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1.東華ホテルでの目覚め


 そもそもの始まりは九月の中頃に行われた合コンだった。わたしはその席で初めて徳富とくとみ 彩乃あやのと出会ったのである。
 茶色く染めた髪をふんわりとカールさせ、ブルーグリーンの可愛らしいチュニックと茶色のミニスカート、バッグは金色でエナメル調の派手なやつ。下駄箱には彼女が履いてきた黒のロングブーツがしなびたみたいに倒れていた。
 わたしは彩乃のことを一目見た瞬間に自分とは違うタイプの人間だと直感した。もっとも、わたしの格好だって似たり寄ったりなのだが。だけどその程度の共通点なんてきっと些末なもので、わたしと彩乃ではネコとウミネコくらいは違うだろうと思われる。
 合コンの会場に選ばれたのは駅前にある居酒屋のチェーン店。参加したのは男女が合計八人。自己紹介も済ませ、乾杯の音頭もとうに終わり、今は小さなグループに分かれてぐだぐだと他愛ない雑談に花を咲かせているところだ。もちろんそれは第三者の視点であり、実際は男女間のどろどろとした駆け引きが繰り広げられる戦場だった。
 わたしは青リンゴサワーを飲みながら他の七人の様子をぼんやりと眺めていた。
 大学の知り合いと合コンを計画しているところまでは楽しかったのだが、いざやってみると、どうも拍子抜けというか、期待はずれの感が大きい。わたしが特別に理想が高いというわけではなくて、なんとなく、心ときめくような何かが決定的に欠けているような気がしたのだ。
「ねえねえ芝川さん」
 となりに座っている彩乃が話しかけてきた。さっきまでピアスを付けた医学部の男と楽しそうに話していたのに。そちらの方を向くと、彼はどうやら目標を別の女性に切り替えたらしい。
 そのときのわたしは彩乃の名前を完全に覚えていなかった。そもそも彼女との出会いはこれが初めてであって、この席に彼女がいるのは友人の桃ちゃんの紹介だった。
「えーと、徳富さん?」
「『徳富さん』って、なんか他人行儀じゃね?」
「あなただって芝川って」
「いや、だって芝川さんの下の名前知らないし」馴れ馴れしく言って、彩乃はニッと笑った。「あたしのことは彩乃でいいよ」
「……彩乃」
「ん。そんで、芝川さんの名前は?」
「わたしは、芝川しばかわ 真理紗まりさ
「あそう。マリちゃんね」
 勝手に人の名前を略さないで欲しかった。
 まあでも、ここまでお手軽にコミュニケーションされてしまうと逆に悪い気はしない。友人になる過程を二段も三段もすっ飛ばして近づいてくる感じ。突き抜けている、というか。
 わたしは値踏みするために今一度彩乃を見た。ほのかに柑橘系の香水の匂いがする。
「なんか楽しそうじゃないね。もしかして酔ってる?」
「いや……まあ、酔ってるけど」
「えー? めっちゃ酒弱いんじゃない?」
 そんなことはない、と言い返そうとしたけれど、先週の飲み会にてビール一缶で潰れてしまったのを思い出して諦めた。わたしは渋々と彩乃の言葉に頷く。
「えー、なんかすごく顔赤いし。大丈夫?」
「うん。今のところは」
「わあ、マリちゃんめっちゃ可愛いねー。なんか気だるそうなのがすごい可愛い」
 彩乃がきゃあきゃあ言うのをわたしは冷めた目で見ていた。酒が入るとひたすらものぐさになるのである。青リンゴサワーを傾けて、だんだんとアルコールの味がきつくなってきたのに気がついた。そろそろ飲めなくなるかもしれない。
「マリちゃん彼氏いないんだよねー。そんなに可愛いのに」
「そうかな」
「ぶっちゃけモテるっしょ?」
「女にはね」
 と言おうとしたが、変な誤解をされるかもしれないと思って言葉を濁した。代わりにもうちょっと具体的な例を話すことにする。
「わたし今バイトしてるんだけど」
「バイトの人?」
「そう。何かやたらとわたしにまとわりついてくる……っていうか、まあ、一緒にいるのが仕事みたいな感じなんだけど」
「えええ、マジで? ストーカーみたいな感じ? それすげーヤバくね? バイト辞めたら?」
「そもそもバイト始めたのだってその人に誘われたからだし。まあ、給料良いから辞めないけど」
「ていうか何のバイト?」
「探偵事務所」わたしは答えた。「探偵の助手」
「ええ! まじで? それすごくない? ねえねえ桃ちゃん!」
 男二人と楽しそうに話していた桃ちゃんの服を引っ張って無理やり会話に参加させようとした。彼女は少し困った顔をしたが、彩乃の興奮ぶりを見て結局こちらに混ざることにしたらしい。桃ちゃんは良い子だなあ、と感動しつつ、キュウリの野菜スティックをぽりぽりと囓る。
「なーに?」
「あんね、マリちゃんがね、探偵事務所でバイトしてんだって! 探偵の助手だよ?」
「へえー。芝川さん、探偵目指してるんだ」
 さっきまで桃ちゃんと話していた男子たちも一緒にこちらの会話に混ざってきた。別に探偵を目指しているわけではなかったが、説明するのが億劫なので肯定も否定もしなかった。かなり酔いが回っているらしい。酔いが回るとテンションはひたすら沈殿してゆく。
「それでね、なんか先輩の探偵さんにむっちゃ狙われててね」
「狙われてる?」
