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5.死体が歩くとき


 東華ホテルで殺人事件が起きてから二週間後の土曜日。二週間というのは、あのあまり愉快ではない一連の出来事のインパクトがすっかり色あせてしまうのに十分な時間。
 有名ホテルでの首切り殺人、しかも二件連続ということで、テレビや新聞ではかなりセンセーショナルに報道されていたようだが、未だに犯人は見つかっていないようだった。もしかしたらすでに警察は犯人の目星を付けているのかもしれないが(あの木城刑事なら十分にそれが可能だろう)、しかしわたしにとってあの事件はすでに終わったこと、という位置づけになっていた。不愉快な出来事を今さら蒸し返したくない、というのもある。
 その日の夕方、宮坂探偵事務所に意外な来客があった。
 第二の殺人の発見者、綿谷涼太郎である。彼ひとりではなく、三十代くらいの女性が同伴していた。というより、彼女に連れて来られたといった様子だった。あのホテルで見た綿谷さんもかなり疲弊していたけれど、今度の彼はさらに消耗が激しそうだ。かなり追い詰められた顔をしている。
 綿谷さんはフード付きの黒いパーカーを着ており下はカーゴパンツ、靴はスニーカーだった。対する女性の方はジャンパースカートの下にブーツを履いている。こういった探偵事務所の客層としては珍しいラフな格好だ。
「こちらに如月さんという方はいらっしゃいますか?」
 事務室に入るなり女性の方がそう言って、対応に出たわたしを無視して事務室の中を見渡す。如月がふんぞり返って座っているのをすぐに見つけて、そちらにつかつかと歩み寄ってゆく。
 今日の如月は幸いにもアロハシャツではなくて、普通のキャミソールにパンプスだった。なぜか縁のない伊達眼鏡をかけているけれど。
「あなたが如月さんね。なんか久しぶりですね。あの時は警察って名乗ったのに実は探偵だって言うじゃないですか、もうわたしびっくりしちゃったんですけど、いやいや、警察手帳とか確認しなかったわたしも不注意だったんですけどね。え? いえいえそんな、詐欺に遭ったわけじゃないですし、別にわたしは気にしてないんですけどね」
 女性は如月の前で一方的にまくし立てた。その背後で綿谷さんが居心地悪そうに立っているし、如月も黙ったまま女性を見上げている。
 ……女性がわたしの方に振り向いた。そして小さく感嘆詞を述べる。
「あ、あなたも一緒に来ましたよね。そうそう覚えてますよ、あのお洒落な助手さん。あはは、わたしも変だと思ったんですよね、あんなにファッションセンスのある女刑事ってわたし見たことないから、って言っても実際の刑事さんを見たことなんてほとんどないんですけど、まあドラマで見る程度ですよね。そうそう、あのドラマってどのくらい正確なんですかね。あのあと警察に捕まったりしたんですよね? 取調室でカツ丼を食べたりしたんですか?」
「あの、すみません。どちらでお会いしましたっけ?」
「あらやだもう、忘れられたんですか? 嫌だわぁ、そんなに印象薄いですかわたし? 綱森つなもりですよぅ、保健室で案内したじゃないですか。東華ホテルの」
 東華ホテル……と言われて、医務室で綿谷さんから話を聞いたときのことを回想した。ワンテンポ遅れて思い出す。
 なるほど、あのときの女医さんが綱森さんか。白衣のイメージが強すぎたので気づけなかったけれど、言われてみればどこかで見たことのある顔だ。
「あのときは警察って名乗っていらしたけど、後で話を聞いてみたら探偵さんだって言うじゃないですか。もうこれってすごいことですよ。探偵さんが殺人事件の調査をなさってて、しかもそれが如月さんだって言うじゃないですか。もうわたしときめいちゃって、こんなすごい偶然があるんだなあって――」
「ちょ、っと待ってください。如月のことをご存じなんですか?」
「ええ。名前だけは」
「一応如月はそれなりに活躍してるからね。メディアに名前が上る機会もそれなりにあったんだよ」
「と言っても、地方紙のレベルだがね」
 宮坂さんの説明に如月が付け加える。かなり意外な話だ。もちろん如月の能力を疑問視しているのではなくて、てっきり如月はそういう浮き世の出来事に興味はないと思っていたから。むしろ、運命的に世間から乖離しているとばかり。
 わたしが如月の知名度を意外に思ったことに気づいて、綱森さんは大げさなリアクションで驚いた。まるでミュージカルみたいに。
「もう、せっかく探偵事務所で働いていらしてるんだから、身内の評判くらいには敏感にならないといけませんよぅ。あなた、ここに務めて何年になるんですか?」
「まだ半年も経っていないよ。真理紗はバイトでね」
「あらやだ。もしかして学生さん? だったら無理ないかもしれないけど、でもねえ営業努力っていうか自分を研鑽する意識を忘れちゃ駄目ですよう、特に探偵ってのはお客商売でしょう? 人の秘密や人生を預かる商売なんですから、まあこれは医者も同じなんですけどね。ちなみにわたしはもうそろそろ保険医になって十周年ってところで――」
 綱森さんの自伝的な雑談がこれ以降しばらく続いた。
 わたしは対応に困って宮坂さんの方へ視線を送ると、彼は紳士的な笑顔をこちらに向けた後、何か用事を思い出した振りをして給湯室の方へ避難してしまった。こういう厄介な来客はきみの仕事だよ、と言わんばかりに。
 事実そうなので、わたしはわざと聞こえるように溜め息をついて目の前の厄介事に臨む心意気を見せたけれど、生憎と綱森さんは自分のおしゃべりに夢中で、というかわたしのことなど眼中になく一方的に如月に話し続けている。
