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6.はなれわざ


 火曜日、授業が終わってからわたしは彩乃との待ち合わせ場所へ急いだ。桃ちゃんと頼子も誘ってみたのだが、それぞれ先約と金欠を理由に断られてしまった。
 有嶋駅の前に構えた、時計と花壇が一体になった建造物が待ち合わせの目印だった。彩乃がやって来るまで携帯電話を使って暇を潰す。携帯用サイトをいくつか回っているだけで時間はいくらでも潰せた。
「ごめんごめん! ちょっと遅れちゃったかな」
「気にしてないよ」
「遅れてないよ、とは言わないんだ」
「遅れたのは事実じゃん」
 彩乃は笑った。冗談だと分かってくれたらしい。
 彩乃はノースリーブの、裾にフリルのついたワンピース。下はロングブーツとデニムのズボン、肩から小さなバッグを提げていた。
 これまでわたしが見てきた彩乃は別に気合いを入れてお洒落をしていたわけではなくて、彼女は普段からこういう格好で生活しているらしい。わたしなんか、今日は彩乃と遊ぶということでかなり適当に服を選んできたのだけど。こうして並んでみると、明らかにわたしの方が見劣りしているような気がする。
「……どうしたの?」
「いや。もうちょっと、可愛い服を着てくればよかったな、って」
「マリちゃん可愛いよ」
「んー。でもさあ、まだ何かやりようがある気がする」
「前のあの服とかすごくよかったし。あのワンピ」
「気合い入れてたからね」
「へー。マリちゃんも気合い入れるときがあるんだ。なんか意外」
「できればずーっと気合いを入れて生活したいんだけどね……。さすがに気力が持たないから」
「でもさでもさ、可愛い服を着たいって思わない? てかもったいないよ!」
「わたしの中にある女の部分は着飾れって言ってるんだけど、それ以外の部分は面倒だからやめておけ、って囁くの」
「えー何それ。二重人格みたいな?」
 彩乃はケラケラ笑った。他意のない笑いはあまり人を不愉快にはさせないものらしい。
「それで、どっか行きたいとこあんの?」
「んー、特にないかな」わたしは少し考えた振りをしてそう答える。「彩乃は?」
「自由にしていいんなら服とか買いたいな。てかマリちゃんて普段何してるの?」
「普段って?」
「桃ちゃんと遊ぶときとか」
「んー。本屋」
「え?」信じられない、という顔でわたしを見た。彩乃にとって本屋は娯楽の要素を含まないらしい。「なんで? 本? 何のために? ていうか、え? え?」
 正確に言えば本屋の中にあるコーヒーショップで紅茶を飲みながら桃ちゃんと話すのが好きなのだが、まあ驚いているみたいなので放置しておこう。他人に誤解されるのは慣れているし。
「彩乃は本とか読まないの?」
「んー、ケータイで小説読むくらい」
「わたしはミステリーとか好きだから」
「人とか刺されて死ぬやつだよね?」
「いつも刺殺とは限らないけど……」
「もしかして探偵事務所で働いてるのって、ミステリーが好きだから?」
「いや、そっちの方は成り行き」
 特別な理由があって働いているわけではない。あの時給でなければあんなところ、明日にでも辞めてやる。と口では言いつつも、実際にどうなるかは分からない。浮き世の義理というものは無視できないので、なんだかんだ文句を言いつつも当分は如月の世話をすることになりそうだ。
 わたしがそういうことを簡潔に説明すると、彩乃は同情するみたいに深く頷いた。
「働くって大変なんね。あたしバイトとかしたことないから。そっかー、人間関係とかマジうざそう」
「そういう彩乃もいつか働かなきゃいけないんだけど」
「うわー、働きたくねー」彩乃は笑う。「何だろうなー。てかぶっちゃけこのままずーっと遊んで暮らしたいんだけど」
「彩乃は毎日楽しそうだねえ」
「そうでもないけど」さらりと答える。「んで、どこ行く? てか買い物でいい? 行きたいとこないなら、なんかあたしの行きたいとこ行くけど」
「じゃあそれで」
 歩き出した彩乃の後ろについて行く、どこまでも受動的なわたし。
 駅前から通りに出て、しばらく道なりに進む。横断歩道を渡り、角のビルに入る。外側がガラス張りで、入り口の脇にビルの名前を彫ったプレートが埋められていた。やたらと子音の多い、どう発音すればいいのか分からない名前のビルだった。
 中には美容室や喫茶店、アクセサリーショップなどが並んでいた。きらびやかな店内を横目で眺めつつ階段を上り三階へ。
 わたしは別にお洒落をするのが嫌いというわけじゃない。なので、彩乃に連れて来られたこの場所にただならぬ胸の高鳴りを覚えたことは否定できない。
「ここ、いつも来るの?」
「うん。けっこういいのが入ってきてるし。ちょっと高いけどね。でもここでしか買えないのがあるから。マリちゃん、ここ知らない?」
「んー、この辺は全然来ないから。それにわたし、こういうお店ってあんまり……」
「服とか興味ない人?」
「さっきもそういう話しなかったっけ」
「だっけ? あ、あれ可愛いい」
 目ざとくお気に入りを見つけてしまう彩乃。全体的に見てシックで落ち着いた雰囲気のものばかりが揃った店だった。値段はぜんぜん落ち着いていなかったが。それにもかかわらず、真剣に購入を検討する彩乃とは金銭感覚がずれているのかもしれない。いや、もしかしたらわたしがファッションにお金を使わなさすぎるだけで、彩乃の方が一般の平均に近いのかもしれないけど。
 わたしの中でファッションの優先度はあまり高くない。じゃあそれに何が取って代わっているのかというと、うーん、何も思いつかない。そもそもわたしの趣味って何だろう。ミステリーくらいだろうか。それにしたって、最近はあんまり読んでないし。
「これなんかどう?」
