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8.僕たちの結論

 突き抜けるような青空、という表現があるけれど、一体この青空に何が突き抜けるというのだろうか。
 僕は学校裏の原っぱで大の字に寝そべりながら空を眺めている。本日は晴天なり。僕の視界には一面の空。積乱雲だかいわし雲だか一般名称はよく分からないけれど、僕に爽快感を感じさせてくれるような素敵な雲だった。
 こうして空を眺めていると空って意外と低いんじゃないか、と思えてくるから不思議だ。まるで落ちてきそうな空。僕はどうして空が落ちてこないのか不思議に思った。どこかに空を支えている柱があるんじゃないかとついつい探してしまう僕である。いや、本当のところそんな馬鹿な真似はしなかったけれど。何故なら今の僕にはそんな冗談に付き合う気力がないからである。
 うーん、眠い。おやすみなさい、と心の中で念じてから目を瞑る。とりあえず念じておけば許されるような気がしたんだ。今は昼。今朝は弁当を作れる心理状態じゃなかったので購買のパンを適当にむさぼっただけである。もう昼休みは終わっているはずなので本来ならこんなことが許されるわけがない。でも午後の授業はもうどうでもいいや。
 仲宮さんの無茶苦茶と僕の演説から一日。昨日は大変だった。あのときも大変だと思ったけれど、今思い返してみるとそれでもまだ認識が甘かった気がする。ステージから降りた僕は仲宮さんに平謝りされ、だけどまあ僕も演説で仲宮さんのことを褒めちぎったりしていたのでその点に関してはお相子だ。ていうか立候補演説なのに仲宮さんについて話してどうするんだ。僕は馬鹿か? 僕は馬鹿だ。
 投票が終わって教室に戻るとクラス中からからかわれたり、下校途中には学年の違う生徒からも声をかけられたりして、冷静になった今ではあまり思い返したくもない。学校帰りに西後先輩と仲宮さんと美潮先輩の四人でささやかな打ち上げをやった。今時の高校生の遊びらしくカラオケやゲームセンターを梯子した。みんな妙にテンションが高かったのを覚えている。
 僕は昨日の晩も眠れなかった。翌日の開票が気になって仕方がなかったのだ。おかげで僕は今こうして眠っているのである。寝惚けた頭で、でも意識だけは妙に昂ぶっていて、久しぶりに仲宮さんと一緒に登校して――。
 開票結果は正面玄関前の掲示板に張り出されていた。
 美潮渚紗、355票。
 石岬恋十郎、92票。
 この結果を予想していなかった、と言えば嘘になる。あの美潮渚紗を相手にこれだけの票を奪えたのだから健闘と言えなくもない。西後先輩や仲宮さんや美潮先輩や一年二組のクラスメイトたちの慰めに笑顔で答えて、そういえば頼子はしばらく風邪で欠席になりそうだ、早く治って欲しいなあ、なんて善人の皮を被る。
 善人の振りをして当たり障りのない人間を演じるのがこんなに辛いと思ったことは今までなかった。
 目を瞑って横になっていると、今日の出来事が走馬灯のように駆け巡って僕はまた嫌な気分になった。ここを過ぎればあとは混濁するだけ。そうなればしばらくは何も考えなくて済む。瞼の裏の暗闇をただ耐えるために見つめ続けた。
 ……しばらく眠っていたと思う。時間感覚の消失。何か柔らかいものが頬に触れるのを感じて僕は覚醒した。
 目を覚ますと仲宮さんに膝枕をされていた。
「……どうも」
「ん。起きたか」
「なぜに僕は膝枕なぞされているのでしょうか」
「細かいことは気にするな。眠っている石岬をみるとつい手を出したくなる」
 いたずらっ子の顔で言って、仲宮さんは僕の額をゆっくりと撫でた。彼女の指は僕が思っていた以上に冷たい。それがとても心地良くて、もう一度眠りに落ちようとする衝動に抗うのは大変だった。
「……選挙、残念だったな」
 ゆっくりと落ち着いた声で仲宮さんが言った。