 ちなみに国尾さんは今日も外で調査中。張り込みや調査などのフィールドワークが彼の専門なので、事務所に戻らないときは滅多に戻らない。という話を宮坂さんから聞いていた。
「まあ、とにかく――」
 自分のおしゃべりがテーマ性を逸していたことに今さらながら気づいたらしい。本題に戻すための区切りとして強引に話題を転換した。
「如月さんって人はすごい人なんだから。日本が世界に誇れる探偵だし、県が日本に誇れる探偵だし、この町が県に誇れる探偵だと思う」
「だんだんグレートダウンしてますけど」
「少なくともわたしは日本の四大探偵の一人に数えてもいいと思いますね。ちなみに他の三人は美濃川みのうがわ鴨絵かもえ千鳥ちどり一路いちろ塩宮しおみやとおるだと思うんですが、如月さんはどう思いますか?」
「用件を言いたまえ」
 如月は綱森さんをすっぱりと切り捨てた。
 今だけはこいつのそういうところが気持ち良かった。がんばれ如月。負けるな如月。
 しかし綱森さんは深く考えずに軽い調子で謝ると、
「そうそう、今日こちらにお伺いしたのはこの人が相談したいことがあるからで――」綱森さんの後ろで手持ち無沙汰になっていた綿谷さんの腕を強引に引っ張る。そのまま捕虜を引き渡すぞんざいさで如月の前に突き出した。「この人、あの事件以来ナーバスになっちゃいまして。まあわたしとしても医療に従事する人間としての奉仕精神がばりばりで相談に乗ったりしていたんですけど、呉越同舟? うーん、何か違う気がしますけど」
「腐れ縁というやつだ」
「あは、いいですね腐れ縁。センスがありますよ。縁が腐るって発想がすごいですよね。でも納豆もヨーグルトも腐っているから美味しいんですよ」
「腐敗と発酵は違う。腐敗した納豆は食べられない」
「知ってますよぅ。わたしこれでも医学を志した人間なんですから」
 如月は無表情を保ったまま腕を組んだ。如月のことを知らない人間が見れば彼女は今不機嫌なのだと判断するだろう。実際の如月は不機嫌が尾を引くことはないのでその点では付き合いやすい人格だ。他の部分が酷すぎるのだけど。
「昔ね、これでも調理師になりたかったんです。あは、子供の頃に母の料理を手伝ったら、家族一同から大絶賛を受けましてね、将来は良いお嫁さんか料理人になれる、なんて言われるんですよ! わたしはすっかり天狗になっちゃって、それならわたしの未来は料理人だーとか決心したんですけど、やっぱり看護婦になるのが夢で、ああ今は看護師ですけど、当時は看護婦でね。まあナースって言っちゃえば全部同じですけど、国文学的にそれはどうなんでしょうね、外来語に従来語が駆逐されちゃってる気がするんですけど、多分それって――」
「もしかして君、酔っているのか?」
「素面ですよぅ、失礼な」
 綱森さんは体をくねらせてぷんすかと怒った。かなりデフォルメされた怒り方というか、見ていて微笑ましくなるような仕草だ。
「綿谷さんがねえ、わたしがいくら言っても聞かないんですよ。それで仕方なく、それなら本職の人に頼めばいんじゃないかってアドバイスしたんです。お節介だってことは分かってますけど、綿谷さんに心当たりがないということでしたので、不躾ながらも助言させていただいたというわけです」
「混沌としているな。経緯などどうでも良い。簡潔に述べたまえ」
「綿谷さんが、幽霊を見たって言うんですよ」
 わたしは思わず綿谷さんの顔を見た。彼は居心地が悪そうにうつむき気味に――しかし綱森さんの言葉を否定はしなかった。
 しかし如月は無反応だった。綱森さんがそう言うのをあらかじめ知っていたかのような、予定調和にうんざりしたという表情を見せて、
「幽霊退治は私の専門外だよ。誰か専門家を紹介してくれ、というのならいくつか心当たりがあるが」
「それに、幽霊って……突飛ですね。飛躍してます」
「同じ意味だよ、それ」
 珍しく如月がわたしに突っ込んだ。
 しかし綱森さんはなおもめげずに、
「ですけど! やっぱりここはあの事件に少しでもかかわった方に依頼するのが筋かと思いまして」
「東華ホテルの事件と何か関係があるんですか?」
「綿谷さんが見たっていう幽霊が、東華ホテルで亡くなられた綿谷さんの恋人さんなんですよ」
 え、と思わず声が出た。
 すなわちそれは外池麻美。第二の殺人において、首を切断され、持ち去られ、密室で殺されていた女性。
 なるほど、と如月は答えた。
 それからしばらくじっと綿谷さんの顔を見つめ続けた。視線から逃れたいのか、綿谷さんが小さく身じろぎした。
「外池麻美を見た、というんだね?」
 綿谷さんは頷いた。
「そのときの状況を話してもらおう」
「その……先週の水曜日なんですけど……。僕、バイトが終わって――そのときはまだ夕方だったんですけど、駅から家に帰ろうとして」
「そのときに見た? どこで?」
「観山駅の前です。道路の反対側で、交差点で信号待ちしている人の中に……麻美がいたような……」
 ずいぶんと頼りない証言だ。普通ならノイローゼによる錯覚だと思うだろうし、おそらく綱森さんもそう判断しているのだろう。
 綱森さんは溜め息を吐くと、
「わたしはそんなの幻覚だって言ってるんですけどね、綿谷さんがどうしても見たってきかないんですよ。だったら本職の探偵さんに調べてもらったらどうだ、って。麻美さんが本当に生きてるかどうか」
「生憎だが、人捜しはわたしの専門外でね」
「……すみません」
