深海の熱い夜

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 イーストカルディナという都市の特筆すべき点と言えば、綺麗な海があることと、一年を通して雨が少ないこと、夏はバカンスに訪れる観光客で賑わうこと、そして人々の安全を正義の味方が守っているということ――これくらいしかない、ごくごく平凡な都市である。

 闇の中で光が弾けた。
 夜空をバックステージに、二つの彗星が激しく衝突する。
「はああああっ!」
 一方が吼えた。金色の髪をなびかせ、白のバトルスーツが女の豊満な肉体を強調していた。ほぼ生身と言って良い肉体には、幾度の衝突を経てかすり傷ひとつついていなかった。女の背中には光がまるで翼のように伸びており、その光は見えない力ですれ違うものをずたずたに引き裂くのだ。
 対手は彼女とは対照的だった。まるで甲殻類のような鎧が顔以外の全身をくまなく覆っている。女とぶつかるたびに、その鎧が音を立てて剥がされてゆく。
 怪人が呻いた。
 怪人の顔と声は男であったが、その正体は人間ではない。悪の組織によって作られた人造人間である。
 力量差は歴然だった。
 怪人はかつて一度たりとも女に勝ったことがない。
 イーストカルディナを狙う組織、V機関の十五回目の襲撃は、この夜も正義の味方によって阻まれた。
「ライトニング、スピア!」
 女が叫びながら、手の中から光の槍を創り出した。
 正に稲妻のように走る必殺の一撃が、人造人間タイラントの体を貫いた。
「グ……グオオオオオオオ! おのれミトラめ!」
「タイラント! 私がいる限り、この街をお前の好きにはさせない! ジャッジメント・レイ!」
 ミトラの体がいっそう強く輝いた。その光はまるで太陽のようにイーストカルディナの全域を煌々と照らした。やがて光が一筋の残像を残し、タイラント目がけて衝突した。
「ギィ……っ!」
 くぐもった声を上げたのが最後、ミトラの光が収まったときには、タイラントの姿は跡形もなく消えていた。
 ミトラが空中からゆっくりと地上に降りてくる。街の人々はそれを見て歓声を上げた。戦闘の一部始終を、イーストカルディナの地元テレビ局が生中継していた。
「私がいるかぎり、悪を野放しにはしないわ!」
 ミトラが叫ぶと、観衆は沸きに沸いた。





 正義の味方「ミトラ」が悪の怪人「タイラント」を退治した日の翌日である。男はイーストカルディナにあるバーの中に入った。深海(Deep sea)という名前の小さなバーである。タンクトップのバーテンダーは男を見つけると手を上げて挨拶する。男は何も言わずにカウンター席に座った。
「景気は?」
「そこそこ。ビールを」
 男が注文するより早く、バーテンダーはビール瓶の栓を抜いていた。
「……負け続きじゃないか、テディ」
「知らん。作戦が悪いんだ」
「へえ。そいつは不幸だな」
「ああ。勝てないやつの半分は自分以外のやつに足を引っ張られて勝てないでいるんだ」
「それじゃあ、勝ってるやつの半分は自分以外のやつに勝たせてもらってるのかな」
 バーテンダーの物言いにテディは唇の端を持ち上げて微かに笑った。瓶の半分ほどを飲み干す。イーストカルディナの熱帯夜がテディは大嫌いだった。