 自分の体に服を当てがいわたしに質問してくる。裾にフリルのついた黒とグレーのワンピース。全体的に色を抑えめにしているが、しかし細部の豪華さは決して妥協することがない。しかもただ装飾されているだけではなく、細やかな利便性も決して外さないあたりが値段のゆえんだろうか。
「うーん、どうしようかなあ。似た感じのをもう持ってるんだけどさあ。てかあれ買ってから全然着てないんだけど。うーん、買おうかなぁ」
「彩乃に合いそうだね。カジュアルだし」
「カジュアル?」
 彩乃がきょとんとした。しまった、自ら無知をさらけ出してしまったか。聞こえなかった振りをしてわたしはボトムスのコーナーへ逃げた。あまり下手なことを言って彩乃を失望させたくなかった。
 ファッションに関してはそれほど知識があるわけじゃない。わたしが服を選ぶときはいつも自分の感性だけに頼っている。それでも今まで十分にやってこれたということは、それこそがファッションの本質なのかもしれないけど。
 空間を貪欲に活用しようという意図か、ボトムスのコーナーには商品が窮屈そうに並べられている。狭い店内なのでそれほど数は揃っていなかったが、それだけに仕入れる品はかなり厳選しているらしくて、他の店では主役になりそうな品々がここでは脇役に甘んじているのである。
 なんという競争率。野球でいえば大リーグか。わたし野球見ないけど。競争率が高まり能力がインフレを起こすと年俸もインフレを起こすのだ。いくつかの商品の値段を確認して、わたしの比喩が思っていた以上に的を射ていたことを確認した。
 そのうちのいくつかを手に取って、これを着ている自分を想像してみる。ファッションというのは不思議なものだ。どうして自分を装飾することが快楽に繋がるのだろうか。
 結局その店でわたしは靴を一足とコートを一着買ってしまった。けっこうな出費になったけれど、お金の価値とは使うことにあるのだから強く心惹かれたものを買うことは決して無駄ではないはずだ。
 彩乃の方はワンピースとシャツを何着か購入したみたい。話によるとこの店は商品の入れ替わりが激しく、気に入ったものはその場ですぐ買わなければ次に来たときにはすでに売れて在庫もない、という状態になりやすいのだという。
「まあ小さいからねー、在庫管理とか大変なんじゃね? アパレル関係で店を出すときに一番めんどいのがスペースの問題だし」
「詳しいんだね」
「別に。知り合いでそういうのやってる子がいるから聞いただけ。なんかね、大学出たら自分のショップ持つんだってさ。今お金集めてるみたいだけど」
「それはすごい」
 と適当なことを言ってみる。だけどこの世界には有象無象と言っていいほどのたくさんのショップが存在し、人類全体から見れば自分の店を持つことなんて実は珍しいことでもなんでもないんだろう。いや、何もかも人類規模で考えてたら、お世辞の一つも言えなくなっちゃうけど。
 ビルを出て、駅前を適当にふらつきながらわたしたちは夕食を食べる場所を探す。気がつけばすでに夜の帳は降りていて、それに対抗するかのように不健康な街の照明が空の闇を力強く払い捨てていた。
 暗いのに、ぼんやりと明るい空。地上の光が雲に反射してぼんやりと輪郭を浮き上がらせている。
「彩乃って、いつもこういうところで遊ぶの?」
 わたしはそれまでの話題を唐突に切り替える。すでにわたしたちの会話ではそれが当たり前のことになっていた。
「んー、まあ適当に。お酒飲みに行くこともあるし。でもマリちゃん、あんまり飲めないじゃん」
「でもお酒は好きだよ」
「すぐ酔うし」
「酔うために飲んでるんだからその方が効率が良いでしょ」
「えー、なんかそれ違くない? お酒飲むのに効率とか」
 彩乃の意見には全面的に賛成だった。ときどき自分でも賛成できないような意見が口をつくことがある。それは一体誰の意見なんだろう。
 結局、夕食は手近なハンバーガーショップで済ませることになった。
 小さなテーブルに向かい合わせで座る。メインディッシュを早々に平らげて、紙コップのコーラをストローで片付けながらフライドポテトを食べる。
「わたし、こういうとこで食べるの久しぶりだ」
「えー? マリちゃんマック嫌いなの?」
「というか、外食を控えてるだけ」
「なんで?」
「太るじゃん」
「そうなの?」
 彩乃はナゲットを口に放り込んだ。咀嚼しながらわたしのことをまじまじと見つめる。
「マリちゃん別に太ってなくない?」
「太ってるよ」
「嘘」
「太ってないように見せてるだけ」
「えー、何それ。そんなのあるんだ。ていうかじゃあ自炊してんの? めんどくない?」
「面倒なら食べないだけ」
「マジありえん。てかご飯抜きとか無理くない? すげー腹減るし」
「お腹減ったら食べるよ」
「不規則じゃん。そういうのあんま良くないんじゃね?」
「今まで規則正しく生きてきたけど、神様は決してわたしの脂肪をお取りにはならなかったから」
「神様とか、ウケるんだけど」
 彩乃が手を叩いて笑った。感情をストレートに表現することは良いことだ。たとえそれが嘘だとしても、第三者からは真偽を判別することはできない。
 ……いや、わたしは何を考えているんだろう。自分がひねくれ者であるという自覚は十分にあったけれど、だとしても限度というのがあるはずだ。どうもわたしは、楽しいとか嬉しいとか、そういうものを素直に受け取るのが下手なのだ。妙な理屈や皮肉を持ち出してそれをひっくり返したくなる。素直じゃないのか、単にこそばゆく感じているだけなのか。
 つまりそれは、彩乃と一緒にいることを楽しいと感じている証拠なのだろうけど。
 食事を終えて、わたしたちは席を立った。店を出て、歩きながら雑談を交わす。テーマは次の目的地について。結論が出るまでは当てもなく通りを歩き続けるのだ。
「次どうする? どこか行きたいところとかー」