「いやなに、謝ることではないさ。それにね、今も警察が必死になって事件の捜査をしている。もし君の恋人が生きているのならばいずれ警察が突き止めてくれるだろう。それを待つのも大切なことだよ」
 如月にしては珍しく、まるで諭すように一般論を述べる。しかし綿谷さんは、少なからず知名度のある(らしい)如月の言葉ならば、そういった毒にも薬にもならない話ですらありがたく受け止められてしまうようだ。はい、と力なく頷いて、それっきり黙ってしまう。
「大切な恋人だったのだね?」
「そうです」
「彼女と最後に会ったのは君なんだね?」
「……はい」
「そのときのことを覚えているかね?」
「はい……もちろん」泣きそうな声で肯定した。「最後に会って……でもすごく普通で……また今日の午後に会おうって言ってたのに……」
「いつもと同じ?」
「いえ……厳密に言えば違いますけど」
「というと?」
「麻美、引っ越したんですよ。でも引っ越し先でちょっとトラブルがあって、しばらく住む場所がないって言われて。一週間くらいうちで一緒に暮らしてたんです」
「同棲していたのか」
「いえ、そういうわけじゃ……。家具とかそういう大きなものは一旦実家に送って、服とか身の回りの荷物だけ持ってうちに来たんです。事件のあったあの日、引っ越し先が正式に決まったっていうんで、荷物を持って出て行ったんですけど……。僕が手伝おうかって聞くと、バイト終わりで疲れてるのを知って、必要ないって。僕も一緒について行けば、あんなことには……」
「自分を責める必要はないさ。君の責任ではないのだからね」
 すみません、と言って目元を拭った。綿谷さんからは熱を感じる。つまり近しい人を失った、悲しみ、怒り、絶望、それらの感情の高ぶりが、熱という形でひしひしと感じられた。もちろんそんなものは錯覚なのだろうけど、久々に強力な感情を目の当たりにしてわたしは少々面食らった。
 こんなふうに悲しみに暮れる他人を冷静に分析しているわたしが、如月のことを人形だの罵倒する資格はないのだろう。非人間的だ、と自分でも感じる。不謹慎だ、とも。
 わたしに感情がないとは思わないが、果たしてそれを他人に理解してもらえるだろうか。
「とにかく、あまり思い詰めないことだ。人の心は人の目を歪めてしまうものだ。歪んだ世界に救いなどない。君はあくまで、真実の世界によって救われなければならない。それがどんなに苦しい世界でも、だ。分かるね?」
「そうですよ。まずはゆっくり落ち着くのが大切です。あまり結論を急ぎすぎるのはよくないですからね。これからゆっくり考えていきましょうよ、ね? わたしならいつでも相談に乗りますから」
 底抜けに明るい綱森さんの言葉に、綿谷さんは素直に頷いた。



 綱森さんと綿谷さんを帰してから、宮坂さんがわたしたちのためにコーヒーを淹れてくれた。如月は嬉しそうにマグカップを受け取る。
 如月によれば宮坂さんの淹れるコーヒーはかなり美味しいものらしいけれど、わたしにとってはただの苦い水でしかない。宮坂さんには悪いけれど、砂糖とミルクを大量に溶かし込むことで、何とか飲むことができるレベルの苦みに誤魔化すことができた。
「にしても驚いたねえ。まさか幽霊とは。いや、この場合は亡霊かな?」
 自身もコーヒーを飲みながら宮坂さんが言う。一口含んでから、何かに納得したみたいに小さく頷いた。
「まさか。死人が幽霊になるのなら、今頃この世は幽霊で大盛況だろうよ。誰も死ぬことを恐れたりしなくなるさ」
「そうかい? 僕は結構その手の話は信じるタチなんだけどね」
「そいつは意外だ。尊志は合理主義者だとばかり思っていたよ」
「合理主義者だよ。信じるのに入会費が必要ならばともかく、とりあえず信じておけば実在するのなら祟りを避けられるし、実在しなかったとしても一文の損もない。だから僕はお布施が必要な宗教は信じないことにしている」
「くっくっく。言うじゃないか」
 如月はかなり機嫌が良さそうだった。上品にコーヒーを一口含んで、ゆっくりと味わうように飲み込む。見ているわたしが飲みたくなってきた。いや、わたしも飲んでいるんだけど。同じ物を飲んでいてもこんなに感想が違うのでは、もしかしてわたしは人生を損しているんじゃないだろうか。人間にとって一番重要な能力とは人生を楽しむことができる能力だ、というのは誰の言葉だったか。
「でもあれって、もしかして本当に外池麻美さんなんじゃないの? つまりホテルにあった死体は別人の死体で、本物はまだ生きている」
「だとしたらずいぶんと不用心だね。観山駅といえば、東華ホテルの目と鼻の先じゃないか。いや、そこまでは近くないかな。だとしても一駅も離れていないさ。小学生の家出じゃないのだから、本気で隠れるのならもっと遠くへ行くと思うがね」
「それはそうだけど……」
「どちらにしろ私たちには関係のない話さ。ふふふ、しかし意外な展開と言えばその通りだな。亡霊、か。くくくくっ」
「真実を突き止めたいとか、探偵のプライドとか、そういうのはないわけ?」
「はいはい、芝川さんはあんまり如月を焚きつけないように」
「そうだよ真理紗。所詮私は尊志の飼い犬だからね、金にならないことには手を出せないのさ」
「おいおい、それは心外だよ。人聞きの悪い」
 宮坂さんはそう言って抗議したけれど、そんなことはどこ吹く風で如月はマグカップを傾ける。
「そういえば真理紗、今夜は暇かい? 良ければ一緒に付き合って欲しいのだが」
「もう当分は殺人現場には行かないからね」
「もっと素敵な場所さ。良いウィスキーを出す店があってね、そこで真理紗を口説こうと思うんだがどうだい?」