 僕はその声を聞いた途端に心の中にある何かが決壊するのを自覚した。壊れる瞬間が手に取るように分かっても、それを止めることは出来ない。ぼろぼろと剥がれ落ちていく自分をただ呆然と見ているしかなかった。冷静な理性の部分が客観的に自分を評価して、仲宮さんの膝の上で子供のように涙を流してしゃくりあげる自分を徹底的に非難した。
 だけど僕は自動的に涙を流す。
 だって、彼女の言葉とふとももと僕の涙を拭う指にはそれだけの力がある。こんなことをされたら誰だって自動的に泣き出してしまうだろう。だからこれは不可抗力、しょうがないことなんだ。僕は声を上げて泣き出した。過呼吸になるほど泣いて、泣いて、泣いて、今にも落ちてきそうな空から僕を庇うように、仲宮さんがずっと僕のことをあやしてくれていた。
 僕は何かを言おうとしたけれど言葉にならなかった。こんなに感情的になるのは初めてだった。ふふん、こんな感じになるのか。でもどうしてこんなに泣いているんだろう。心の中で荒れ狂うこの嵐は一体何だろう。
「……仲宮さん」
 やっと声が出た。泣きすぎて掠れた声。格好悪いなぁ。もっとこう、最初はクールなキャラだったのに。あのころから僕はどんどん子供になっている気がするなぁ。
「僕、悔しいです」
「そうか」
「今までこんなこと思わなかったのに……。何をやっても、ああ、どうせ負けるんだなって思ってたのに。今はその、ものすごく悔しいです」
「お前、頑張ってたからな」
「――っ、勝ちたかった、です」
 改めて感情を言葉にするとまた泣きそうになった。その衝動を慌ててこらえる。深呼吸を二度三度。よし、僕は落ち着いた。
「お前が頑張っていたことをわたしは知っている。何も残らなくてもわたしは覚えている。格好良かったぞ、石岬恋十郎」
「もしかして惚れちゃいました?」
「違うな。惚れ直した、というんだ」
 大真面目な顔で言うもんだから、僕は思わず笑みをこぼしてしまった。仲宮さんは心外そうな表情を見せる。別に僕を和ませようとして冗談を言ったわけではないらしい。ゴホン、と咳払いをして笑いを引っ込めた。ちょっとずつ普段のコントロールを取り戻してきた僕。
「だから、お前がやったことが無駄だったなんて思わないでくれ。お前が頑張る姿はわたしの心をがっちりと掴んで放さない。なあ石岬、わたしの心だけじゃ不足か?」
「いえ、十分すぎるくらいです」
 ただ僕が気がかりなのは浅間のことだった。僕はこの選挙で勝っても負けても――まあ、感情的なあれこれはあるけれど、実質的な被害を受けるのは浅間なのだ。つまり今回は他人のチップで勝負をしていたわけで……まあ、何と言うか。やっぱり僕は格好悪いな。
「そういえば仲宮さん、何でこんなところに?」
「藤谷教諭がお前を探していたぞ、ということを伝えに来たんだ。学校の中にはいなかったのでここではないかと思っていた。そしたらお前が眠っていたのでしばらくこうしていたのだ」
「起こしてくださいよ」
「疲れているみたいだったからな。戦士には休息が必要だ」
 僕は上体を起こす。間接が痛かった。立ち上がって制服に着いた芝を払う。
「もう大丈夫か?」
「割と平気です」
「どうせ大した用事ではない。……ここでこのまま休んでいても構わないと思うが」
「いや、行きますよ」
 敗戦処理ってやつだな。そろそろ終わらせるときだ。あまり長引かせると次に進めなくなってしまう。
 僕は公園の芝生からアスファルトの道路に出る。車なんかほとんど通らないくせに馬鹿みたいに丁寧に舗装された道だ。後ろを振り返ると、仲宮さんは芝生に立って僕の方を見ていた。彼女に告白されたあの日のことを思い出す。



 職員室の藤谷先生は五時間目と六時間目をさぼったことを説教するよりも前に、まずは僕の選挙での健闘を褒め称えた。先生からは慰めの言葉が出るものと思っていたばかりにこれは少し意外だった。