「お任せ」
「えー何それ。なんか今日あたしが案内してばっかじゃん。不公平だよ」
「それじゃあゲームセンターでも行く?」
「おー、行く行く」
「ゲームするんだ?」
「クレーンゲームとか」
「あー、そっち系ね」
「あとプリクラ」
「写真撮る?」
「いいんじゃね? 何かこう、今日の思い出を取っておくんだよ」
「思い出は頭の中に保存されてるけどね」
「でも写真あった方が思い出しやすいじゃん」
「劣化するからこその思い出なんじゃないかな。よく分かんないけど。なんていうか、思い出ってのはイメージなんだよ。事実を記録するんじゃなくて、そのときの感情とか、雰囲気とか、形に残らないもの」
「……マリちゃんて、いつもそういう難しいこと考えてるの?」
「彩乃は考えない?」
 彩乃は苦笑いする。わたしは人間誰しも生涯に一度は生と死、記憶と存在について考察を巡らすものだと思っていた。これはかなり過小に見積もった数値なので実数はこれよりも大きいだろうという消極的な推測もあった。
「しねーよ」
 彩乃の的確な突っ込みが入った。ストレート故に、的確。
 彩乃と会話をするのは楽しかった。
 わたしの知っているゲームセンターへ。雑談しながらゆっくり歩いたけれど十分もかからなかった。
「写真撮ろうよ」
 クレーンゲームで一通り遊んだ後、おもむろに彩乃が言った。
 腕を取られて、強引に筐体へ連れて行かれる。暖簾のようなものをくぐってカメラの前に立った。
 彩乃が画面に触れて操作し、写真の枠を決める。普段あまりプリクラを利用する機会のないわたしは彩乃が操作するのを黙って見ていた。操作が終わると、目の前の画面にはカメラに写るわたしたち二人の姿が映し出されていた。
「ほら、ニーって」
 わたしの腕を引き寄せて肩に頭を預ける。彩乃の体温を間近に感じる。彼女が掴んでいる腕がこそばゆかった。
 マシンからアナウンスがしてシャッターが下りる音。それに素直に従って、作り物の笑顔を浮かべた。
 その後は、備え付けのタッチペンで今度は撮影した写真に文字や装飾を書き加える。
「ほら、マリちゃんも書いてみなよ」
 彩乃に言われてペンを受け取る。何を書くべきか少し迷って、並んだふたりの顔の回りに星のスタンプを走らせた。
 総仕上げとばかりに彩乃が次々と文字と飾りを付け加えていく。決定ボタンを押すと、ウェディングケーキのように賑やかな写真が筐体から吐き出されてきた。
 ゲームセンターに備え付けられている鋏を使って写真を二等分した。
「はい。マリちゃんの分」
「ありがと。……よく撮れてるね」
「てかもしかして写真嫌い?」
「なんで?」
「なんか乗り気じゃなさそうだったから」
「うーん、そんなことないけど」
 本当のことを言えば写真を撮られるのはあまり好きじゃない。撮るのは好きだし見るのも好きなのだが。自分の姿がわたしの預かり知らぬ場所に保存されてしまうことに抵抗を覚えているのだろうか。
 ゲームセンターを出る。携帯電話で確認すると、もう九時を回ったところだった。
「どうする? まだ遊べる?」
 彩乃が聞いてきた。ひんやりとした夜の空気が頬の熱を冷ましてくれる。
 わたしは携帯電話をポケットに仕舞いながら、
「ん。眠い」
「んじゃそろそろ帰るか。あー、あたしはもう少し遊んでこうかな」
「夜強いんだね」
「マリちゃんが弱いだけじゃない? てかまだ九時じゃん。つーか小学生かよ」
「昨日ちょっと夜更かししてたからね……」
「なんで?」
「今日の授業で課題出てたから。徹夜でレポート書いてた」
「うわー。マジお疲れ様です」
 ふざけて仰々しく頭を下げる。わたしと彩乃は人目をはばからず笑った。
 それからしばらく無言が続いた。二人で大通りを歩く。
 様々な事情を抱えた人々がそれぞれの人生を背負って歩いている。交差点で信号を待っているスーツの男。派手な髪型をした女性。小さな子供の手を引く父親。学生服の少年。全身を黒でまとめた妙齢の貴婦人。
 それぞれが全く別の価値観を持っている。こんなに近くにいるのに、わたしたちの心はまったく触れ合うことがない。すれ違うだけ。人と人の間には決して越えられない一線がある。
「……何か言いたそうだね」
 信号が青に変わった。安っぽいメロディーが信号機から流れて、人々は一斉に歩き出した。わたしと彩乃だけがその場に取り残される。
「彩乃は、わたしが言いたいことが分かってるんじゃない?」
「さあ。あたし、人の心は読めないから」
 彩乃がそう言ってとぼける。わたしは鼻で返事をした。
 金縛りが解けたみたいに、わたしたちは歩き出した。歩きながら、話の続きを。
「それで、何を聞きたいの?」
「理由」
「何の理由?」
「そんなの、決まってるじゃない」わたしは言った。勇気を出して。「二人を殺して首を切った理由だよ」



 しばらく、無言が続いた。
 その間もわたしたちは歩き続けて、駅に着く。切符を買って、改札を通って構内に入る。
 電車が来るまでの数分が妙に長く感じる。ずっと、彩乃の沈黙の意味を考えていた。
 驚いたわけではないだろう、と思う。今さら何を言っても、彩乃を驚かすことはできない。ただ単に、答えるべき言葉を探しているだけだ。
「んー、理由ねえ」久しぶりに口を開いた。面倒くさそうに彩乃は言う。「言っても分かってくれるかどうか」
「それでも聞きたい」
「うちの父親のためだよ」
「命令された?」
「まさか。あたしが勝手にやっただけ」
「でも彩乃、お父さんのこと好きじゃないって……」
「大嫌い。死ねばいいのに」自分で言ってから、笑った。「でもまあ、それとこれとは別だから」
「別?」
「しょうがないって意味」
 線路沿いに風が流れていて、電車を待つわたしたちの体を冷やした。