「うん。なんかべたべたしてくるって。ね?」
「ああ、如月きさらぎさんのことだね」
「あれ? 桃ちゃん知ってるの?」
「うん。何度か会ったことあるよ。如月さん。すっごい綺麗な女の人でねー」
「……女の人?」
「そうだよ」
「だからモテないって言ったじゃない」
 わたしが不機嫌に言うと、彩乃は手を叩いて笑い出した。「ウケるんだけどー!」とのコメント。確かに、我ながら愉快な話だ。これが他人事ならもっと愉快になれただろう。
 話の流れを理解していないその他大勢を無視してしばらく笑い転げた後、再びわたしに向き直って根掘り葉掘り訊いてきた。
「そんで、その如月って人、どういう人なの? 美人だって?」
「まあ、美人と言えなくもないこともない気がしないでもない」
「美人なんだ」にやにやと笑う彩乃。「ふうん。女子校みたいやん」
「女子校?」
「そ。なんかそういうの普通にあるってあたしの友達が言ってた。ふうん。すごいなー。そっかそっか。えー、付き合っちゃえば?」
 それは冗談にしてもあんまりな冗談だった。
「如月さん、すっごく頭良いんだよねー」桃ちゃんがわたしに同意を求めた。「殺人事件とかも何度か解決してるし」
「マジで? すごいじゃん」
 その言葉に、会話に乗り遅れていた男子勢も反応する。わたしはなんとなく、如月の話題で盛り上がるのが嫌だった。まるで自分の不幸を話の種にされているようで。
「んでんで、それどういう人なの? 名探偵なんでしょ? 密室の謎を解いたりするわけ?」
「名探偵である以上に変人かな……。基本的に正体不明だし。名前も」
「名前?」
「うん。メルトダウン如月っていうの」
「何それ。ハーフなん?」
「いや、純正の日本人」この説明をするのは一体何度目だろう。「本名は如月文子っていうんだけど、本名で呼ぶと……」
「なるほど。猛烈に怒るんだね」
 いや、拗ねて仕事をしてくれなくなります。とは、正体不明の如月文子像に胸をときめかせているらしい彩乃には言えなかった。知らないとは素晴らしいことだ。『無知の罪』なんて言い出した奴に見せてやりたい。
「あとたまーにふらっといなくなる。なんかいつも徒歩なんだけど、一ヶ月とか平気でいなくなるし。寝泊まりとかどうしてるのかな。所長の話だと盆のころと年の瀬には必ずいなくなるとか」
「それって……」
「ん? どうしたの桃ちゃん」
「いや、やっぱりなんでもない」
 何か言いかけたようだったが桃ちゃんは寸前で言葉を引っ込めた。いやそんなまさか、あの人がそんな趣味を、という独り言が聞こえなくもない。
 そういえば如月、アニメとかにやたらと詳しかったな……。
「いいなあ、マリちゃん。あたしも名探偵に会ってみたいな」
「興味があるなら来てみるといいよ。如月がいるとは限らないけど。今もなんか小旅行に出かけてるみたいだし」
「放浪癖があるんだね」
 ピアスを付けた医学部の男子が言ったけど、正確にはアレは失踪癖だと思う。携帯電話すら持たないからなあ。同じ職場で働く身としては迷惑なことはなはだしい。
「それじゃ、あたしが何か困ったことあったらマリちゃんにお願いするね」
「ちゃんと料金は頂くよ」
「大丈夫大丈夫。お金はあるし」
「彩乃もバイトしてるの?」
 彼女は首を振って否定した。かなり幼い仕草だったが、そういうのが男性の気を引くのにもっとも有効な手段であることをわたしは経験を通して理解していた。理解しているからこそ、そんな手段で簡単にぐらつくような男にはこの体を許したくはなかった。
 って何を考えてるんだろうわたしは。
 単に可愛げがないのをそうやって言い訳しているだけだ。
 正直に言えば、女らしさの装飾を自然にまとうことができる徳富彩乃のことをうらやましく思っていた。
「彩乃の家ってすっごいお金持ちなんだよねー」
「えー、別にそんなことないよ。普通普通」
「普通の大学生が宝石買い漁ったりしないよ。あと服とかすっごい買ってたし。何だったっけ、ぴかぴか光ってるクレジットカード」
「えー、だってあれはぁ、彼氏と喧嘩してムカついてたからぁ……。あ、もちろん今はもう別れてるよ? 彩乃は今フリーでーす!」
 にっこり笑って男性陣にピースサイン。正直やり過ぎだと思ったけれど、愛想というのはやり過ぎなくらいがちょうど良いのかもしれない。
「マリちゃんてどこで働いてるの? 市内?」
「ん。名刺をあげるよ。ほら」
 わたしはハンドバッグから財布を取り出し、カード入れの一番奥に入っている名刺を彼女に渡した。
 わたしの名刺ではない。如月の名前と事務所の住所が書かれたもので、困っている人がいたら渡してあげなさいと如月が気まぐれにわたしに渡したものだ。
 当の本人は仕事も人間関係も放棄して、現在もどこかで失踪中である。正義の味方がしたいのならちゃんと地に足を付けろ、と言いたい。
 とはいえ、事務所に如月がいない方が仕事がはかどるのでわたしは今の状況に満足しているけど。あいつが職場にいるとやたらとべたべたひっついてきたりからかってきたり触ってきたり騙してきたり舐めてきたりで、とにかく気の休まることがない。
「あの、言っとくけど、如月ってすっごく変なやつだからね。変なだけならマシだけど、性格悪いし、怠け者だし、気分屋だし、意味不明だし」