 先生の用事は選挙結果の詳細と僕への労いの言葉、後はちょっとした書類のあれこれだけ。まあ大した用事ではない。どちらかというと儀礼的な意味合いの方が強かった。これで僕の選挙が名実共に終わったのである。
「……浅間くんのこと、残念だったわね」
「まだ他に方法はありますから」
「そうだね。まだ終わってないのね」
 藤谷先生が感慨深そうに言ったとき、職員室の中が騒然とした。体育の授業を終えたばかりなのか、ジャージを着たままの体育教師が慌てた様子で職員室の中を走り回った。何人かの先生に耳打ちする。すると先生たちは急いで職員室を出て行く。緊急事態過ぎて耳打ちがひそひそ話になっていなかった。先生たちの会話が僕の耳にも入って来た。
「何があったんです?」
「不審者です。校門のところで校長を出せと騒いでます」
「警察には?」
「まだ知らせてません。今のところただのクレーマーの可能性もありますから」
「私もすぐに行きます」
「あまり過剰な対応はやめたほうがいいと思いますけど。あの、今月の頭にうちの一年が暴力事件起こしたでしょ。そのときの被害者さんらしい」
 そのセンテンスを聞いた直後に僕はもう職員室を飛び出していた。衝動的な行動ではない。何故なら理性も僕に職員室を飛び出すように指令してきたからだ。藤谷先生も職員室から出て来た。先生の場合は校門の不審者とやらが目的ではなくて僕を追いかけて来たのだ。そして僕を止めるつもりなのか。しかし男子高校生の全力疾走を甘く見てはいけない。
 選挙明けの疲れきった体は動かすたびに鉛のように重くなっていった。水の中を走っているみたいだ。下駄箱で靴を換えるのももどかしく外に飛び出す。すでに職員の誰かが対応している。教頭先生だ。
 相手の男は、たしか浅間によると大学生らしいけど、二十歳より上は全部同じに見える僕。みんな『大人』だ。口の周りに髭を生やした野性的な男。ニット帽を被りデニムのズボンのベルトにはチェーンがいくつも下がっている。左腕にはギプスをつけているが怪我人らしいところと言えばそれくらいしかない。
 教頭先生は初老の気弱な人物だが男に気圧されているわけではないようだ。いきり立ち威嚇する男を何とかなだめようとする。今の段階ではあくまでクレーマーとして対応しているらしい。だが男は教頭先生の制止を振り切ってどんどん学校の敷地内に踏み込む。玄関の方に向かって来ていた。必然的に、僕と男は相対する。
「あ?」
 非対称の表情を作って不機嫌な声を出した。僕はそれを冷静に観察する。相手に威圧感を与えるための表情、歩き方、声。すべて作り物。まやかし。
「どけよ。邪魔だよボウズ」
「お前、浅間に殴られたやつか?」
 は? と一瞬ぽかんとしてからその言葉の意味を理解したらしい。浅間という名前に心当たりが無いとは言わせない。お前が執着していた女の名でありお前を打ちのめした男の名だからだ。
「おめ、何だ?」
「浅間の親友だよ」
「親友ならあの馬鹿の面倒見とけよ。だろ? お前、あいつの代わりにボコられてえか?」
「殴られるのはお前だ」
 僕は隙だらけの顔面に殴りかかった。衝動ではなくて理性による行動だった。僕は衝動で人を殴れるような人間じゃない。僕の衝動は笑顔を浮べてあいつのご機嫌を取るように、と告げている。そんな衝動なんて消えてしまえばいい。ただ危険から逃げるだけの人間になりたくなかった。
 僕は人を殴った経験がない。慣れない僕のパンチはずいぶんと遅かったらしい。隙だらけに見えた顔はひょいと後ろに下がるだけで僕の拳を避けてしまった。僕はバランスを失って倒れそうになる。そこに容赦なく男が踏み込んできて、僕の腹を打つ。そのたった一撃で抵抗の意思を奪われてしまった。人に殴られた経験のない僕にとってその痛みは想像を絶する。吐き気がして体が自動的に丸まる。理性は引っ込み恐怖に対する衝動だけが僕の中に残った。
 膝を突いて倒れた僕の背中に男が足を乗せる。その足の感触がたまらなく怖くて僕は目を瞑る。