 バーの客たちがざわめいたので、テディは店の入り口を見た。
 リナ・マルクインが赤いキャミソールを着てバーの客の注目を浴びていた。彼女は愛想を振りまきながら、自分の座る席を探している。
 この街でリナ・マルクインの名前を知らない者はいないだろう。
 彼女こそがイーストカルディナの平和を守る、正義の味方ミトラの正体である。
 リナは少し迷ってからテディと椅子をひとつ挟んだ隣に腰掛けた。バーテンダーにモスコー・ミュールを注文した。
 カクテルを一口飲んでから、隣に座るテディのことに気がついたらしい。
「あら……あなたもいたの」
「俺がいるのはいつものことだろ」
「ふうん。生きてたんだ」
「人造人間を舐めるなよ。あの程度で死ぬか」
「次は容赦しないわよ、人造人間タイラント」
 リナが冗談混じりにテディに言った。彼女が自分の超能力を解放すれば、数秒でこのバーごとテディのことを吹き飛ばすことができる。
 テディはしかめ面を作ってビールを飲み干した。
「……今は非番だ。仕事の話はよしてくれ」
 テディが空のビール瓶を振って見せると、バーテンダーはすぐさまお代わりを持ってきた。
「そういえば、昨日の夜は来なかったわね」
「ふん……浮かれたお前の顔を見たくなかったんでね」
 実際は、昨晩はミトラから受けた傷の修復に専念しており、呑気に酒を飲んでいる場合ではなかったのだ。
「あら、私が浮かれていたって、どうして知ってるの?」
「チャーリィに聞いた」
「俺は何も言ってねえぞ、テディ」
 カウンターを拭きながらバーテンダーが文句を言う。チャーリィ・カッター。バー「深海」のオーナーである。
「じゃあ後で聞く」
「ねえ、前から不思議だったんだけど、あなたどうしてテディって呼ばれてるの? タイラントでしょ? 由来は何?」
「秘密」
「ねえマスター、どうして?」
「答えるなよ。答えたらもうここには来ねえ」
 テディが釘を刺すと、チャーリィは困った顔を作った。
「というわけだ、お嬢さん。いつも街を守ってもらってるのに、悪いね」
「いいのよ。悪いのはみんなこの男だから」
 リナは嫌らしい目つきで笑った。テディは舌打ちを我慢してさらにビールを煽る。
「なあ……今さらの疑問だが、あんた、俺をここで捕まえようとは思わないのか?」
「どうして?」
「だってあんた、正義の味方だろ?」
「じゃああなたはどうして私の隣で平気な顔してビールを飲んでるわけ?」
「今夜は暑いからな。こういう日はビールが美味い」
「酒の種類を聞いてるんじゃないわ」
「……今は非番だ」
 投げやりに答えて、カウンター奥の棚に並んでいる酒瓶のラベルをじっと見つめた。
 テディは酒を飲みながらいつもこの仕草をする。
 ときどき、自分は酒を飲むために金を払っているのか、酒瓶を眺めるために金を払っているのか、分からなくなるときがある。
「ああ……そう……面白いわね」
「あんたの答えを聞いてないぜ」
「そうね……私も、今は非番だから」
 リナはぼやくような声で答えて、チャーリィにボストン・クーラーをオーダーした。