 有嶋駅のホームにはわたしたちの他にも電車を待つ人の姿がある。彼らの目に、わたしたち二人はどのように写っているのだろうか。仲の良い友人に見えるのだろうか。少し自信がなかった。
「あーあ。嫌だなあ」
「何が?」
「んー、色々。なんであたしがこんなことしなくちゃいけないのかなーって」
「しなければいいのに」
「しょうがないじゃん。あの父親が困ってるんだから」
「大嫌いな父親のために? 一体何を守るために戦っているの?」
 少し嫌な言い方になったけれど、彩乃は否定しなかった。代わりに困ったような表情を浮かべる。穏やか見えたけれど、それは達観しているだけだ。諦めている。自分を取り巻くすべての世界に。
 そんな顔をどこかで見たことがある。
「岳さんのこと、本気で好きだったの。だからつい愚痴を言っちゃって、それが記事になるなんて思わなかった。あたし、騙されてたんだね。あの日、父親に怒られて、失望されて……その日から、あの二人を殺すことを決めてたの。もちろん、そのためにずっと恋人の振りをしてね。まあ、あたしは今でも本気で好きだったんだけど。できれば死んで欲しくなかったけど……でも、あたしはそういう人間だから」
「そう教育されたから?」
「大嫌いでも、あの父親があたしのすべてなの。あの父親のためなら何でもできる。すっげー嫌いだけど。ていうかぶっちゃけ、あたしもこんなことはしたくないんだけどさ……まあ、仕方ないし。好き嫌いでどうこうするもんじゃないしね、価値観ってさ」
 電車がホームに滑り込んできた。わたしたちは当たり前のように乗り込む。
 すぐに空いている席を見つけて二人で並んで座る。アナウンスの後に、わたしたちを乗せて電車は厳かに動き出した。まるで儀式のように、長い長い棺が、静かに線路の上を滑り始めるのだ。
「あの父親が怖いの」
「怖い?」
「嫌われるのが。あたし、我慢できないの。そしたら泣きたくなるの。耐えられなくなって、苦しくなるの」
「理解できない。他人のためにそんなことを――」
「マリちゃんは彼氏に振られて死にたくなったことは? 恥ずかしい思いをして消えてしまいたいと思ったことは? 客観的には――今こうして思い返せば、なんてことはない些細な出来事でも、そのときの自分は本気で苦しんでいたんじゃないかな」
「わたし、そんな経験ない」
「あたしと真理紗は違うからね。あたしも、あんたのことは理解できない」
 二人で並んで、向かい側の窓から夜の町並みを眺めている。互いに顔を合わせていないので彩乃がどんな表情をしているのかは分からないし、彩乃はわたしがどんな表情をしているのか分からないだろう。
 きっと彩乃も無表情だろう、と思う。最初から分かり合えるつもりなんかなかった。輪郭で触れ合うことはあっても、その内側を覗き込むことはできない。心には不可触な部分がある。
 わたしたちは孤独なんだ。
 それぞれの心を守り続ける限り。
 しばらく無言で窓の外を眺め続けた。こうして一緒に座るわたしたちは他の乗客たちの目にはどう映っているのだろう。仲の良い友達に見えるだろうか。しかしそのうちの何人がわたしたちの心の中にまで踏み込んでくるのだろうか。そんな危険な真似をしてまで、真に心を通わせたいと思う人間がどれだけいるのだろうか。
 心の中など必要ない。それらしく振る舞えば、それが空っぽでも構わない。触れているのが心の殻でも興味がない。真実なんで最初から求めていないのだし。欲しいのは心地よい嘘、口当たりの良い世辞、都合の良い交流。
 電車はゆっくりと速度を落とし、駅のホームで停止した。
 彩乃は立ち上がり、久しぶりにわたしの顔を見ると、いつもの軽い調子でばいばいと言って電車を降りた。彩乃に何かを言うべきだと思っていた。だけどそれは絶対に別れの挨拶なんかじゃない。結局わたしは何も言わなかった。臆病者め。
 彩乃の背中を見送っていると、やがてドアが閉まり彼女の姿も見えなくなる。彩乃は一度も振り返らなかった。そのことにわたしの胸がズキリと痛む。せっかく手に入れた宝物を失くしてしまったみたいな、取り返しのつかない喪失感。
 間もなくして電車は再び動き始める。彼らはいつでもダイヤに忠実だ。わたしが降りる駅まで、およそ八分といったところだろう。その次が樫桜駅。観山駅は、さらにもうひとつ向こうの駅だ。

 翌朝、宮坂さんから電話がかかってきて、徳富彩乃が昨日の夜中に逮捕されたことを教えてくれた。綿谷涼太郎に対する殺人未遂罪の現行犯逮捕である。



 いつもより三十分も早く大学へ向かう。今日最初の授業は朝一番だったから、さすがに構内に人影はまばらだった。廊下をモップがけしている清掃会社のおばさんに挨拶を返しながら教室に入る。
 がらんとした無人の教室を想像していたのだが、そこには予想外の人物がいた。
「やあ真理紗。ずいぶんと早いんだね」
 ……まあ、こういう可能性を考えなかったわけではない。こいつはいつもわたしの予想を大胆に裏切る。来ないと思うところに必ず来る。予想外ゆえに、予想通り。
 組んでいた長い足をほどくと如月は教壇から飛び降りた。いつもは真っ直ぐに流している長い髪が、今日はヘアピンで頭の上にまとめられていた。黒いジャケットの下は白のブラウス、そして女子高生の制服みたいなチェック柄のミニスカートを穿いている。
「なんであんたがこんなところにいるわけ?」
「なあに、ちょっとしたサービスだよ。真理紗も、私に色々と聞きたいことがあるんじゃないかな?」
 よっと、と小さく声を出して、如月は机の上に飛び乗った。両手を広げてバランスを取りながら片足で立つ。一応わたしの大学の備品だし、自分に愛校精神があるとは思わないけれど土足で机を踏まれるのは良い気分ではない。
 そしてそんな格好をしたせいでスカートの中が見えてる。
「見せているんだよ。真理紗に見せたくてね……」