「そいつは楽しそうだな。ご相伴にあずかりたいところだが……ま、年寄りが水を差すのも無粋だしな。今回は諦めよう」
 宮坂さんが肩をすくめながら言う。こういう小さな仕草がいちいち絵になって格好良い。ダンディズム、という言葉がこれほど当てはまる人物を他に知らなかった。
 しかし残念なことにそれは見当違いだと言わざるを得ない。
「悪いけど今日はパス。ちょっと夜に先約が入ってるから」
「ん? 新しい男かい?」
「ちょっとそれ、やめてよね。まるでわたしが男を取っ替え引っ替えしてるみたい」
 そういう種類の人間が身近に割といるので、あんまりそのことに抵抗感や嫌悪感を抱いたりはしないけれど、でもやっぱりわたしのキャラとは違うと思う。
 如月は愉快そうに笑って、
「それはそうだな。しかし当たらずとも遠からずだと思うがね。真理紗は『取っ替え引っ替え』はしないが、男を使い捨てるタイプの女だね」
「失礼な」
「いつぞやのボーイフレンドにはずいぶんと入れ込んでいたみたいだが、あれはどうなったのかね? たしか新聞社に勤めているという話だったが。どちらが先に別れ話を切り出したのかな。十中八九真理紗の方からだろうね。真理紗は手放すには魅力的すぎる人間だ。おいおいどうしたんだい? 褒めているのだからもっと嬉しそうな顔をしたまえ」
「…………そう、ね」
「如月、少し言いすぎだよ。度を超している。芝川さんも、あんまり気にしないように。こいつの言うことは獣の雄叫びとでも思えばいいさ」
「いえ、大丈夫です」
 と言ってから、果たして何が大丈夫なのか、ちゃんと分かっていない自分がいた。多分フォローの必要性について言及したのだと思う。わたしが大丈夫、という意味では決してない。
 振る方も、振られる方も、失恋というのは傷を残すものなのだ。ひとつの恋が終わったことに変わりはないのだし。だからとても恋人を取っ替え引っ替えする気にはなれない。そんなことをしたら傷だらけになったわたしの心が持たなくなるだろう。
「真理紗に振られた彼の方が傷は大きいと思うがね。くっくっく、同情するよ」
「わたしだって辛いんだから……。それにあのまま愛がない交際を続けてたって苦しいだけでしょう?」
「真理紗の方はそうかもしれないが、向こうはまだ君に未練があるんじゃないかな? 男というのは前の恋愛を引きずるものだからね。それが失恋ならなおさら」
「へー。あんたそういうのには疎いと思ってた」
「別に詳しいわけではないが。ただ、尊志を見ていれば分かるよ」
 宮坂さんがコーヒーを吹いた。ゲホゲホと咳き込む。
 それを見て如月は喉に引っかけるような笑い声を上げて喜んだ。どうやらたちの悪いジョークだったらしい。
「それはともかく、今日はどんな予定が入っているんだい? あ、別に無理やり聞き出そうというつもりはないよ。あくまで好奇心からの質問だ。ただの世間話だと思ってくれていい。形式的な質問だ」
「いや、別にそこまで気にしてないけど……」
 刑事みたいな言い訳をする如月に少々面食らった。それは関係者のアリバイを調べるときの文句だろうに。
「今日は彩乃と合コンする予定なの」
「ほう。合コンとな」
 古風な言い回しで感嘆してから如月は目を細める。
「桃ちゃんも一緒だよ。ほら、前に大学に来たとき、あんたの相手をした同級生の子」
「覚えているよ。物心ついてからの出来事はすべて覚えている」
「それはすごい記憶力ね」
「私も行っていいかな」
「絶対ダメ! 断固拒否! 来るな!」
 脊髄反射的に猛烈な勢いで拒否してしまった。さらに腕で十字を作って如月にアピール。もしあいつが吸血鬼なら十字架で撃退できるはずなのだけれど。
 如月は唇の右端を皮肉っぽくつり上げて、
「おいおい、そんなに嫌がることはないんじゃないかね? これでも宴会芸の二、三は身につけているつもりだよ。くっくっく、精一杯盛り上げさせてもらうさ」
「いやもうほんとに勘弁して……」
「そんなに嫌か」
 嫌です。それはもう果てしなく。わたしと如月の二人きりならともかく、あるいはこれに他人が加わるのならともかく、わたしの同級生に何かするのは本当にやめてもらいたい。
「しかし意外だね。君と彩乃がそんなに親しかったとはね」
「別に親しいってわけじゃないけど」
「でも一緒に合コンするんだろう? 最近の若者の感覚は分からないが、そりゃ十分に親しいんじゃないかい?」
 宮坂さんが言った。まあ確かにそういう見方もあるだろうけど、別に親しくなければ一緒に合コンできないというわけでもないし。このあたり、宮坂さんとは感覚にギャップがあるみたいだ。
「それにわたし、彩乃とは大学も違うからね……。普段会う機会なんて全然ないし」
「おや? そうなのかい?」
「あれ、言ってなかったっけ。元々彩乃は桃ちゃんの知り合いなんだよ」
「その桃ちゃんにしても彩乃と会う機会なんてないだろうに」
「うん。だからあくまで顔を知ってる程度、友達の友達ってレベルなんじゃないの?」
「今時の大学生はドライなんだな」
 宮坂さんが嘆くように言う。今時でない大学生を知らないわたしにとっては、その評価が正しいのか判断することはできないけれど。
「とにかく、あんたはついて来ないでね」
「つまらない大人になったな、真理紗」
「ありがと」
 如月の真似をして、薄っぺらい笑みを顔に張り付かせてわたしは返事をする。



 さてその後、無事に宮坂探偵事務所を退社したわたしは一度家に戻り、軽くシャワーを済ませてから駅まで徒歩で向かうことになった。車を使えばそんな手間も掛からないのだが、まさかわたしだけノンアルコールを貫き通すわけにもいかないだろう。