「んー。ていうか多分行かないと思うけど。ストーカーとかに狙われたら頼るかもね」
 彩乃はそう言って笑った。アルコールに冒されていたわたしは笑わなかった。名刺を渡した一時間後には、もうすでにこの会話のことすら忘れていた。マヨネーズを付けすぎたニンジンの野菜スティックを、名前も忘れた男子たちとの会話の合間にぽりぽりと囓り続けていた。
 これが先週の土曜日の話である。



 如月が消えてから二週間が経っている。早朝、わたしはうきうき気分で雑居ビルの階段を上り、二階のフロアを占有している宮坂探偵事務所の中に入った。うきうき気分、というのはかなりレトロな表現だったけれど、他にこの気分の高揚感を表せるような言葉をわたしは知らなかった。
 うきうき気分。
 フロアの中を二歩進んだところで、突如死角から現れた如月に抱きしめられて耳を囓られるまでは、確かにわたしは幸せだった。
「……如月。帰ってたの」
「当たり前のことを言わないで欲しいね」如月はわたしの両手を完全に封じつつ、耳元でねっとりとした声で囁いた。「帰っていなかったらここにいる私は一体誰なんだね? くくくっ」
「ひとつ聞きたいんだけど、どうしてわたしの耳を囓っているの?」
「二週間ばかり会えなかったからね、真理紗のことが愛おしくて思わず衝動に身を任せてしまったのさ」
 嘘だがね、と付け加えて、彼女はわたしの体を解放した。耳に付いた唾液を服の袖で拭おうとしたら如月に止められた。如月は刺繍の施された黒いハンカチを取り出すと自分の唾液の後始末をした。そうするのなら最初からあんな馬鹿な真似はしないでもらいたい。
「そうは言うがね。こうでもしなければ君は私とのスキンシップを避けようとするだろう? くっくっくっく、これは不可抗力というものだよ」
「あのね、そもそも勝手にどこかへ行くのはあんたでしょうが」
「私だって色々と忙しいのだよ。メルトダウン如月にとっての探偵業とはただの暇つぶしに過ぎない」
「そうかい。それじゃ、しばらくはたっぷりと暇をつぶしてもらおうか」
 給湯室から出てきた宮坂みやさかさんが皮肉っぽく言った。如月は下手な弁解もせずに「そうさせてもらうよ」とだけ答える。気が咎めた様子は微塵もない。あいつには雇われているという自覚も責任も罪悪感もないのだろう。そんなものがなくても彼女は一人で生きていけるから、だからこそ、頓着しない。
「芝川さん、しばらく大変だろうけど、如月係、がんばってね」
 如月に向けた笑顔をそのままこちらに向けて宮坂さんが言った。正直、嫌な役を押しつけられた、と思った。この探偵事務所で働き始めてから、ずっと思っている。
 宮坂探偵事務所には探偵が三人いて、その筆頭が所長である宮坂尊志たかしさんだ。安物の地味なスーツを着ていて、一見すると冴えないサラリーマン、公園のベンチで鳩に餌をやるのがお似合いのくすんだ印象の人物だが、宮坂探偵事務所の一癖も二癖もある探偵たちをまとめ上げているのは伊達ではない。
 この如月でさえ、宮坂さんには比較的大人しく従っているのだから驚きだ。と言ってもそれは比較の問題であって、わたしがここに来るまでは宮坂さんですら如月のことを持て余し気味だったようだが。その状況は現在に至るも解決せず。如月は今も時折ふらりと姿を消してしまうことがある。
 宮坂さんの方でも、如月に説教をすることの無意味さは十分に心得ているようであっさりと給湯室に戻っていった。中で何をしているのかと思ったが、どうやら麦茶を沸かしているらしい。宮坂さん、この事務所では一番几帳面な性格なのだ。
 そしてもっともずぼらな性格の如月は、二週間使われていなかった自分のデスクの上にひょいと座って、わたしの方を向いて足を組んだ。
 腰のあたりまで届きそうなほどの長い黒髪に、ベルトの付いた黒のロングブーツ。そして濃いブルーのデニムのスカート。無駄な肉のないすらりとした体型なのに、胸は豊満にその存在感を示している。同じ女として嫉妬しそうになる完璧な肉体。しかしその顔は、バランスが整いすぎているためか、如月と話しているとまるで人形と向かい合っているような奇妙な感覚がする。
 生きているとは思えない。
 人形みたいな、作り物めいた、完全に計算された表情。
 しかしながらひとつだけ難点を言わせてもらえれば、今日の如月、なぜか上は派手なアロハシャツだった。
「さっきから突っ込みどころが多すぎて後回しにしてたけど、あんたなんでアロハシャツなんか着てるの?」
「トロピカルだろう?」
 答えになってねえ。
 しかもそれ、サイズが合っていないせいでかなり窮屈そうだ。特に胸の辺り。ボタンがはち切れそう、とまではいかないけれど、その谷間を強調するくらいにはテンションが掛かっているようだった。宮坂さんが如月の説教を中断したのは目のやり場に困ったせいかもしれない。
 ふふん、とつまらなそうに鼻で笑った後、華奢な腕を胸の前で束ねた。アロハシャツではなくて、デスクの上に直接座らず、もう少し人間らしい表情を浮かべることができればオフィスレディに見えないこともない。ていうか、それくらい仮定を重ねれば誰だってそう見えるだろうけど。
「今日は愉快な一日になりそうだね」