「うわ。それは見たくなかった」
「さて、恐るべき首切り魔、私たちが名付けるところのデュラハンの正体は徳富彩乃だったわけだが」わたしにパンツを見せて満足したのか、如月は立つのをやめて机の上に腰掛けた。「ふふふ、真理紗の淡泊な反応を見ると、どうやらすでに気づいていたようだね。今朝初めて知ったという感じでもなさそうだ」
「……もしかしてわたしの反応が見たくてわざわざ待ってたわけ? 生憎だけど、昨日の夜の段階で気づいてたよ」
「ふん。それじゃ、私の解説は不要かな」
 人を食った如月の言い方にも、今さら腹を立てるようなことをしない。こいつに悪気はないのだ。ただひたすら悪質なだけで。
「……いい。あんたの口から聞きたい」
 憶測ではなく、真実として。
 彼女は常に真実をわたしに語ってくれる。その点に関しては全幅の信頼を寄せているのである。
 如月はしばらくわたしの顔を見つめると、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。腹が立ったのでそっぽを向く。
 教室の時計を見て授業が始まるまでの時間を確認する。まだまだ十分に余裕はある。如月の話を聞いて、彼女を大学から追い払うくらいの余裕は。
「では徳富彩乃の行動をおさらいしよう。……その前に、私から質問だ。真理紗はどうして彩乃がデュラハンであることに気がついたのだ?」
「ああ、それはね――事件のあった日、車で彩乃を家に送ったけど、彩乃のアパートは樫桜にあったの。なのに彩乃と合コンした日、帰りに一緒の電車に乗ったけど、そのとき彩乃は樫桜駅では降りなかった」
 彩乃の家は東華ホテルと宮坂探偵事務所の間にある。合コンの会場である有嶋市は事務所とわたしの家を挟んで観山市とは反対側にあるのだから、配列としては有嶋駅、事務所とわたしの家、樫桜駅、観山駅……となるはずである。だとしたらあの日、彩乃がわたしより先に電車を降りたのは不可解である。彩乃のアパートがあるはずの樫桜は、わたしが降りる駅のさらに先なのだから。本当ならばわたしが先に電車を降り、彩乃がそれを見送るのが正しい光景なのだ。
 わたしの説明を聞くと、如月は満足そうに頷いて、
「なるほどね、そこまで露骨な証拠を見てしまえば、さすがの真理紗でも気づかざるを得ないか。くっくっく、少し見直したよ」
「見直した?」
「君はもっと頭の悪い人間だと思っていたからね」
 失礼なやつだ。悪気がないと分かってはいるけれど。
 しかしわたしのことは一顧だにせず、まるで独り言を呟くみたいに如月の講義が始まる。
「彩乃の家は樫桜ではなかった。ではあの日真理紗が見た樫桜のアパートは一体誰の家なのか。くくくっ、考えるまでもない。あそこは綿谷涼太郎の家なのさ。徳富彩乃は、自らの名前を外池麻美と偽って、涼太郎と二ヶ月ばかり交際を続けていたわけだ。もちろん、あの日の殺人のためにね。アリバイのためとはいえご苦労な話だよ」
 そう、すべては九時の時点で外池麻美が生きていたと思わせるために。
「岳将也と1422号室に泊まった彩乃は、あの日の早朝に彼を殺して首を切り落とした。おそらく前の晩に、彼の飲み物に睡眠薬を混入させたのだろう。そして眠っているところを殺したのだね。非力な彼女でもそれくらいは可能だろう」
「首を切った理由は?」
「まあ待ちたまえ、それは後で考察するから……。さてその日、ホテルにはあらかじめ1011号室に外池麻美を呼び出しておいた。もちろんこれは本物の外池麻美だが。そして彩乃は、八時少し前に真理紗のことを電話で呼び出した。その直後に外池麻美を殺害し、彼女の首を切断したのだ。体の方は1011号室の浴室に沈めておく。冷蔵庫に入っていた氷と一緒にね。もちろんこれは死体の死亡推定時刻の幅を少しでも広げるためだ。死体を冷やすことで腐敗が遅れて正確な推定は難しくなるからね。予定ではこの死体は正午に発見されるはずだから、それまでに氷は溶けてなくなっていると判断したのだろう。現に浴槽の氷はすべて溶けていた」
 1011号室の浴室で"外池麻美"の死体を見たとき、体が妙に寒かった記憶がある。てっきりあれは、おぞましいものを見たせいで起きた心理的な錯覚だと思っていたのだけど、あれは単に、浴槽に入れた氷で浴室の空気が冷やされていたのが原因だったのかもしれない。
「そして真理紗が到着するのを、鍵の掛かった1422号室で待つ。そもそも密室内に犯人がいたのだから密室のトリックも何もあるわけがない。そして八時に私たちが到着した。彩乃の希望で、真理紗は彩乃を樫桜のアパートへ乗せて行く。そのアパートを自分の家だと言い張ってね。しかし実際にその部屋に住んでいたのは綿谷涼太郎だったのだ」
 淡々と、如月は真実を告げた。
 余計な装飾を加えないのはいつもの彼女らしくない――と言えるほど、わたしが如月のことを知っていると思うのは、ただの自惚れかもしれない。
「私たちには二つの証言が与えられていたね。ひとつは君の、九時には徳富彩乃と一緒にいたという証言で、もうひとつは外池麻美と一緒にいたという涼太郎の証言だ。しかし実はこの二つの証言は同一の場所で起こっていたのだ。彼女は同じ時間に同じ場所で、複数の人間に対して徳富彩乃と外池麻美という異なる人間を演じていたわけだ。まったく、ひやひやさせるような離れ業だよ」
「警察に捕まったとき、もしわたしが彩乃の家の場所を話してたらそれだけでアウトになってたんじゃない?」
「その危険はあったと思うね。だからこそ監視役には私たちが選ばれたのだろう。警察に彩乃のことを売るような、協力的な人間では駄目なのさ。彩乃は事前にメディアを通して、私の噂くらいは聞いていたんじゃないかな」
 日本の四大探偵、という綱森さんの言葉を思い出した。
