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4.僕の失敗

 七月に入ると学生にとってはもっとも重大な、あるいは嫌悪するイベントが待っている。期末試験である。
「む……嫌な季節だな」
「問題が解けないのを季節のせいにされてもねえ」
 仲宮さんのぼやきに美潮先輩が返す。学校のすべての生徒に平等に訪れる災厄。それは学校で一番強大な権力を持っている美潮先輩も例外じゃない。けれど仲宮さんと比べればずいぶんと嫌悪のレベルが低そうだ。美潮先輩は文武両道を地で行く学校一の優等生なのだ。
 仲宮さんはこの暑さにも関わらず制服を崩さず、凛とした雰囲気をまとっている。けれど期末試験に対しては随分と頼りない。すべての人間に文と武を与えるほど神様は平等じゃないということだった。まあ仲宮さんは武の方が突出しているから十分だと思うけど。僕は両方もらえなかったから。神様は不公平だ。
 そろそろ暑さで生徒会室の不快指数が僕の許容範囲を越えそうなくらいだけど、それでも生徒会メンバーは毎日この部屋に集まってくる。窓は全開、でも無風。西後先輩が持ち込んだ扇風機がなければ僕はとうの昔に失礼していたころだ。
「わたしは大丈夫だけど、あなたたちはどうなの? 勉強した方がいいんじゃないの?」
「勉強会でもしませうよ。恋十郎の家で」
 なぜ僕の家。
「テスト前だからと言って突然勉学に励むのはみっともないぞ。普段から有事に備えて鍛錬を怠らないのが男だろう」
 理想論を唱える浅間。だがしかしそれを実行できているのはこの五人のうち美潮先輩だけみたいだ。仲宮さんもまったく勉強をしていないわけではないみたいだけど、まあ、人間には向き不向きがあるわけで。
「ちなみに俺は勉強しない。なぜなら普段から勉強していないからな。テスト前だからと言って慌てて勉強するのは男じゃない」
 いや勉強しろよ。
 僕は暑さで床の上にくたばっていた。同様にくたばっている男がいた。西後武である。彼は自ら持ち込んだ私物の扇風機の前を独占して、それでも熱さが臨界点を超えたのか死体のように仰向けになって倒れている。
「でも一番心配なのはゆうね……。あなた、今回も赤点だとまずいんじゃないの?」
「実を言えばすでにまずい状況にいる」
「駄目じゃない」
「うん。……どうしよう」
「勉強しなさい」
「でもね渚紗、そうも言ってられないんだ」
「どうして」
「有り体に言えば、勉強したくない」
 ベチンとしょっぱい音を立てて美潮先輩が仲宮さんをはたいた。もしかしたらあれが二人の間で交わされる突っ込みなのかもしれない。その証拠に仲宮さんは叩かれたことを気にも留めずに話を続ける。
「そもそも勉強しても大した効果が上がらないんだ。あれだけ苦しい思いをしてあの程度の効果ならばやらない方がマシだ。対費用効果を考えているんだわたしは」
「どんどん言い訳がましくなってるぞ……」
 うつ伏せの状態で西後先輩。
「何ならオレが教えてやってもいい。いや、その前に美潮に教えてもらえよ。学年六位なんだから」
「悪いけどわたしはパス。もう手遅れだから」
「渚紗に見放された……」
「いや、みなさんめちゃくちゃ言ってますけど、そりゃいくらなんでも冗談が過ぎるでしょう。逆に嘘臭いですよそこまで言うと」
 美潮先輩が僕の方をじっと見た。僕はいたたまれなくなって目を逸らしたくなった。でもここで逸らしたら負けだ、と僕は見つめ返した。いや、美潮先輩は僕のことを見つめてるというよりは睨んでるんだろう。そのことに気がつかない僕じゃない。僕は馬鹿じゃない。
「そういえばせっかく頭の良い彼氏がいるんだから教えてもらいなさいよ。やさしく手取り足取り教えてくれるわよ。勉強以外のことも色々、ね」
 いやらしく笑って美潮先輩。どうやら目を逸らさない方が負けだったらしい。僕は馬鹿か。
「……そうだな。石岬、勉強を教えてくれ」
「あ、いや、僕は一年生なんですが……」
「構わん。一年の範囲も分からないからな」
 胸を張って言われたが、ここはちゃんと突っ込んでおくべきところだろうか。
「それに勉強以外のことも教えて欲しいしな」 
 ぶほっ、と僕は空気以外の何かを口から吹き出した。えーと、これは魂だろうか。いわゆるエクトプラズム? まあ実際に吹き出したのは空気以外の何物でもないんだけど。つまりその、僕の受けた衝撃を比喩的に表すものとしての魂。
「わたしはもっと石岬の事が知りたい。よく考えてみればわたしはお前の住所すら知らないしな」