「あんたはいつも愉快そうだけど」
「そういう意味じゃない」言ってから、如月はデスクから飛び降りた。両腕を挙げて体を伸ばした。「やれやれ、浮き世の義理というのは辛いものだな」
「わたしいつも疑問に思うんだけど、如月はなんで探偵をやってるの?」
「私のことを誰かに紹介しただろう?」
 わたしの言葉を遮って如月が質問する。質問よりも断定に近い言い方だった。多分、あの名刺のことを指しているのだろうけど。
「そりゃ、あげたけど。なんで知ってるの?」
「いつも言っていると思うがね、私はすべてをあらかじめ知っているのさ」陶磁器のような白い指で、自分のこめかみをトントンと叩く。「推理など凡人のすることだよ。考えるまでもない」
「……はいはい。そうですか」
 言いながら、わたしは本日の如月との会話を振り返っていた。何か匂わすような言動をしただろうか。いや、これは単に、推理ではなくてわたしに鎌をかけたのではないか? あげていなければいなかったで、そういう対応をすればいいだけの話。所詮は後出しの予言でしかない。それならばいくらでも言いようがあるし、誤魔化せる。
 もっとも予言者でなかったところで、如月が一般人からはるかに逸脱した存在だということを、わたしはこれまでの付き合いを通して十分に理解していたのだが。
「それにしてもうれしいよ。また真理紗と一緒に探偵活動ができて、ね」
「嘘っぽいよ」
「そう聞こえるような言い方をしたからさ。くっくっくっく。おや、かけるは今日もいないみたいだな。また張り込みかな?」
 如月が言っているのは国尾くにお翔さんのことで、宮坂探偵事務所が抱えている探偵の一人。張り込みとか盗聴とか盗撮とか、そういう工作全般が特技。今はたしか、離婚裁判の証拠集めのために張り込み中。ここ最近は事務所に顔を出していなかった。
「国尾さんがあんなに働いてるんだから、如月もちょっとは貢献してよ」
「貢献、ね。貢献は嫌いな言葉だ。それは人に義務を強いる言葉だ。それに他人から強制された貢献は貢献とは呼ばない。単に仕事を課されているだけさ」
「それじゃ、あんたの好きな言葉は?」
「そもそも言葉が嫌いでね」
 くっくっく、と喉を振るわせて、口元に手を当てながら偽物みたいな笑い顔を作った。表情の、しわの一つにいたるまで完璧にコントロールされているかのような不自然さがそこにある。
「そう不機嫌な顔をするな。せっかくの美人が台無しだよ。それに今日は何か愉快な出来事が起こりそうな気配がするね」
「また予言?」
「というよりは予定だな」
 しれっと答えると、今度はちゃんと椅子に座り、デスクの上に乗せた足を組む。行儀悪いことこの上ないし、正面からはスカートの中が丸見えだった。不愉快だったのであえて無視したけれど。
「一応聞いておくけど、わたしが名刺を誰かに渡したこと、なんであんたが知ってるの?」
「それは、私が全能だからさ」
 ああそうですか。
「本当のことを言えば当てずっぽうだった」
「当てずっぽうかよ」
「うん。しかし真理紗の性格を考えればあの名刺をすぐにでも手放したというのは十分に予測可能だ。君はああいうものをずっと持っていることに抵抗を覚えそうだからね。『誰か困っている人がいれば渡しなさい』――と言ったが、しかし名刺は一枚しかない。誰か困っている人間に渡して、その次に、もっと困っている人間と出会ったらどうする? どの程度困っていればあの名刺を渡すべきか? その度合いは誰が決める? もちろん名刺の渡し人になった真理紗が決めなければならない。しかし真理紗はそういう『仕事を課せられる』のはあまり好きではないからね。嫌な仕事はさっさと捨ててしまうに限る、というわけで、おそらくとんでもなくくだらない状況で、どうでもいいような人に、まさしく捨てるかのようにあの名刺を渡したと推測するが、果たしてどうかな?」
 わたしは如月の視線を避けるようにして給湯室へ行くと、冷蔵庫に入っていた麦茶を湯飲みに注いで如月に出した。推理の答え合わせはしなかったが、如月は正解を確信しているのか、あるいは単に興味がないのか、わたしから受け取った麦茶を美味そうに飲んでいた。
 宮坂さんはわたしとすれ違いに自分のデスクへ行って、今月分の調査報告をパソコンにタイプし始めている。如月ほど頭の切れる人間ではなかったけれど、勤勉さと社会性においては、この事務所の誰も宮坂さんには勝てない。わたしも含めて。
 如月は鼻歌を歌い始めた。そばで真面目に仕事をしている宮坂さんのことなんてお構いなしに。もっとも、そんなのはいつものことなので、宮坂さんも今さら目くじらを立てて怒ったりはしないけれど。
 如月が歌っている曲を思い出すのにしばらくかかったが、それはシューベルト作曲の『死と乙女』の一フレーズだった。
 陰気なメロディを何度も何度も繰り返す。
 両目を閉じて、自分の鼻歌に聴き入るようにしている。
 外界の情報を遮断した如月の内部でいかなる演算が繰り広げられているかは想像を絶する。
 わたしは溜め息をいて――まあ、それはいつものことなのだが、とりあえずいつものように事務所の掃除を始めることにした。
 特に探偵は、資料やデータの整理に十分気を使わなければならない。それは効率を高めるためでもあるが、何より機密保持のために必要なことだった。