 V機関が市長を人質にして市庁舎に立てこもり、変身したミトラが中に突入し、市長の首が切られるのを寸前のところで食い止め、最後はいつものように空中戦を経てタイラントを撃ち落とした日の夜も、テディはバーに姿を見せている。
 今日はテディよりも先にリナがカウンター席に座っていた。思わず舌打ちがこぼれて、テディはテーブル席を選んだ。
 アルバイトのバーテンダーにビールを注文する。
 ビールが来るよりも先に、リナがロンググラスを片手にテディのテーブルにやって来た。
「……ビールは注文したが、女を注文した覚えはない」
「不景気な怪人の顔を拝んでおきたくてねー」
 陽気に答えながら、ふらつく足でテディの正面に座る。飲んでいる酒は、きっとソル・クバーノだ。ラムをベースにグレープフルーツ・ジュースとトニック・ウォーターを混ぜたものである。グラスの縁にグレープフルーツが刺さっていた。
「今日は惜しかったわねー。もうちょっとで上手くいったのに」
「そいつはどうも。気が済んだらさっさと向こうに行ってくれ」
「マスター! この不景気な人にビールを! 私のおごりで!」
「いらねえよ」
「あら、せっかく奢ってあげるって言うのに、人の好意は素直に受け取るものよ」
「あんたのは好意じゃねえだろ」
 リナは楽しそうにクスクスと笑った。
 遅れてビールが届く。今日のビールは一段と苦かった。
「ねえあなた……いつもビールなのね」
「悪いか?」
「ビールが好きなのね」
「ビールを飲むと体温が下がる。体温が下がれば熱帯夜も気にならなくなる」
「人造人間も酔っ払うの?」
「あんただって、両親が夜中にせっせとあんたを作ったから生まれたんだろう。だったらあんたも人造人間だ。そのやり方が違うだけだよ、あんたと俺は」
「両親は?」
「酒の話をしよう」
「賛成」
 リナは素早く答えてソル・クバーノを飲んだ。グレープフルーツが顔に当たって邪魔そうだった。
「……あんたはラム酒狂いラムフィリアか?」
「どうして?」
「ラム酒のカクテルばかり飲んでる」
「そうなの?」
「今あんたが飲み干したのもラムベースの酒だ」
「ふうん。気づかなかったけど、私ラム酒が好きなのかもしれない。……ね、ね。質問に答えてない。あなた、酔っ払うの?」
「少なくとも酔っ払いたい夜はある」
「格好悪い」
 リナは首から先をカクンと前に倒して、スープをすするみたいな仕草で笑った。テディはリナから視線を外して、棚の酒瓶を眺めた。酒瓶の前ではチャーリィがせわしなく働いている。そういえばチャーリィが酒を飲む姿を見たことがない。実は下戸だったらどうだろう、と自分の想像にぷっと吹き出した。
「何を見てるの?」
 リナに引き戻される。どこか拗ねたような声色だった。
「もし世界を征服したら、チャーリィにビールを奢ってやろうと思ってね」
「チャーリィはついてないわね。もう一生あなたにビールを奢ってもらえない」
 気の利いた返しを思いつかなくて、テディは言い訳のようにビールを飲んだ。瓶が空になるとおせっかいなリナがアルバイトを呼んで、ビールとソル・クバーノのおかわりを注文した。
「言ったでしょ? 今日は私の奢り」
「機嫌が良さそうで何より」
「良いわよ、すごく……。ねえ、ひとつ聞いていい?」
「駄目だ」
「あなた、どうして世界を征服したいの?」
「仕事だからだ」
 テディの答えにリナは納得していない様子だったが、この答えは本心からのものだったので何を言われてもこれ以上取り繕うつもりはなかった。テディは自分の動機にはこれっぽっちのプライドも持っていなかったし、プライドを持たないことについてどんなに貶められようとも平気だった。
「ふうん……。じゃあ私も仕事だからあんたの邪魔をしてるのかもね」
「あんたのは仕事じゃないだろう? やめたきゃやめればいい」
「仕事だって、やめたければやめられるでしょ? ねえ、仕事とそうでないのと、何が違うの?」
「あんたはどうして正義のヒロインをやってるんだ?」
「さあ……あなたが街で暴れるからじゃないかしら」
「答えになってない」
「ねえ……私、今の仕事、やめてもいいのかしら」
「俺はその方が助かる」
「でも私がやめたら誰があなたと戦うのかしら。そんなの許される? 街の人はきっと私のことを許さないわ。私、今でもあなたと戦うたびに責められるの。家を壊された人や、家族を失った人から。どうして守ってくれなかったんだって。たくさんの人たちに感謝されてるけど、誰からも恨まれていないってわけじゃないの」
「……それは悪いことをしたな」
「じゃあ慰めてくれる?」
「そこまでする義理はない」
「冷たいのね」
 注文した酒を店員が運んできて、テディよりもずっと冷たいソル・クバーノをリナが飲み込んだ。それに倣ってテディも次のビールを一口飲んだ。ビールの苦さに一瞬眉をひそめる。
「ねえ……もし私が正義の味方をやめたら、どうする?」
「あんたに一杯奢る」
「ああ……そう……それはいい考えね……」
 リナの頭がテーブルの上に落ちて、腕が後頭部を覆い隠すように絡まっていた。
「あなたはどうなの? これからも悪役を続けるつもり?」
「今のところ予定はない」
「私も悪役になろうかしら。そしたらあなたが正義の味方になってくれる?」
「さあね。もし仕事がなくなったら、そうするかもしれないな」
 リナはくすくすと笑って、ぶつぶつと何かを言ったが、酔いの回ったテディはよく聞こえなかった。何を言っているのか分からなかったが、リナには「だろうね」という万能の返事をして、テディはさらにビールを飲んで耳を遠くしていた。