 警察に頼らず事件を解決することができる四人のうちの一人。そんな、探偵小説の世界の住人みたいなのが四人もいるなんて、とても想像できないけれど。
「頭を持ち去った方法は? ホテルには監視カメラがついていて、人の出入りをチェックしてるって聞いたけど……」
「真理紗と一緒にホテルを出るときだよ。彩乃が持っていたあの大きなバッグの中さ。つまり徳富彩乃は、外池麻美の首を持って綿谷涼太郎と会っていたのだ。自分の名を外池麻美と偽って。実に悪趣味な構図だ」
 そう言う割には愉快そうな微笑をたたえながら言う。
 彩乃のが肩に提げていたあのバッグ。覚えている。わたしの車に彩乃を乗せたとき、外池さんの首も一緒に乗り込んでいたのだ。バッグの革一枚を隔てて、真実はすぐそこにあったのに。
 バッグに入った生首を想像して、少し寒気がした。今度ばかりは気温のせいではないと思う。
「ちなみに彩乃、つまり偽の外池麻美が涼太郎の部屋から自分の荷物を持ち出したのは、警察に証拠を残さないためだ。しかし指紋だけはどうしようもない。荷物を持っていくのは転居先が決まったと言えば済む話だが、部屋中の指紋を拭き取るのは不自然極まりない」
「というか、そもそも綿谷さんの部屋に住んでたのはどうして? 荷物を取りに来る手間を考えたら、いくら恋人の振りとはいえやり過ぎなんじゃない?」
「理由のひとつとして考えられるのは、樫桜のアパートから荷物を持ち出す姿を君に見せるためだよ。あの部屋が自分の家だと言った以上、家に戻ったのにそのままの格好で出てくるというのは不自然だからね。普通は外出のために着替えたり荷物を置いてきたりするだろうし」
 如月は、そこで一度言葉を切った。事件のことを反芻しているのかもしれない。
「……ここで面白いのは、やはり死体の正体を巡る構図が逆転してしまったことだろう。死体の首を持ち去ったり、あるいは指紋を潰したのは死体が偽物であることを隠すためだと思われていた。んふふふ、警察はそう思っていたようだよ。ところが実際は、死体が本物であることを隠すための工作だったのだ。一般の人々は、あるものが正しいかどうかを判断するときにそのものだけを見て判断する悪癖がある。今回の場合はホテルの浴室にあった死体だ。捜査陣の目はあの死体に注がれる。騙されまいと注意深く死体を観察する。しかしそれこそが彩乃の仕掛けた罠だったのだ。彼らが無意識のうちに使っていた『綿谷涼太郎の証言』という物差しこそが間違っていたのだ。手品ではありがちな手法だがね。そのものではなく、それを計るための基準を取り替えてしまうのさ。物差しが誰かに用意されたものならば、正しい結果が出るはずもない」
「でも、あの死体が外池麻美さんの死体だってことは、いつか警察が突き止めるんじゃない?」
「それはそうだが、不幸にも彼女は身よりも友人もいない、天涯孤独な人間のようだね。未だに外池麻美の知り合いを名乗る人物は現れていないし、いくら日本の警察が有能でも、彼女がどこの外池さんなのかを突き止めるにはもうしばらくかかるだろう。で、例えば麻美の実家を突き止めて、彼女の写真か何かを手に入れたとする。それを綿谷涼太郎に見せるとどうなる? どうにもならないさ。ああ、昔はこんな女の子だったんだな、と思うくらいだ。昔の写真に映る姿が今の姿と違う、なんてことは我々が日常的に経験することだよ。もちろんだからこそ、外池麻美が天涯孤独の女性だったからこそ、彩乃はこんな綱渡りを思いついたのだろうが」
 くくくくっ、と如月は笑う。
 わたしは笑わなかった。むしろ青ざめていた。手品のように人を殺してしまう彩乃に、今さらながら戦慄を覚えたのだった。覚悟はしていたはずだったのに。
 如月はちら、とわたしの表情を伺ってから、
「さて、綿谷涼太郎という純真な青年を利用することで、彩乃はまんまと麻美の死亡推定時刻を九時以降にずらすことに成功した。いや、あの死体が麻美の偽物だと考えれば、九時以前の犯行という可能性もあったがね。その場合、綿谷涼太郎の会った"生きている麻美"が問題になり、犯人は本物の外池麻美かその証言をした綿谷涼太郎の二択しかない……というのはさっき説明した通りだ」
 犯人が綿谷涼太郎ではなく、かつ外池麻美が殺されていた――という可能性は、なかなか出てこないだろう。
「話を戻そう。彩乃は涼太郎に1011号室の鍵を渡した。先に誰かがあの部屋の死体を見つけてしまってはアリバイ工作が崩れてしまうから、あの部屋を施錠するのは必須だったのだ。後は事務所で尊志の相手をしつつ、私たちが第二の死体を見つけるのを待てばいい。もちろんその後のことも考慮して、ちゃんと保険をかけておくあたりが徳富彩乃だがね」
「保険?」
「徳富博重と朱矢倉居合だよ。博重をあのホテルに呼び出したのは、万が一の際にはすぐに事件に介入してもらうためだ。探偵二人に自分の身柄を最後まで守り通してもらうのが理想だが、それが叶わなかった場合は博重の力を借りて強引に事件を終わらせることも選択肢のひとつだろう。匿名の情報提供者を装って居合を呼び出したのは、博重のアリバイを確保するためだね。いざというとき、博重自身が容疑者として上がってしまっては元も子もないからな」
 机一つ分高い場所から如月がわたしを見下ろす。照明の白い光が彼女の髪で反射して、その色が深い緑色に見えた。
「博重を呼び出したもうひとつの理由は、彼を通して、彩乃の父である徳富夏雄に自らの手柄をアピールするためさ。そもそも今回の殺人は、すべて彩乃の父に捧げるための殺人だ。彩乃の存在場所を賭けてのやむにまれぬ殺人なのだ。その是非はともかくとして、だから彩乃の最終目的は、あの二人を始末することではなくて、それによって夏雄に認められることにあるわけだ」
「そう。そういう考え方なのね。だから……」