 如月のデスクはいつも通り、掃除をする必要がまったくなさそうだった。如月の机には何一つ物が置かれていない。電気スタンドすらない。
 如月にはものを所有するのが嫌いという妙な性癖があって、たとえば事務所の北側にはびっしりと本棚やキャビネットが並んでおり、そこには調査の上で有用になるような書籍や資料が収められているのだが、如月は放っておくとそういう必要なものも処分しようとするのでなかなか油断ならない。
 以前事務所の中にある家具の半分以上を勝手に処分されたことがあって、それ以来宮坂さんは如月をひとりで事務所に残すような愚行はしなくなった。そういえばちょうどあのときから、宮坂さんは現場に出るのを控えるようになっていった。年齢的にもキツイだろうし、ちょうど良い機会だったのだろう。と思うことにする。かわいそうな宮坂さん。同情を禁じ得ない。
 わたしがフロアの掃除を済ませても、如月は相変わらず何もせずに鼻歌を歌っているだけだった。さっきよりも妙なアレンジが加えられていて、もはや原曲が何なのか判断が付かなくなっていた。
 ――ちょうどそのとき、電話が鳴った。
 如月の鼻歌に一区切り付くのとほとんど同時だった。両目を開けて、わたしの方へ意味ありげに目配せをする。
 その態度にかなり嫌な気配を覚えながらも、雑用係のアルバイトとしての義務を果たすべく、わたしは電話の対応に出た。
「……もしもし。宮坂探偵事務所です」
 電話の向こうでは息をのむ音が聞こえた気がした。
「……あの? どちらさまですか?」
「芝川真理紗さんをお願いします」
 女性の声がそう言った。
「え? あの」突然名前を呼ばれたことに動転する。「わたしが芝川ですけど」
「マリちゃん?」
 向こうも驚いたように言って、それから安堵の声を漏らした。かなり若い女性の声だったが、それが誰か、わたしにはどうしても思い出せなかった。
「あの、どちらさまですか?」
「あ、あたしだって。忘れたの? 名刺くれたじゃん」
「名刺……」こめかみに指を当てて必死に思い出そうとする。「ええと、如月の名刺をあげた人?」
「そうだよ。なに? マジで忘れたの?」
「先週合コンで一緒になった人だよね」
「そうそう。徳富彩乃」
 名前を教えてもらっても、はたして彼女がどんな人物だったかを明瞭に思い出すことができなかった。何せ彩乃と会ったのはそのとき一回だけで、それ以降、彼女の名前すら思い出す必要がなかったのである。
「わたしに何か用?」
「うん。その、今ちょっとマジでヤバくて、ちょっと助けて欲しくて……」
「わたし個人に? それとも探偵事務所に正式な依頼?」
「もちろん正式に依頼するよ。金だって結構持ってるからちゃんと払えるし。いや、ほんと、他に頼れるヤツいなくてさ、断られるとヤバいんだけど」
 どうせくだらない用事だろうなあ、と思いつつも、金を払うと言っている以上対応しないわけにはいかなかった。桃ちゃんによれば彩乃の実家はかなりの資産家という話だったが、しかし彼女自身に支払い能力があるかというと、わたしとしてはちょっと疑問に思わないでもなかったが。
「……それで、何があったの?」
「あのね、あたし今東華とうかホテルのスイートルームにいるんだけどね、ていうかまあ彼氏と、いや彼氏じゃなくて、まあちょっと知り合いっていうか、セフレみたいな感じなんだけど」
「それで?」
 惚気話を聞かされるのかと警戒しながらも先を促す。
「うん。ていうかね、昨日の夜から泊まって、たけさんっていうんだけど、その人と寝たんだけどさ」
「なに? 今朝になって喧嘩でもしたの? 喧嘩の仲裁をしろとでも?」
「あのね、あたしが目ぇ覚ましたら」何と言っていいのか迷っているみたいで、少し間を空けてから、「岳さん、首を切られて死んでんだけど」



 東華ホテルは観山みやま市の中ではもっとも知名度が高いホテルだろう。しかしそれは庶民にとって身近なものではなく、高級ホテルとしての羨望とある種の嫉妬の対象として語られる種類の建物だった。
 しかもそのスイートルーム。一泊するだけで数十万円とも言われていて、そんなところに泊まれるのは市外から来た一部のセレブリティだけ。とりあえず言えるのは、観山市の一般人にはほとんど関わりのない存在である、ということだ。
 しかも今回は首切り死体というオプションまで付いている。
 となると、もうわたしにとってはほとんどファンタジーと言ってもいい領域だった。もしくは御伽噺おとぎばなしか夢物語か。
 わたしは車を運転しながらバックミラー越しに後部座席の如月を見た。首切り死体に興味を惹かれた様子もなく、彼女はいつもの通り上機嫌だった。如月の機嫌を計るのはとても難しい。そもそも如月に機嫌という概念があるのかどうかも怪しい。
 あいつなら、自分の機嫌すらも理性でコントロールしてしまいそうだ。
「それにしても、首切りとはね」独り言みたいに如月は言った。「随分と愉快な予感がするよ。くっくっく」
「あんた、そういうの好きそうだもんね」
「私は別に死体に興味があるわけではないよ。私が愉快だと言ったのはその依頼者の方だよ」
「依頼者?」