 三駅ほど電車に揺られ、有嶋駅で降りてから目的の場所へ歩いて向かう。有嶋市はわたしの家と宮坂探偵事務所を挟んで観山市の反対側にある。娯楽ならば有嶋の方が充実しているが、交通状況があまりよくないので普段こちらの方へ行くことはあまりない。
 腕時計で確認すると今は六時半。今のところはおおむね予定通りだと言える。途中から雨が降り出したのでわたしは待ち合わせの店へ急いだ。
 レストランの軒下にはすでに桃ちゃんが待っていた。前に何度か利用したことのあるレストランで、あまりお金をかけずに騒げる貴重な場所だ。たしかカラオケルームもあったような気がする。
「マリちゃん、早いねー」
「桃ちゃんこそ」
「さっきまで優ちゃんとゲーセンで遊んでたから。優ちゃんはもうバイト行っちゃったから、仕方なく一人で待ってたの」
 全員が揃うまで店の前でしばらく雑談。ちらほらと男性陣も集まってくる。
 今日の相手は県内の有名私立大学の経済学部の男子三名。こちらはわたしと桃ちゃんと彩乃。幹事の彩乃が来たのは一番最後だった。
「ごめんごめん、お待たせ」
 それじゃあ入ろうか、と店に入りかけたところで、わたしたちの背後から聞こえるはずのない声を耳にした。
「やあそこにいるのは真理紗じゃないか。こんなところで奇遇だなぁ」
 果たしてメルトダウン如月がそこに立っていた。偶然を装っているのだろうけど、こんな嘘くさい展開が現実に起きるはずがない。
「……如月」
「くっくっく。偶然とは恐ろしいものだね。おや、宴会だね。うらやましいな。私も混ぜてもらいたいくらいだ」
「あ、如月さんも一緒にどうですか?」
 表情を輝かせて桃ちゃんが余計なことを言いやがった。
 如月はわざとらしくかぶりを振って、
「いやいやそんな、申し訳ないよ。身内だけの宴会に私のような部外者が混ざってしまっては」
「別に身内だけってわけじゃないですし。ね、いいよね?」
「お、俺は別にいいけど。なあ?」
 桃ちゃんが同意を求めると、男性三人はにこやかに如月の参加を快諾した。頭痛が痛かった。目眩が眩んだ。まあ見てくれは美人だし、いや美人だからこそ連れてきたくなかったわけで、いやわたしは一体何を言っているんだろう……。
 如月はなぜか浴衣姿だった。ぎりぎり季節外れではないけれど、街のネオンの中で明らかに浮いていた。そして悔しいことにお淑やかに見える。まさに大和撫子だ。しかも美人で年上のお姉さん。こういうタイプに惹かれる男性が多いことをわたしは知っている。
 如月の参加に合意した男性陣と桃ちゃんが店に入る。わたしがあまりの事態にわなわなと震え、罵倒の言葉をぐっと胸の奥に押し込んでいると、
「マリちゃん、行かないの?」
 彩乃がわたしの腕を引いて店の中に連れて行くのを、他人事のように眺めていた。



 店員に案内されて、男と女がそれぞれ向かい合う形でテーブルにつく。天井には効果のほどが不明なファンがゆっくりと回っており、背の真っ直ぐな観葉植物が室内の角を覆い隠すように点在していた。
 テーブルに置かれていたメニューを回し読みして店員に注文する。少し考えてから、わたしはピーチサワーを頼むことにした。
 如月は迷うことなく日本酒を注文。おお、と男性陣から謎の感嘆があがり、さっそく一人が積極的に話題を持ちかける。それを上品にいなしてそつなく応答する。普段の社会不適合な様子は微塵も感じられない、完璧な対応だった。それを見て、むかむかと鬱憤が腹の底に蓄積していくのを自覚するわたしだった。
「それじゃあ、乾杯しようか」
 最初に飲み物が到着するのを待ってから、おそらく男性陣のまとめ役に当たる人が乾杯の音頭を取った。
 如月は袖を手で押さえながら、小さなお猪口を持って乾杯に参加する。年上の凛々しい女性がそういう可愛い仕草を見せるのはさぞ男性陣へのアピールになるだろうな、とわたしは思った。何となく忸怩たる思いにふける。
 合コンとは戦争なのだ。最初は共同戦線を張らなければならない。しかしいつまでも歩調をそろえるわけにもいかないのだ。いつかは単騎突出し、敵の大将の首を取り手柄を挙げなければならない。そうでなければ戦に参加する意味がない。
「マリちゃん、どしたの?」
「何が?」彩乃に返事をした。思わず強い口調になってしまい、彼女が少したじろいだ。「……ごめん。何?」
「いや、さっきからずーっと如月さん見てたし」
「そうかな」
 うーむ、如月のことを意識するあまりこの場を楽しめていなかったかもしれない……。
 とりあえずはいつもの流れということで自己紹介が始まる。まずは男性陣から。それぞれ自分の名前と通っている大学、それに加えてアピールポイントというよりは雑談に近い自分語り。無難に済ませる人もいれば一山当てようとして盛大に滑る人、見事に受けを取る人。十人十色ならぬ三人三色だった。
 続いて女性陣の自己紹介。まずは先陣を切って彩乃が切り込む。明るさと親しみやすさを全面にアピールし、まずは友人感覚でつきあえるように印象を操作する。
 続いて桃ちゃんは絵に描いたような清純派、あるいは優等生でそつなく自分について語る。しかし元々が桃ちゃんには小動物的な可愛さが備わっている。アクセント程度に天然の入った自己紹介を受けてターゲットを桃ちゃんに絞る男性も多いのではないだろうか。
 次はわたしの番。
「えーと、あのー」