 犯人が密室の中に残るという非常に危険な賭けをしてみせた理由。その理由が、わたしには最後まで分からなかった。
 それにしても、如月はどうして犯行の動機を知っているのだろうか。わたしは彩乃から直接聞いたし、その後すぐに彼女は逮捕されたのだから、如月がそれを知る機会は存在しなかったはずなのだが。
 ……いくつかの可能性が浮かんでは消えて、最後にはすべての考えを追い払った。どちらでも同じこと。如月は手段を選ばないし、常に結果だけが手元に残る。
「あの密室はサインだったのね」
「首切りも、だ。バッグの大きさを考えれば、首をふたつとも持ち去るわけにはいかない。アリバイトリックの関係上麻美の首を持ち去るのは絶対だが、岳将也の首を切る理由はどこにもない。だが、第二の殺人にしかアリバイのない彩乃は、二つの事件を同一犯によるものだと強烈にアピールしなければならなかった。『密室』に『首切り』という、分かりやすいキーワードを散りばめておいたのはそれが目的だろうね」
 下手をすれば二つの事件は別の犯人による犯行とされ、彩乃は岳将也殺しの容疑者として追われる羽目になる。それではせっかくのアリバイの効果が発揮できない。第三者の監視による完璧なアリバイなのに。
「さて、ここまでは十全に物事が運ばれた。唯一の誤算は私たちが警察の手に落ち、彩乃のことが漏れてしまったくらいだが、その点も事前にかけておいた保険が利いて、捜査の手は彩乃までは届かなかった。ん? 完璧なアリバイを持っているはずなのに、どうして警察をそこまで恐れるのか、ということだな。簡単な話だよ。警察の聴取を受けるということは警察署に出向かなければならないということだが、そうすると運が悪ければ綿谷涼太郎と鉢合わせをする危険がある。彼は第一発見者で、もしかしたら容疑者になっているかもしれないのだからな。綿谷涼太郎は彩乃のことを外池麻美だと思っているから、もし涼太郎と出会ってしまえば計画はすべてひっくり返る」
 如月はもう一列、後ろの机に飛び移った。片足で机の上に立ち、さらに飛び移る。因幡の白ウサギのように。片足を軸にくるりと回転し、こちらを向いて話の続きを始める。
「くっくっく、まったくもって杜撰な計画だ。これが大学の授業なら間違いなく不可だろうね。再試験の機会さえもらえないだろう。しかしそれが半ば成功しかけていたのだから恐ろしい話だ。これはもう、離れ業だと評するしかあるまい。彩乃はむしろ計画が破綻しても良いとさえ思っていた節があるがね。徳富夏雄が彩乃を切り捨てればそれだけで終わってしまう計画だ、父親の愛を試そうとしたのかもしれない……これは穿った見方だが……」
 まあどちらでも私は構わないがね、と如月は続けた。あまりその部分を掘り下げるつもりはないらしい。わたしとしては、彩乃の脆弱な計画の全貌よりも、むしろそちらの方をこそ知りたかったんだけど。
「話を戻す。とにかく完璧に終了したと思われた彩乃の計画だが、その数日後に早くもボロが出始める。涼太郎が観山駅で彩乃の姿を目撃してしまったのだ。幸いにも涼太郎はノイローゼ気味で、本人はそれを幽霊だと思い込んでいたがね」しかし――と、如月は続ける。「彩乃は最初からその危険を認識していたように思う。何せ二人の生活圏はかなり近い。今後数年、ほとぼりが冷めてからどこかに引っ越すとしても、それまでの間にふとしたきっかけで二人が出会わないとも限らない。何より、涼太郎は彩乃のアリバイを崩せる唯一の証人だからね。彩乃としてはなるべく早く彼を消してしまいたい。それを実行したのが昨晩のことだ。ところが哀れ、涼太郎を見張っていた刑事たちにその場で取り押さえられてしまったのさ。くくく、涼太郎のことなど捨て置いて、どこかに引っ越してしまえばよかったのにな」
 『涼太郎を見張っていた刑事』。なぜ刑事たちは綿谷さんのことを見張っていたのだろうか。彩乃が綿谷さんを殺そうとすることを予見できた人物が密かに助言したのではないか。
 如月は両腕を左右に広げる。掌を見せて、武器を持っていないのをわたしに示しているみたいだ。
「さて、私の講義はこれで終わりだ。何か質問はあるかね?」
「あんたはどの時点で気づいたの?」
 わたしは如月を睨み付けた。彼女はそれを軽薄な笑顔で迎え入れる。底なしの無感情。彼女の心の殻は果てしなく深く、深く、深く……わたしの言葉は決して辿り着かない。光が届かない海の底のように。
 だけど如月は、ふっと笑顔を崩した。無表情になる。つまりそれは、偽りの表情を解いたことを意味する。
「最初にあの部屋に入ったとき」
「あの部屋?」
「彩乃がいた1422号室だ。そしてすぐに彼女の意図に気がついた。この殺人だけで終わるはずがない、とね」
「だからあんた、『密室の方法は考えなくていい』とか言ってたのね。いつもならそこの部分をわたしに考えさせて、『真理紗は知恵がない』って馬鹿にするのに」
 その不自然さに気がついたのは、事件が終わり数日が経ってからだった。冷静に考えてみると、あんなにまっとうなドアの鍵を外側から掛ける方法なんてそうそうあるわけがない。
 つまりあれは、犯人が密室の中にいたことを気づかせないための如月の操作だったのだ。
 わたしが彩乃を事務所に送り届けている間、彼女は1422号室で一体何をしていたのか? 木城さんは1422号室の中に証拠を隠蔽した形跡がある、と言っていた。それは誰の手による隠蔽だろう?
 ホテルの監視カメラより、関係者の証言は裏が取られている。もちろん如月の証言も。しかし、如月が警察に証言した具体的な内容をわたしは知らない。『真理紗を見送ってから、一度ホテルを出て近くのコンビニに行きました』……とでも言ったのだろうか。そしてホテルの外で証拠の品を捨てた? 証拠の品とは一体何だろう。凶器か? 外池麻美の所持品か? それとも外池麻美の首か?