 リナはここ一週間、深海でずっとテディを待ち続けていた。
 いつもはテディが座っているカウンター席だ。
 チャーリィがリナの前に出したのはソル・クバーノで、最近はずっとこればかり注文している。テディと出会うまでは注文し続けるつもりだった。
「ねえチャーリィ。テディは来てない?」
「来てないよ」
 グラスを拭きながら、チャーリィはおざなりに答える。テディが店内にいないことはリナも知っているはずだった。今夜リナが深海を訪れてから、もう四杯目のソル・クバーノだったし、テディがいるかどうかを確認するのは三回目だった。
 ナッツをかじり、香ばしい風味をカクテルで喉の奥に流し込んだ。心臓が動くたびに頭の後ろのあたりに血が流れる感覚があった。視界はどろりと歪んでいて、目で見ているものを何も見ていないことに気づいてはっとなる。飲み過ぎていると頭の片隅で考え、その一方でまだ飲めるはずだとリナは思った。
「あいつが何で来ないか、あなた知らない?」
「さあて、ね。あんたが海の底に沈めてから、ずっと深海にいるかもしれないな」
 チャーリィの口調にはそのことでリナを非難するような響きはなかった。単に、自分の上手な皮肉を、誰かに聞かせたいだけだ。テディのことを残念に思っているわけでも、リナに同情しているわけでも、ましてや責めているわけでもない。
 一週間前の戦闘で、タイラントに変身したテディを光の拳で海面に叩きつけたのは他ならぬリナである。それ以来、タイラントとしてのテディが街に現れたことはなかった。V機関のテロ活動が一週間以上の間隔を開けることは珍しくないので、今のところ、テディが生きている可能性も、死んだ可能性も同じくらいの確率で存在していた。
 しかしリナは、自分の力でテディを殺したことが徐々に現実味を帯びてくると、言い知れぬ不安と焦りが心に絡み付いてくるのを感じた。
 リナとは逆の端のカウンター席に誰かが座るのが見えた。
 カウンターに突っ伏しながら顔を傾けると、そこにはずっとリナを待たせていたテディの姿があった。テディはチャーリィに挨拶してから、酔いつぶれているリナの姿を見て席を移ろうとした。
 ゾンビのような素早さでリナがテディに近づいた。
「何だよ」
 リナがテディの腕を掴むと彼はうろたえた。
 しかし何かを言おうとすればするほど何も言葉が出なかった。さんざん自分を待たせたテディを非難しようとして、それがお門違いであることにすぐに気づき、気づいてしまった以上、それを言うことはためらわれた。
「最近、来なかったわね」
 リナはテディの隣の席に移動した。逃げようとしていたテディも腹を決めたのか座り直す。気を利かせたチャーリィがリナの飲みかけのソル・クバーノとナッツの皿を運んできた。
 テディはやはりビールを注文し、今夜は一緒にカーリーフライも頼んだ。
「仕事が忙しくて」
「仕事なら私と会うはずでしょ」
「表に出ない仕事もある」
「何を企んでるの?」
「乞うご期待」
 リナは吹き出して、酔ったふりをしてテディの方に体を寄せた。
「今夜はかなり飲んでるな」
ラム酒狂いラムフィリアだから」
「ラム……何だって?」
「あなたが言ったのよ」
 リナは心の底から愉快な気分だった。数分前までリナの心を支配していた不安と焦燥が、今は同じだけの質量の安堵に変わっていた。
「ねえ、聞いて聞いて。面白いことを思いついたの」
「聞きたくない」
「じゃあ話さない」
「……話したいなら、聞いてやる」
「別に話したくないもの」
「だったら、聞かない」
 テディは仏頂面で、熱々のカーリーフライを口の中に運んだ。それがあまりにも美味しそうだったので、リナは許可も取らずに手を伸ばしてひとつつまんで食べた。熱すぎて口の中を火傷しそうになり、慌てて酒を飲んで冷やした。その結果、リナはますます酔いが回ることになる。
「美味いか?」
「熱い」
「そうか。次は人のものを勝手に食べるな。食べたかったら自分で注文しろ」
「ごめんなさい。これは天罰ね」
「天罰なんかない。天罰ってのは、天罰だと思わなきゃ痛みを我慢できない奴が考えたものだ」
「あなたは天罰とは無縁そうね」
「あんたは……色々と縁がありそうだ」
「ねえ、私たちって、実はとっても似たもの同士なんじゃないかしら」
「それがさっきあんたが思いついた『面白いこと』か?」
「面白くない?」
「ジョークとしてはつまらない」
「それは事実だから?」
「否定はしないでおこう」
 リナは笑って、カーリーフライと引き換えに自分の皿のナッツをテディに勧めた。


《 深海の熱い夜 / The Deep Inside 》



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