「彩乃と言ったかね。彼女はスイートルームで恋人と一夜を共にした。しかし今朝目を覚ますと恋人は首を切られて死んでいた。そして君からもらった名刺を思い出し、事務所に助けを求める電話をした。妙だとは思わないかい? 本来ならば彩乃が頼るべきは探偵ではなく警察のはずだ。ではなぜ警察に通報できないのか? そのあたりの事情が、私は愉快そうだと思ったのだ」
 わたしが釈然としていないのもその点にある。彩乃は電話で、警察を呼ばないようにと何度も何度も重ねてわたしに確認した。探偵と言えど違法行為はできないということに『表向きは』なっているので、一応そのことを彼女に断ってから、わたしは如月を連れて急ぎホテルに向かっている最中である。
「彼氏を殺してしまったので隠蔽の手伝いをしてください、という依頼だったら厄介なのだがね」
「さすがにそれはないでしょ」
 と反射的に否定してしまったが、彩乃のことをほとんど知らないわたしは、その根拠を何一つ持っていないことに気がついた。如月も大して気にした様子はない。
「どちらにせよ、今回の件が愉快すぎることは間違いない。やれやれ、困ったものだ。浮き世の義理というのも大概にしたいものだね。……義務と法、優先すべきはどちらなのかな」
 初めから返答を期待している様子もなく、如月は話を独り言で一方的に打ち切った後、いつもの通り作り物めいた上機嫌さをまとって、センスのないアレンジを加えた鼻歌を歌い始めた。
 三十分ほどでホテルに到着する。車は近くのコンビニに駐めてそこからは徒歩で移動する。ホテルに直接車を駐めるのは危険だという如月の判断だった。
 車を降りると如月は大きく深呼吸をした。わたしも何となくそれを真似てみると、今日の夜中まで降り続いていた雨の影響か、湿気を含んだ朝の空気で肺の中が満たされた。
「今は何時かね?」
「えーと、八時少し前です」
「そうか。それでは、仕事を始めようかね」
 横断歩道を二つ渡り、三分ほど歩いたところでホテルの敷地に入る。他に入り口もなさそうなので、正面から中に入るしかなさそうだった。
「警備員に目を付けられないよう、気をつけたまえ」
 と如月は偉そうに言っていたが、アロハシャツを着ているやつの方がよっぽど目立っていた。わたしは少しだけ如月と距離を取って歩いた。他人の振り、他人の振り。
 フロントに立っていた従業員が怪訝な顔で如月へ視線を送っているのを感じ取ったが、あえて反応はせずに捨て置いた。ここまで不躾な視線を送れるということは、逆に言えば、こちらを不審に思いこそすれ、警戒はしていないということ。まだまだ安全圏である。
 朝のこの時間ということもあり、ホテルのフロアに人はまばらだった。
 入り口の自動ドアのそばにソファとテーブルが置かれた空間があり、宿泊客らしき男が煙草をふかしながら新聞を読んでいた。ロビーの突き当たりにはカフェがあって、ガラスの自動ドアの向こうに朝食を摂っている人たちの姿が見えた。
 東華ホテルというだけあって内装は非常に豪華だ。下はふかふかのクリーム色のカーペットで、部屋全体がゆったりとした広い空間になっている。壁には風景画がいくつか掛けられていて、天井からは小さいがかなり手の込んだ美しいシャンデリアがぶら下がっていた。
 わたしたちが歩いていると、すれ違った従業員が「お帰りなさいませ」と頭を下げた。わたしたちがここの宿泊客で、散歩にでも出て戻ってきたものと勘違いしてくれたらしい。
 それでも念のため、エレベーターは使わずに階段で目的の部屋へと向かう。エレベーターに乗って、宿泊客と乗り合わせたときに顔を覚えられるとまずい、という如月の悪知恵だった。
「悪知恵とは失礼な言葉だね。私たちは警察を相手にしているのだからこれでもまだまだ不十分なくらいさ」
「別に警察を相手にするって決まったわけじゃないと思うけど」
「くくくくっ。呑気も過ぎると人を殺すな。まったく、世界が君みたいな人間ばかりなら犯罪を取り締まる側も楽でいいだろうよ」
 唇の端をつり上げて皮肉っぽく笑った。わたしはそれを黙殺して、エレベーターの脇にあった階段を上り始める。ずらりと並んだエレベーターのドアに比べて随分と貧相な造りだった。
 彩乃が泊まっている部屋は十四階の1422号室。階段で登り切るにはちょっと辛い。
 心臓と足に痛みを感じながら上り続け、やっと目的の階に到着した。対する如月は涼しい顔で、まったく堪えている様子はなかった。こいつ、見た目に依らず身体能力はかなり高いのだ。
「さて、彩乃の部屋は1422号室だったね。……これかな?」
 すぐに見つけて、如月がドアをノックする。返事がなかったが、おそらく従業員か何かだと思われているのだろう。如月に促されて、今度はわたしが中に呼びかけた。
「彩乃。……彩乃!」
 中でどたどたと微かに足音が聞こえて、ドアの鍵を開ける音。用心深く少しだけ開けて、わたしのことを確認した。
 ドアの隙間から見える化粧をしていない彩乃の顔はずいぶんとやつれて見えた。ほとんど下着同然の薄い生地のキャミソールを着ている。靴は赤いハイヒール。先週合コンで会ったときの少女的なイメージは微塵もなかった。
「マリちゃん……? ああ、よかった。マジ助かった……っていうか、その人誰?」