 人の自己紹介を聞いてばかりで自分が何を言うかまったく決めていなかった。しどろもどろになりながらも何とか必要最低限の情報は公開した。あーもう、多分わたし、ものすごく鈍くさい女だと思われただろうな……。自分の要領の悪さに自己嫌悪する。悪いのは要領だけじゃなくて、そもそも頭の程度が低いのかもしれないけれど。
 最後は如月の番。
「くっくっく。飛び入りで参加させてもらってすまなかったね。職業は探偵、名をメルトダウン如月という」
「メル……? ハーフの方ですか?」
 スポーツマンタイプのわたりくんからさっそく質問が投げかけられた。が、如月はそれを無視する。ここはわたしのステージだと言わんばかりに張り切っている。
「宮坂探偵事務所で雇われている。専門は頭脳労働だ。知恵が必要なときは頼るといい。無論有料だがね」
「探偵って、普段どんな仕事をするんスか?」
 村井むらいという茶髪の男が尋ねる。口数の多い賑やかな人で、他人が自己紹介しているときにもやたらと口を挟みたがるのだ。
「何、簡単なことだよ。もっとも多いのは信用調査だな。同じくらい多いのは浮気調査――まあこの辺りのことは私は専門外なのでね」
「頭脳労働というと……人捜しとかですか?」
「そんなところさ」
 浦河うらかわくんの質問に如月が答えた。人捜しと言えば人捜しなのだろうけど。果たしてそれが犯人捜しだとは誰も思うまい。
「そうだね、せっかく宴会に招いてもらったんだ、余興のひとつでも見せようじゃないか」
「わー。楽しみ」
 桃ちゃんが無邪気に喜んだ。彩乃も男性陣も大体は似たような反応だった。その中で一人だけ不安に胸を潰しているわたし。
「そうだな……」如月は一同を見渡して、「そこの君は今日ここに来る直前までパチンコを打っていただろう。しかも大勝ちだ。今は相当懐が潤っているんじゃないかね? あと君はバイトをしているだろう。飲食業、それも接客だ。そしてそちらの君は実家暮らしで家はかなり裕福だね。ただしその分規律には厳しくなかなか自由を与えられていない。たんまりと小遣いをもらっているだろうけどね」
 男性陣をひとりひとり指差して一方的に解説していく。彼らは一同にぽかんと口を開けて、驚きのあまり派手な反応をすることすら忘れてしまっているみたいだった。
 如月は愉快そうに笑って、
「なに、簡単なことだよ。例えば君の服からは煙草の匂いがする。つまり直前まで煙草の煙のある場所か、もしくは煙草を吸える場所で時間を潰していたのさ。君のズボンの右ポケットには財布、左ポケットには携帯電話が入っているのをさっき見たから、だとしたら君は煙草を持っていない、ということはすぐそばで誰かが煙草を吸っていたんだ。普通そうなると煙のないところに移動するだろうが、それをしなかったということは移動できない事情があったということだ。例えば台が大当たりした、とかね。君のズボンの裾が雨の跳ね返りで濡れていることを考慮すると、君はこの店の近辺にあるどこかから走って駆けつけたのだ。となれば解はひとつしかない」
 村井くんが顔を引きつらせて愛想笑いを浮かべた。少し引いているようだった。そのことを機敏に感じ取ったのか、如月はそれ以上の解説を差し控えた。
「まあそんなことはどうでもいいんだ。こんなのは些末な芸……もっとすごいものを見せよう。魔法だよ」
 妖しく笑って、手元にあった紙製のおしぼりをみんなに見せるように広げた。片手を握り、げんこつを作ると、反対の手でその中におしぼりを押し込んだ。おしぼりは拳の中に隠れ、下側から半分ほどがはみ出た形になった。
「さて、おしぼりが一枚わたしの手の中にある。それはいいね? 君、君のおしぼりを使わせてもらってもいいかい?」
 俺? と自分を指差して渡くんが言った。如月に言われた通りに、さきほどと同じように如月の拳の中に指でおしぼりを押し込んでゆく。最後にはおしぼりすべてが如月の手の中に隠れてしまった。
 次に指名されたのは彩乃だった。彩乃はやや緊張した面持ちで、やはり同じように自分のおしぼりを如月の手の中に押し込んだ。ただし今度は、最初とは逆に拳の上からおしぼりの半分がはみ出た形になる。
 二人が如月の手の中におしぼりを入れる間、如月は自分からそれに触れるようなことはしなかった。
「さて、三枚のハンカチならぬ三枚のおしぼりがわたしの手の中にある。手の下から出た端を――真理紗、持ってくれ」
 言われたとおりに指で端をつまんだ。
 如月はおしぼりを握っているのとは反対の手で、わたしとは逆に上からはみ出た端をつまむと、拳を開いて一気に引っ張った。
 すると、ばらばらに手の中に入れたはずの三枚のおしぼりの端がそれぞれ結ばれていて、わたしと如月の手の間にひとつの長いアーチを作った。
 おお、とみんなにどよめきが走る。わたしも正直驚いていた。不器用な人間だと思っていたわけではなかったけれど、まさか手品の心得があるとは思わなかった。
「くっくっく、淑女の嗜みだよ」
 そんな淑女は聞いたことがない。
 如月はわたしの不安を裏切って、これ以上ないほどに場を盛り上げていた。もちろん、そんな不安は裏切られるに越したことはないのだけど。
 料理が届いてからはめいめいが好き勝手に会話を始めてしまい、この場全体を統一する話題は完全に失われてしまう。わたしもあちこちの会話に混ざりながらピーチサワーを飲む。桃の風味に混ざってアルコールの苦味が感じられた。
「ところで、あれからどうなったね?」
 会話から外れたところで、如月が彩乃に話しかける。わたしは浦河くんとの会話を継続しながら如月たちの話に耳を傾けた。
「警察は来たかい?」