 分からない。
 すべてを如月がお膳立てしたのかもしれないし、如月は何も手を加えていないのかもしれない。共犯者か、傍観者か。彼女の中の倫理では、どちらも同じことなのだろう。
「真理紗が真実に気づいてしまっては、余計な苦悩を背負うことになるからね。それでは彩乃のことを守れないし、それに、君を説得するのは骨が折れそうだ。――これでも私は、探偵のプロフェッショナルでね。くっくっくっく」
「でもあんた、殺人犯だと知ってて庇ったわけ……?」
「そうだよ」平然と、何のためらいもなく如月は頷いた。「なぜなら彼女を糾弾しても、殺された二人は蘇らないからだ。……前にもこんな話をしたが、今にも死にそうな人が西と東にいて、しかし自分はどちらかしか助けられないとしたら、君はどうする? ――これが私の出した結論だ。人の命は数でしかない。私は数の多い方を助けるね。たとえ君が死にかけていても、同じく死にかけている十人がいれば私はそちらを助けるだろう。すまないとは思っているがね……」
 彩乃が自分の価値で人を殺したのと同じように。
 如月は自分の価値で人を救おうとしたのだ。
「だから私は警告したのだよ、これ以上人を殺さないようにね。もし殺したら、その時は私としても彩乃を守り続けることはできない」
 合コンの席に如月が乱入してきたとき、彼女は彩乃に何かを語って聞かせていた。あれは警告だったのか。私はお前の計画をすべて見通している、という。
 『その通り、人には形しか見えないのだからね、心があろうとなかろうと、そんなのは同じことさ』――見えているのは、名前だけ。
「釘を刺しておいたのはいいが、しかしその釘がちゃんと彩乃の抑制になるかといえばあまり自信がない。何せ彼女は普通の人間の倫理など踏み越えた存在、理解はできても共感はできぬデュラハンなのだからね。だから私も、彩乃に倣って保険をかけておいたのさ」
「それが、綿谷さんを見張らせていた刑事、ってわけね」
 なるほど。ということは、彩乃の動機を如月が知り得たのも、その辺りのルートからなのか。
 わたしは木城九十九さんのことを思い出していた。あの嫌な人と如月が組んだのならば、それは恐ろしいことになるだろう。
「できればこういう結末は望んでいなかったのだがね。死者は少ないほど良い。自由を奪われる人間の数も、ね」
「……そうやって、他人を数字でしか見られないあんたに――」
「他人を見ることのできない君よりは健全だと思うがね」
 くくくく、とわたしを見て笑った。
 わたしを指差して笑った。
 人形のような顔で、わたしを嘲笑した。
 不愉快だった。
 悔しかった。悲しかった。泣きたかった。でも泣かなかった。殺伐とする。心は砂漠のように広がる。外縁には壁がある。誰も入れないように。誰とも交わらないように。心をむき出しにして、誰かと触れ合うことを続ければ、傷だらけになって死んでしまう。
「では逆に私から質問しよう。もしかして真理紗は、今回のことで落ち込んでいるんじゃないかね? 今日私がここに来たのも、そのあたりのことを確かめたかったからなのだが」
 ――ぽかん、という擬音が当てはまる。まさにそんな心理状態。今にも張り裂けそうな風船が、破裂するのではなくて、口から空気が抜けて萎んでしまった。
 如月はわたしから顔を逸らした。照れ隠しをしているようにも見えたし、特に意味のない行為にも見えた。しかしわたしには如月の心は読めないし、人には形しか見えないのだ。
「現代人は心の中に自由な領域を持つことが許されている。しかしそれは同時に、デュラハンのような人間が社会の中で生きていける余地があることを意味している。なぜなら過去の社会では、大衆の価値から大きく逸脱した価値観を持つ人間は社会に存在することを許されなかったのだから。もっともこれはどちらが良いとか悪いという話ではない。多様性を認めるということは、人間ではなく妖精が生まれる可能性も認めなければならないということなのさ。君は隣人のことを知っているか? 隣人が人間ヒューマンなのか妖精デュラハンなのか、確かめたことはあるのかい?」
 わたしのこれまで知り合ってきた人たちの顔が浮かんでは消える。仲の良かった人、仲の悪かった人、好きだった人嫌いだった人好いてくれた人嫌われた人、色んな人がいたけれど、そのうちの何人の心をわたしは知っているのだろう。知った気になって、それ以上近づくのを諦めてはいなかったか。
「そしてデュラハンが世の中に出てきても、私たちはそれを理解することができない。だから適当な理由をつけて、人間の理屈でそれを説明しようとする。きっと怨恨が、きっと家庭に問題が、きっと心の闇が、きっと愛が足りなくて、きっと理由があって……。そうじゃないんだ。私たちの価値観に絶対的な根拠がないのと同様に、彼らの価値観にだって絶対の根拠はないのさ。それはそうあるべく生まれ、そうなってしまったのだ。……くっくっく、多様性は認めるくせに例外は認めないなどと、おこがましいとは思わないかね?」
 如月は机の上から飛び降りた。
 上から見下ろされていたのが、久しぶりに目線が同じ高さになる。
 如月は正面からわたしを見た。それを受け止めるのは、それなりに勇気が必要だった。
「確かに私たちはすれ違い、誤解し、時には理解できない存在と出会う。心の中に届かないかもしれないし、そもそも分かり合えないようにできているのかもしれない。しかしだ、君と彩乃の心が触れ合ったときに感じた、その喜びは偽物なのか? 真実の友情、なんて青臭い言葉があるがね、たとえその友情が真実ではないとしても、君の感じた幸せ、ぬくもりは偽物なのか? そうじゃないだろう。たとえ心が重ならなかったとしても、心の外殻がわずかに触れただけだとしても、だ。きっと彩乃も同じことを思っていただろうよ。彼女は君に友情を抱いていたと思うね。賭けてもいいが」
 人には形しか見えないのだから――と、如月は言葉を続けた。
 形以外のモノばかり求めても、仕方ないじゃないか、と。
 すべてを言い終えて、如月は満足そうだった。わたしの答えは求めていないらしい。いつもあいつは一方的だ。見返りを求めないコミュニケーションを、果たしてコミュニケーションと呼んでもいいものなのか。
「そろそろ授業が始まるね。くっくっく、朝から邪魔して悪かった。私はそろそろ退散するとしよう」
「如月、あのさ――」
「またしばらくどこかに行こうと思う。すぐに帰ってくるつもりだ。せいぜい自由に生きるようにする。だから君も自由に生きたまえ。気が向いたら、また誰かにあの名刺を配ってくれ。それが君にとって良い出会いになることを祈る」
 ばいばい、真理紗。
 気軽に言ってから、如月は教室から出て行ってしまった。彼女の気軽さは、徳富彩乃との別れを連想させる。
 わたしの質問は、とうとう如月の背中には届かない。
「如月、あのさ――」わたしひとりだけになった教室で、その言葉を続ける。「あんたは、一体どっちなんだろうね」
 人間か、妖精か。
 どちらが人間で、どちらが妖精か。
 その違いはどこにあるのだろう。
 やがて始業の時刻が迫ると、徐々に同級生たちが教室に集まり始めた。彼らの顔を眺め、その心の中を覗き込めるか試してみたけれど、薄っぺらに見えた感情の後ろに何があるのか、とうとう見通すことができなかった。


《 密室にデュラハン / Stepping shadow within Blackbox 》

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