「ああ? お前、何なの? これ正当防衛だよな?」
 僕の返答を待っているかのような沈黙。何か答えようとしたところで頭の側面を蹴られた。耳にヒット。キーンと左耳がなる。痛いだけじゃなくて痒い感触もあった。蹴られて頭が強烈に振られる。もう訳が分からない。周りの状況が一切分からなくなった。ただひたすら、痛い。かつて感じたことのない痛みに僕は危機感を覚える。
 足音がした。玄関を走る音。下駄箱のすのこを強く踏む足音。まるで三段跳びのように三連続。その後は足音が消えた。跳んだ、ということが僕には分かった。
「オ――」
 美潮先輩が跳んでいた。
 男がそちらを向く前から、僕は彼女が何をするのかずっと見ていた。空中で体を捻り、スカートははためき、高さよりも速さを狙った跳躍――両足で男の下顎を蹴り飛ばした。ドロップキック。
 いくら体重が乗っていたとは言え美潮先輩の体では男を一撃で倒すほどの威力は出せない。だけど女子高生が走り込んで来ていきなりドロップキックをかまされたらそりゃ呆然とするだろう。蹴られた場所を手で押さえながら、なぜか及び腰になって美潮先輩を見た。
 ずい、と男に近づく美潮先輩。気圧されて男がわずかに退いた。
「あんた、うちの生徒に手を出したら殺すわよ!」
 彼女の怒声はどこまで響いたのだろう。学校中? この町の外には届くのか? 浅間弘には、美潮先輩の叫びが届いているのだろうか。
 男の後ろに教頭先生が立っていた。
「まあ、その。先に手を出したのはうちの生徒ですし。ここはひとつ、お引取り願えませんか。いや、お父様のことは私も存じております。しかしこれ以上はお父様にもご迷惑がかかると思いますが」
 有無を言わさぬ調子で男の肩を掴むと、初老の管理職とは思えない力で男を学校の外まで引きずって行った。
 倒れたままの僕を無理やり抱き起こす。美潮先輩かと思ったら僕の後を追いかけてきた藤谷先生だった。
「石岬くん、大丈夫? 怪我はない?」
 あなたがべたべた触っている頭がとっても痛いです。
 美潮先輩の方を見ると彼女は仲宮さんみたいな無表情で立っていた。教頭先生に連れ出される男の背中をじっと見ている。と思ったら、急に力が抜けてへたり込んだ。呆然と自分の体を確認する。
「……こ、怖かった」
 美潮先輩の漏らしたその言葉は聞かなかったことにする。



 それからのことをどう説明すればいいのか分からない。実は僕にとってもあまり現実感がない。二学期が始まって選挙活動をしたおよそ一ヶ月だけが僕の人生の中で浮いている。他と繋がらない。そこだけ別の人生をコピー&ペーストしたみたいに。だから今あの時のことを思い返すと妙な気持ちになる。あの一連のイベントは番外編で、今のこの現実は一学期から続いた本当の続編なんだと。
 結論から言えば浅間の停学は取り消された。二期目を迎えた新会長美潮渚紗が職員会議で奮闘したり、藤谷先生という意外な援軍が加わって会議は大荒れしたり。だけど現実はそれだけで変わるほどルーズじゃない。一番大きかったのは被害者の男が学校に殴りこんできたあの一件だ。
 美潮先輩が漏らしていたのを盗み聞きしたのだが、あの男の父親というのが県議会員らしく、息子が被害者となった暴力事件を学校に圧力を掛けて無理やりに解決したのだ。しかしあの男が直接学校に乗り込んで来たのはさすがにやりすぎだった。あんなことがスキャンダルになれば県議にとっての大きな致命傷になるだろう。
 というわけで、その辺りの高度なやり取りの結果、哀れな浅間弘は無事にやつらの手から解放されたのである。何というご都合主義。僕たちの知らないところで教頭とあの男の父親がどのようなやりとりをしたのか、非常に興味の湧くところであるが、まあ基本的には無関係な物語だ。