「えと、如月」
「ああ。なる。とにかく中入って。警察呼んでないよね? あ、彩乃っす。ほんとお願いします。もう、かなりキてるんで」
 如月は笑顔を張り付かせながら、軽く手を広げてそれに応じた。
 彩乃に室内へ通される。わたしたちが部屋へ入るとすぐにドアを閉め、鍵とドアガードをかけた。
 彩乃を無視して如月がずかずかと中へ踏み込んでいった。わたしもそれに従って中に入ると、目下の懸念事項だった首切り死体がすぐそこにあった。
 さすがにスイートルームというだけあって内装は豪華だ。部屋もひとつだけではなくて、応接室の用途を持たせたものや巨大なプラズマテレビを備えた部屋、まるでバーのような小さなカウンターのあるフロアなどがある。
 問題の死体はベッドルームにあった。収容人数が四人くらいはありそうな大きなベッドの片側に、おそらく眠った姿勢のままで倒れている。ベッドのそばには死体が脱ぎ散らかしたと思われるスーツやシャツ、ズボンが落ちていた。
 体はシーツに隠れて見えない。問題の頭部は、顎のすぐ下を切断され、本来頭があるべき場所――枕の上に放置されていた。
 首と頭部の切断面から赤黒い肉が見える。わたしは気分が悪くなって、部屋の中に踏み込むのは無理そうだった。切断された頭部は無表情のまま両目を閉ざしていた。安らかな表情、と表現するには少し無理のある状況だったけれど。
 如月は躊躇うこともなくベッドに近づくと、無神経にも素手で触って死体の検分を始めやがった。
「あ、あんたいきなり何やってんのよ!」
「ついさっき殺された、という感じでもなさそうだね。首を切られたというのに出血がほとんどない。血が凝固してしまっているのだね。ということは、あらかじめ彼を殺して、しばらく時間が経過してから首を落とした、ということになるね。切断面はかなり荒い。重い刃物ではなく、ノコギリのようなもので無理やり切り落とした、といったところだ」
「じゃなくて、勝手に触っていいの?」
「死んだ人間は怒らないよ」
 とんちんかんなことを言って、なおも如月は死体の検分を続ける。シーツをめくると、死体は服を着ていなかった。わたしは思わず目を背ける。
 そこに彩乃が近づいてくる。
「……どう?」
「どう、って、何が?」
「やっぱり、死んでる、よね?」
 これで生きていたら、それはもう人間ではない。
「彩乃、何が起きたのか説明して」
「せ、説明も何も、あたし何も知らないんだってば。起きたら隣に寝てた岳さんが死んでた」
「彩乃が目を覚ましたのは何時ごろかね?」
 死体をいじりながら如月が質問した。
「マリちゃんに電話をするちょっと前、くらい、かも」
「ふむ。七時三十分くらいかな。それで、朝起きたとき、部屋の鍵はどうだったのかね?」
「それが」言いにくそうに、如月とわたしの顔を交互に見比べた。「閉まってた、んだよね、これが……」
「なるほど、それが君の事情か。これは愉快な展開だよ。くっくっくっく!」
 それはつまり、彩乃が死体を発見したとき、この部屋が密室だったことを意味する。外部から誰かが侵入することは不可能だし。侵入したとしても、今度は脱出することができない。
「その、なんつーか、この状態で警察呼ぶとあたしヤバくね、って思って。だって鍵掛かってたら、犯人あたしにされちゃうじゃん。それで如月さん呼んだんだけど、なんかマズかったかな?」
「君の勇気に敬意を表するよ。それで、鍵は両方掛かっていたのかな? ドアガードは?」
「ドアガードって?」
「あの、金属の棒を引っかけるやつ」わたしが解説する。
「いや、あたしが今朝見たときは鍵だけだった」
「フロントから預かった鍵は?」
「そこのテーブルに」
 彩乃が指さした先には、ベッドルームに置いてある背の低い丸テーブルがあった。上には飲みかけのシャンパンボトルとグラスが二つ、それにルームナンバーが掘られたキーホルダー付きの鍵。
「昨晩のことを話してもらおう。鍵は二種類ともかけたのかね?」
「えーと、ちょっと待って」頭を押さえて必死に思い出しているようだった。「あー、はいはい。かけたわ。あの、えーと、ドアガード? あれもちゃんとかけたよ」
「それなのに今朝、ドアガードは開いていた? 念のために聞くが、この部屋に泊まったのは彩乃とこの男だけなのだろうね?」
「うん。それはもう、間違いないと思う」
「それでは次にバックグラウンドの説明を訊こう。彩乃とこの男との関係は?」
「セックスフレンド」
 あまりに直接的な品のない言葉にわたしはめまいがした。
「ああ、でも、たまにお金もらったりしてたけど」
「ふん、なるほど」あまり興味もなさそうに頷く如月。「つまり売春か」
「ば――」
「このホテルを予約したのは?」
「岳さん。あたしがおねだりしたら予約取ってくれたんだ。一泊だけ」
「死体の背中側に死斑がある。死んでからしばらくはこの姿勢のままでいたようだね。と言っても、この場所で首を切断したとは断言できないがね。一瞬とは言わないが、要領よく切断すれば十分もかからないだろうし。……そもそも岳とは一体誰なんだね?」
「岳将也まさやさん。ええと、よく知らないんだけど、雑誌の編集長とかやってる人。『経論』っていうやつ。読んだことないんだけど」