「いや……。伯父さんにいろいろ話を聞かれたくらいです。あ、あたしの伯父さん、警察官なんですけど――」
「存じ上げているよ。そうか、正式に参考人として呼ばれたわけではないのだね。それはよかった」
「はい。ありがとうございます」
「なに、それが私の仕事だからね」
 如月は日本酒を煽る。手元の仕草が色っぽい。飲み干してから、ふう、と溜め息を吐く。
「ふふふ、こんな話を知っているかい? 昔々、初めて戦場に出る若侍が、ある槍の名手の兜と服を借りて戦場に出たんだ。すると敵はその姿を見ただけで恐れてしまい、若侍は簡単に敵を討つことができた。一方本物の槍の名手は、普段とは違う兜と服で戦場に出る。すると敵兵はまったく恐れることなく応戦し、名手は簡単に死んでしまったのさ。その通り、人には形しか見えないのだからね、心があろうとなかろうと、そんなのは同じことさ」
「はあ……」
 彩乃は曖昧に頷いた。神妙に聞くべきか、冗談だとして笑うべきなのか、判断に迷っているようだった。ちなみにわたしに言わせれば、この場合の正しい対処法は『無視する』である。
「芝川さん?」
「あ、ごめんなさい。何だっけ」
 村井くんに言われて慌てて会話に戻る。あれ、わたしは一体誰と話していたんだっけ。
「大丈夫? あれ? もしかしてお酒に弱い感じの人? なんかすげー顔赤いけど」
「うん、アルコールには弱くて……」
「えー、でもまだそれ一杯目っしょ? ちょー弱いじゃん」
「僕も弱い方だけどね……。ビールとかも苦手だし」ぼやくように浦川くん。村井くんばかり喋るので辟易しているのかもしれない。
「俺とかすげー飲めるよ。前にウィスキー瓶で飲んだことあるし。あんときはさすがに吐きそうになったけど」
 へへへ、と村井くんは笑う。酒が回ってとても陽気になっているみたいだ。酔えば酔うほど陰気になるわたしとは大違い。
「もう、マリちゃんってすぐ黙っちゃうからダメなんだよ。ごめんねー、本人はこれでも楽しんでるつもりなんでーす」
 如月との話を打ち切って、彩乃がこちらに混ざってきた。桃ちゃんは渡くんとの会話で盛り上がっているみたい。いいなあ、話の上手な子は。
「たしか前もそうじゃなかった? こう、なんかユーウツな感じでさあ。黙って……みんなのことを見るんよ。でしょ?」
「ごめんね……。酔うと頭の回転が悪くなるから」
「あー、まあそれは分かるけどさ。でも回転悪くても喋ればいいじゃん」
「変なこと言ったら嫌だし」
「いやこれお酒の席だし! みんな気にしないって、大丈夫大丈夫」
 彩乃が無責任にわたしを焚きつけた。
 口では文句を言いつつも、まんざらではない気分になった。



 二次会のカラオケが終わってからその場でお開きということになった。誰かが二人きりで抜け出す、というようなこともなかった。それなりに楽しかったのは本当だったけど、お互いに決め手に欠けた、ということなのだろう。
 もっとも、桃ちゃんは渡くんとのアドレス交換を済ませているみたいなので、もしかしたら後々二人の関係が進展することがあるかもしれない。ないと思うけど。
 一方のわたしにはそういう収穫はなかった。あるのはここ数時間の楽しさと、きっと明日やってくる二日酔いの頭痛のみ。もちろんそれでも十分すぎるくらいで、食事代くらいは十分に元を取れたと思う。
 ちなみに如月は二次会には出ずに一足先に帰ってしまった。男性陣の注意を集めるだけ集めておいて、遊びに飽きた子供が玩具を投げ捨てるみたいにあっさりとわたしたちのことを切り捨てた。如月が二次会に出ないことを聞いて男子たちが落胆しているのがなんとなく分かって腹が立った。
 帰りが彩乃と同じ電車だった。
「マリちゃん、大丈夫? 最後の方、けっこう飲んでたけど」
「あんたが飲めって言うから……」
「てかあれじゃん。マリちゃんてあんまりはっちゃけない感じだし。だから飲めばいいかなーとか思ったわけ」
 相変わらず大雑把なことを言う。同じくらい飲んだはずだから、彩乃も結構酔いが回っているはずだ。それが彼女のアバウトさに拍車をかけているのだろう。
「でもちょー楽しくなかった?」
「うん。悪くないかな」
「えー、何それ。楽しかったんでしょ?」
「そうとも言う」
「うわ、なんか捻くれてるね」大げさにのけぞるリアクションをして、笑いながら彩乃が言う。「でも次はアルコールない方がいいかもねー。一人だけ飲めないときつくない?」
「お酒を飲むのはそれほど嫌いじゃないんだけど……まあ、弱いから」
「今度一緒に遊ばない? 合コンとかじゃなくてさ」
「うん……別にいいけど」
「明日とか」
「急だね」
「まあ別にいつでもいいんだけど」
「うーん、それじゃあ」わたしは授業の時間割を頭の中に広げた。「火曜日の四時は?」
「うん。いいよ」
「そっちも授業ないんだ」
「サボるし」
「よくないよ、そういうのは」
 わたしは桃ちゃんの口調を真似て注意した。ちゃんと伝わったらしく、彩乃は吹き出した。お酒のおかげで笑いの沸点がずいぶんと低くなっているみたい。一通り笑ってから、
「まあいいじゃん。授業出てもつまんないし。出席なら誰かに代返してもらえるし」
「不真面目なんだね」
「マリちゃんが真面目すぎるんじゃね?」
「そんなつもりはないけど」
 単純に、不正をするエネルギーがないだけのような気がする。代返をするレベルに達しないというか、授業をさぼるときは誰かに代返を頼むことすら面倒くさいのだった。うーん、この場合どちらが健全なんだろうか……。
「じゃ、火曜に二人で。もしよかったら桃ちゃんも誘ってみて」
「うん」