 間もなくして、浅間は学校に復帰した。もちろん前と同じように生徒会の準会員としてスカウトされて。書記として当選した仲宮さんと選挙プランナーとして隠れた才能を発揮した西後先輩、ついでに僕と頼子も拾ってもらったりして。後は会計や書記としてちゃんと立候補して生徒会に入ってきた先輩が何人か。いつ美潮先輩が追い出すのかひやひやして見ていたけれど、今度は真面目に仕事の出来る人たちで一安心。
 美潮先輩は相変わらずだった。だけど僕はあのときの美潮先輩を決して忘れないだろう。仲間を守るために戦ったのは僕だけじゃなかった。僕はそれがたまらなく嬉しくて、そのことを何度か浅間に伝えようとしたのだけれど結局未遂に終わっている。こういうのは言わぬが華、という気がするし、美潮先輩はそういうことを暴露されるのを嫌がるだろうし。何よりも、心の中にある大切なものはそう簡単に口にするものじゃない。それが男だろう、とは浅間の言葉だけど。
 実は一番ヤバかったのは頼子だった。ただの風邪でニ、三日もせずに復帰するものと思っていたら結局あれから一週間は学校に来なかった。後から聞いた話だと病院へ行くと即座に入院、点滴を打たれてずっとベッドの上だったらしい。その報せを聞けばいの一番にお見舞いに駆けつけたものを、そうと知っていてあえて僕たちに伝えなかった辺りが頼子らしい。
 その他にも西後先輩と美潮先輩が大喧嘩の挙句生徒会を二分する権力闘争に発展したりして、それなりに派手なイベントはあったけれど、まあ、それはこんなところで語るべき内容じゃないだろう。つつがなしや。僕たちは元気にやっている。こんなに楽しい日々ばかりが続くと、またいつか何か重大な事件が起きて僕たちはバラバラになってしまうんじゃないかと勘繰ってしまうのだが、今のところはこの日常を存分に楽しむことにしよう。
 僕と仲宮さんは相変わらず付き合っている。あの一件で僕たちの絆はより一層深くなったような気がして、そろそろ美潮先輩にバカップルだと罵られそうな勢いだ。
 放課後、僕は生徒会の活動をさぼって一人で芝生の上に寝転んだ。相変わらず落ちてきそうな不安定な空が僕の目の前に広がっている。
 結局僕は今度の一件で一体何を成したのだろうか。浅間を救うことが出来たのは美潮先輩や藤谷先生や教頭先生その他多くの人と幸運の結果であって、僕が選挙に出たこととはまったく無関係だ。
 それでも僕はこの結果には非常に満足している。今度は他人のではなくて自分のチップで勝負をしてみるのはどうだろう、と不埒なことを考えている僕である。来年の春が楽しみだ。
 喜びを得るためには悲しまなければならない。
 その事実には大分前から気がついていた僕だったけれど、最近になって新たな事実に気がついた。
 つまり、いくら悲しくても、別に死ぬわけじゃない。誰かとの絆が壊れたとしても案外元に戻るのである。もちろん、それを誰かが望むなら、だが。僕が仲宮さんとの絆を望み、仲宮さんも僕との絆を望んでいるなら、大丈夫。僕たち二人に問題は何もない。
 だったら大きく張るのが男だろう。悲しみを恐れてチップを出し惜しみしていたのでは何も手に入らない。チップを失ってもどうせすぐに帰ってくる。派手に賭けてチップを使って、たくさん稼いでやればいい。
 もう季節は本格的に秋に変わる頃だ。公園の木はそろそろ枯葉に変わり始めている。そういえば仲宮さんとは落ち葉狩りに行く約束をしていた。冬になればスキーにも行きたい。と言っても一度も滑ったことのない僕だけど。
 僕は仲宮さんの足音に気付かない振りをして目を瞑った。
 もうしばらく彼女の無防備な足音を聴いていたかった。芝生を踏む音。徐々に近づく。彼女は僕に何と声を掛けるだろうか。あるいは黙ってキスしてくれるかもしれない。僕は心の中でチップを賭ける。さて、どうなる。
 仲宮さんの気配が、僕のすぐ隣まで来ていた。


《 僕たちの問題 / No time for regret. 》

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