「政治経済のゴシップ誌だからねえ。君みたいなのからは遠い存在だ」
「如月、読んだことあるの?」
「いや。しかし知識としては知っているよ。……死後二時間以上、四時間未満といったところかね。正確な時刻は検死官でも連れて来なければ分からないだろうが。それで、肝心な話をまだ聞いていなかったね」
 死体から手を放し、そこで初めて如月は彩乃と正面から向かい合った。それまでどことなく弛緩していた彩乃にさっと緊張が走り、壁に手を突いていたのをやめて、まるでこれから面接を受けるみたいに姿勢を正した。
「君はこの私に、一体何を依頼しようというのかね?」
 彩乃は喉を鳴らして、遠慮がちに答えた。
「……あたしは犯人じゃない。逮捕とかマジ勘弁なんです。だから」
「なるほど、警察からの保護を求めるわけだ。なるほどね、くっくっくっく」上等だと言わんばかりに笑う。「予言が当たったね。これは愉快な事件だよ。なあ真理紗」
「でもだからって、殺人事件を隠蔽するなんて――」
「そうじゃない。真理紗は間違っているよ。ただこの事件を隠蔽するのではいたずらに事態を混迷させるだけで時間稼ぎにしかならない。ということは、警察がこの死体に気づく前に、私たちで独自に捜査をして、彩乃が犯人でないことを証明すればいいのだ。彩乃が望んでいた展開はそちらの方だと思ったがね、いかがかな?」
 彩乃は慌てて首肯した。如月のペースに馴染めないでいるようだった。
「よろしい。愉快な展開だね。ただし依頼料はしっかりと頂くことになるがいいかね? うん、結構。依頼料に関しては真理紗と交渉してくれたまえ。そういうことにわたしは疎くってね。くっくっく。そうそう、彩乃には事務所の方で待っていてもらうことにしよう。ここに留まっているのは何かと危険だからね……。最後に、昨晩のことをもう一度訊こう。何か事件はなかったかね?」
「昨日の夜は……。えーと、夕方くらいにチェックインして、お風呂入って、セックスしたあと」
 指折りながら平然と回想する彩乃。どうやら羞恥心はすでに虚空の彼方へ置き去りにしてきたらしかった。
「お酒飲んだらすぐに眠くなっちゃって、それで目が覚めたら……」
「なるほど。眠ったのは将也が先かい?」
「ううん。覚えてない。とにかく眠かったから……」
「彩乃と将也が昨晩飲んだ酒というのはこのシャンパンだね?」
 ベッドルームのテーブルに放置されたボトルとグラスを指さした。彩乃は間違いないと答える。
「それでは真理紗、彩乃を事務所に送り届けてから、すぐにここに戻ってきてくれたまえ」
「んー、わたしも事務所で待つっていうのはだめ?」
「おいおい、それでは私はどうやって帰ればいいんだい? それに、せっかくの機会だ、真理紗には私の仕事ぶりを監視してもらわなければね。そのために尊志は真理紗を雇ったのだよ」
「ていうかさ、その前に家に寄りたいんだけど……。だって、服とかもこんなのしかないし」
「家はどこなの?」
樫桜かしざくらの方。アパートなんだけど」
 ホテルから事務所へ向かう途中だ。
 彩乃が支度をするのを待ってから、わたしは彼女を連れて部屋を出た。その間、一応念のために部屋の中を見て回ったけれど、殺人の証拠となるようなものは見つからなかった。
 彩乃は派手な薄手の服の上に茶色い厚手のコートを羽織っていた。肩には大きなスポーツバッグをかける。
「それじゃ、先に事務所に戻ってるね」
「ああ。ここは任せてくれ」
 気楽に返事をしてから、如月はドアを閉めた。向こうで鍵の掛かる音がした。
 わたしたち二人は今度はエレベーターで一階まで降りる。さきほどよりも幾分か人気の増えたホールを抜けて、ホテルを出ると、今までは何も感じなかった外の空気がずいぶんとすがすがしく感じられた。
 コンビニに駐めていた車へ彼女を乗せて、すぐに発進する。まず向かうのは彩乃の家だった。彩乃の様子を伺うと、如月と別れたことでずいぶん気安くなったようだ。
「マリちゃんマリちゃん、一応言っとくけど、あたし本当に人殺しなんかしてないからね」
「別に疑ってないけど」
「いや、マジなんだって。ていうかさっきからさ、こう、感じるわけよ。疑いの視線? つーのかな。いやまあ、状況考えたら仕方ないんだけどさ。でもだからマリちゃんとこの探偵さんに頼ったわけだけど」
「犯人とかに心当たりはないの? あの、殺された人を恨んでるような人とか」
「岳さんね。んー、どうだろう。恋人とかいるって聞いたけど。あ、別れたんだったかな。知らんけど」
「浮気なんだ」
「別に彼氏ってわけじゃないんだって。つーかマリちゃんもそーいうん分かるっしょ?」
 同意を求められても困る。
「つーかでもさー、マジヤバいよね、あの如月さん。死体とかめっちゃ触ってるやん。いやもうホラーって感じで半端ないっていうか。いつもあんなんなん? 普通死体とか見たらもうちょっとリアクションとかするじゃん」
「人間ならね」
 興奮する彩乃に、ハンドルを切りながらわたしは冷たく答えた。もっとも、わたしだって、如月のことを一方的に揶揄する資格なんてないんだけど。
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