「マリちゃんはもう帰る?」
「うん。酔った」
「あー、確かに見るからに酔ってんじゃん。あたしもけっこう回ってるけどさー」
「ビールいっぱい飲んでたよね」
「あたしも今日は帰って寝るよ」
 電車が駅に止まって、わたしは彩乃が降りるのを見送った。一人だけになって、体を伸ばして深く呼吸した。一段落ついて、心の中にわずかに寂寥感が広がった。
 電車の揺れと音が心地よくて、思わず眠りかけていたわたしは車内のアナウンスを聞いて慌てて飛び起きた。冷や汗をかきつつ電車を降りる。
 改札を出て、静かすぎる夜道を冬の気配を感じながら歩く。夏の足音が遠くに過ぎ去りつつある。蝉の鳴き声もいつの間にか消えていた。どこかの山では紅葉が満開だったらしい。結局今年も紅葉狩りに行けなかったな、とわたしはぼんやりと考える。芸術の授業を受けていて、美術館に行きたいと思ったこともあった。吹奏楽部の友達と話していて、近所でクラシックのコンサートがあるのを聞いたときも、結局わたしは行かなかった。健康的な計画はいつも実行されずに終わってしまうのだ。
 わたしのアパートの前で煙草を吸っている男の人がいた。壁に背中を預けてヤンキーみたいに座っている。わたしを見つけると、煙草をその場でもみ消して、しかし考え直したのか吸い殻を携帯灰皿の中に入れる。こちらへ駆け寄ってきた。
「……こんばんは。朱矢倉さん、でしたっけ?」
「どもっす。遅かったっすね」
 朱矢倉さんは卑屈な様子でわたしに頭を下げた。フリーライターの朱矢倉居合さん。二週間前、警察から解放された朝に会って以来、これが二度目の会話だった。あのときは如月がメインで、わたしはただ隣にいただけだったが。
「なんでわたしのアパートを知ってるんですか?」
「そりゃ調べたからですよ」
 こともなげに答えた。その言い方に腹が立ったのと警戒したのが半々。
「ちょっと、ね……あれから事件のことをずっと調べているんですが、個人で調べるってのもなかなか大変なんすよ。やっぱし大手に持ってかれたりしますから」
「話が見えません」
「行き詰まったのでまた最初から調べ直しているところ、って感じなんですよ。あんたの部屋に行っても留守だったから、帰ってくるまでしばらく待っていようと思ったらこんな時間になっちゃったんです」
「それはご苦労な話ですね。けど生憎、わたしのところに来ても無駄ですよ。わたしはもう完全に無関係なんですから」
「それは俺と? それとも東華ホテル殺人事件と?」
「両方です」
 ぴしゃりと言って、部屋へ帰ろうとした。すると朱矢倉さんが慌ててわたしを引き留めた。
「ちょっと待ってくださいよ。何時間も待ってたんすから、話くらい聞いてくださいよ」
「そんなこと言われても」
「お願いしますよ、本当に……」
 わたしは溜め息をついた。下手に断ってつきまとわれては困る。わたしの個人情報を調べられたということは、ただの無能なライターというわけでもなさそうだし。
 本当に、どうしてわたしの周辺には有能な人ばかりが集まるんだろう。そしてそのほとんどがわたしの味方をしてくれないのが困りものなんだけど。
 知らない男性を部屋に上げるのは抵抗があるので外で話すことになった。二人で夜道を少し歩いて、自動販売機のあるところまで行く。朱矢倉さんが二人分の缶コーヒーを買って、そのうちの一本をわたしに押しつけた。
「警察もあれから色々調べたみたいっすよ。まずホテルの監視カメラの映像を見て、関係者の証言の裏付けを取っているみたいですね。ちなみに警察は今のところ芝川さんたちの証言を信頼しているみたいです」
「ちゃんとカメラに写っていたんですね」
「それ抜きでも、徳富彩乃へのタッチは禁止になってるみたいですけど……。あと綿谷涼太郎も今のところ容疑者のリストからは外れてます。彼の証言通り、昼ごろホテルに入った後は警察が来るまでホテルの外には出てません。犯人は被害者の首を持ち去ったんですから、綿谷涼太郎に犯行は不可能です」
「裏口はないんですか?」
「ホテルには正面玄関と地下駐車場、両方に監視カメラがついてますよ。従業員用の出入り口はノーマークですが、一般客が通ればすぐに見つかります」
「それじゃあ、容疑者がいませんね」
「だから困ってるんです。俺も、警察も」
 朱矢倉さんは苦笑した。
 彼の態度はわたしに情報提供をしているというよりも、わたしの反応を伺ってさらなる情報を聞き出そうとしているように見える。だけどそれは筋違いも甚だしい。
 ああ、そういえば。
「綿谷さんが幽霊を見た、って話。知ってますか?」
「幽霊? 綿谷涼太郎が?」すぐに食いついてきた。「詳しく話してくださいよ」
「いや、そんなに大した話じゃないですよ。綿谷さんが、殺されたはずの外池さんを見たって言うんです。綿谷さんかなり参ってたみたいですし、信憑性があるかどうか……」
「外池さんを……」しばらく目の焦点をわたしから外した後、「なるほど。死者が歩いたと……。死人がねえ。ははは、なるほど」
「どうしたんです?」
「いや、ただの思いつきっスけど……。うん、やっぱ来てよかった。いやあ、芝川さんは素晴らしい女性です」
「それはどうも」
「今度から煮詰まったら芝川さんに会いに来ます」
「それはやめてください」
 綿谷さんの幽霊話から何を掴んだのか一切説明することなく、朱矢倉さんはさっさと帰って行ってしまった。その態度がどことなく如月を彷彿とさせて、わたしを不愉快にした。
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