206という番号を見つけて疑うことなく飛び込んだ。そこが成木さんの部屋だとは気づかずに」
「しかし、わたしには――」
「浮橋さんには午前一時にここで電話をしていたというアリバイがあります。所長のつてを頼って通話記録を調べてもらいました。確かにここの外線電話からの発信でした。コピーをもらってきたんですよ。ええとどこだったかな。そうそうこれです。午前〇時五〇分から午前一時六分まで」
 芝川は鞄から通話記録のコピーを出して、地図の上に置いた。
「よくそこまで調べましたね」
「持つべきものは顔の広い上司です」
「しかしこれで私のアリバイは証明されたわけだ」
「それは少し気が早いと思いますよ」芝川は微笑む。「ここにはパソコンがありますよね。パソコンをモデムに繋げば遠隔地からパソコンを操作して電話をかけることができます」
「……そんなこと、素人の私に――」
「できますよ。特別な知識は必要ありません。モデムを操作するソフトなんていくらでもありますし。パソコンの遠隔操作だってそう難しいことじゃありません。火事の中から女の子を助けることに比べればね。しかし問題はそこではありません。浮橋さんが会社にいると偽装した理由です。もちろんそれは火事の現場で人助けをするためではありません。そこで出てくるのが島原勉。ペンネームは竹城四郎。九月十一日の夜から十二日の朝にかけて自宅のアパートで殺された雑誌記者です。そういえば事件のあった月にその人が浮橋さんを訪ねてますよね。秘書の方から伺いました」
「何が言いたい?」
「あなたが島原さんを殺したんです。九月十一日の夜あなたはこっそりと会社を出て島原さんのアパートへ向かった。移動には車を使ったはずです。ここからなら一時間もあれば着きます。そして島原さんを殺害する前か後に会社のパソコンにアクセスして秘書に電話をかけた。車は島原さんのアパートから少し離れた場所に停めたはずです。現場の近くで目撃されるとナンバーからすぐに特定されてしまいますからね。……ところが島原さんを殺して車に戻る途中であの火事を見つけてしまった。あなたは人を殺したその帰りに人を救ったんです」
「面白い話ですね」
「皮肉な話です」
 芝川は笑みを浮かべて言った。
「しかし今までの話は、しょせん可能性の域を出ていないのではありませんか?」
「しかし疑う根拠にはなります。あの日の深夜にあなたは成木さんのアパートにいたんです。納得のいく説明を聞きたいものです」
「それは芝川さんが勝手に想像していることでしょう。私がベランダのことを言ったのは単なる勘違いかもしれないし、そもそも、その発言を聞いたのは芝川さんだけで、それは芝川さんの聞き間違いかもしれない」
「かもしれませんね。しかしあなたが犯人だと確信を持つことができれば僕も本腰を入れて調べることができます」
 芝川は鞄から紙を取り出した。それを浮橋の方に向ける。
「これが最後になります」
「……これは?」
「浮橋さんが事件の夜に使ったレンタカーの申込書です。貸出日は九月十一日の朝で返却日は九月十二日の昼。貸出時のメーターと返却時のメーターの記載もある。ここです。見ると60キロ以上も走っている。一晩中ここで仕事をしていたはずのあなたがどうして車を借りてしかも60キロ以上も走らせていたんですか?」
「夜に走らせたとは――」
「十一日は午前十時に出社してから夜まであなたは会社から出ていません。翌日は連合の大会で夜までずっと働いていたはずです。レンタカーを借りて返す時間はあっても60キロも走らせる時間は絶対にありません」
「事件現場に行ったとは――」
「それはその通りです。しかし車のナンバーまで分かっているのなら警察に知らせればいくらでも証拠を探してくれるでしょう。たとえば監視カメラの映像とか。ここから葛飾まで高速を使ったなら確実に残っているでしょうし。……まだ続けますか?」
 芝川が浮橋の表情を伺っていた。浮橋の手の中では冷や汗が止まらなかった。何か返事を、と思うが、何を言ってもこの状況をひっくり返せるとは思えない。浮橋は直接の返事を避けたが、芝川にとってはそれだけで十分な様子だった。
 この男は確信を持っている。そしてこの男が確信を持って調べれば、この場からいくら逃げたところで、いずれ尻尾を捕まえられるだろう。
「なんだかすみません」
「何ですか?」
「人助けをした方にこのようなことをしてしまって……」
「本当ですよ」ほう、と息を吐いた。笑いそうになる。「まったく、こんなことなら飛び込むんじゃなかった」
「罪滅ぼしのつもりだったんですか?」
「まさか。とんでもない。私はまったくこれっぽっちも自分の正しさを疑ったことなどありませんよ。あの島原という男はあろうことか梅田さんのネタで私を強請ろうとしたんです」
「どういうネタですか?」
「それは絶対に言えません」
 芝川は笑った。それ以上追求してこなかったので、浮橋は芝川に失望せずに済んだ。
「あの、最後にひとつだけ聞かせて下さい」
「どうぞ」
「ベランダで叫んでいたあの子は助かったんですか?」
「ベランダから飛び降りて怪我をしましたが無事ですよ。もうとっくに退院しているはずです」
 それはよかった、と浮橋は小さな声で答えた。
 そのとき、芝川がピタリと動きを止めた。浮橋から視線を外して小さく首を捻る。
「どうしました?」
「いえ。何かを忘れているような気がしたもので」
「あなたも物忘れをするんですね」
「しかし大したことじゃないでしょう。真実を明らかにすること以上に大事なことなどありませんから」
 大真面目な顔で芝川はそんなことを言った。


TOP



Copyright(c) 2015 Kanai ayamachi all rights reserved.

  1. 無料アクセス解析
inserted by FC2 system