「勉強以外のことってそういうことですか」
 まあ仲宮さんならこのレベルだろう。もしかしたら子供はコウノトリが運んでくると未だに思っていそうだ、というのはさすがに馬鹿にしすぎているか。
「感心だな。勉学というものの本来は議論をぶつけ合うことにある。立派な学者になれ」
「浅間は何をずれたこと言ってるんだ……?」
「うむ……暑いからな……正直言って俺は熱に負けそうだ。男なのに」
「ゆーん。浅間くんって頑丈そうに見えるけど結構脆いんだねー。恋十郎は脆そうに見えてその実本当に脆いけど。その脆さ、まるで湯豆腐」
「お前は暑さに強そうだな」
「そうだよん。女の子は強いのだ」
 もうすでに頭が茹で上がってるからな。多少気温が変わっても変わらないんだろうな。心の中で毒を吐いても実際に毒を吐く気にはなれない。もしそんなことをしたら頼子に壮絶なる絡まれ方をされるのは必死だった。物理的に絡まれるのを何としてでも避けたい。
 でも半袖の頼子はかわいいなぁ……と邪なことを考える罪深い僕。さすがに完全に暑さと無関係というわけにはいかないのか、額に汗で濡れた髪がわずかに張り付いている。頬も心なしか火照っているようだ。うむ、色っぽい。
 それに関しては美潮先輩も同じ。美潮先輩は暑さを積極的に楽しんでいるようで、扇風機の風や窓からかすかに入るそよ風だけで十分に満足しているみたいだった。やはり汗で張り付いた白い制服が僕のツボだった。女の子は汗をかいてもあまり暑苦しくないのがいいなぁ。
 浅間は汗が出ていないのが逆に暑さを煽っているらしく、少し顔色がよろしくない。よろしくないのは顔色だけではなくて思考回路にも異常をきたしているみたいだった。まあ単に暑くて考えるのが億劫なだけだろう。西後先輩は全身びっしょり。クールな人物という僕の第一印象を裏切ってかなりの汗っかきらしい。伏している床の上に汗の水溜りが出来そうだ。それは少しオーバーだけど。
 六人の中で唯一変化のないのが仲宮さん。季節感ゼロで居合いの達人のように正座している。そこだけ温度が二度も三度も低そうだ。だが実際に近づいて触ってみてそれが錯覚であることは実証済み(触ったことに他意はない。単に科学的な好奇心を満たすためである。言い訳がましい僕)。もしかして暑さを克服するための修行か何かを積んでいるのだろうか。そこまでいくと武士というよりも忍者の側に近づいていくけど。
 とある日の生徒会室でこんなやり取りがあったもんだから、次の土曜日、テストを目前に控えた最後の休日に本当に仲宮さんと勉強することになってしまったのだ。僕としてはてっきり暑さにかまけて適当なことを口走るいつものやつだと思っていたのだが(宇宙人を捕まえに行こうとか、学校指定の制服を浴衣みたいなのにしようとか、太平洋に油田を掘って国民栄誉賞を狙おうとか)、どうやらあまりの暑さに冗談を感知する機能が破壊されてしまったらしい。
 仲宮さんとのデートの定番として(と言っても彼女とのデートは図書館と映画館とでのべ三回だけだが)待ち合わせ場所は駅の噴水前。別に仲宮さんが噴水フェチというわけではなく、単に僕の家と仲宮さんの家の中間地点にある目立つ建物が駅と市庁舎しかないからである。まさか市庁舎で高校生がデートの待ち合わせをするわけにはいかないし。休日も真面目に働いていらっしゃる公務員の方々に申しわけが立たない。いや、休日も働いているのかどうかは知らないけど。美潮先輩によると平日も働いていない公務員が霞ヶ関のあたりにたくさんいるらしいけど、それは今日という日には何も関係がない。
 いつも通り待ち合わせの五分前に到着した僕といつも通りすでに待っていた仲宮さん。白いワンピースに麦藁帽子、四角の手提げ鞄。正直言ってワンピースは仲宮さんのキャラじゃなかったけれど、そのミスマッチが僕にはツボだった。多分彼女が何を着たところで僕のツボだろうけど。
 テストとは無関係に夏真っ盛りの日本の日差しは家から駅までの道のりで僕の体力を大きく奪っていた。大した距離を歩いたわけでもないのに僕の肌から汗が止まらない。この強烈な太陽光線を浴びて平気な顔をしている仲宮さんがうらやましい。
「実は今日は楽しみにしていたんだ」
「僕の家ですか?」
「ああ。両親にご挨拶をしたい」
「両親はいません」
「……そうか。それはすまないことを聞いた」
「え? あ、いや、そういう意味じゃなくて、在宅していないという意味の『いません』」
「まぎらわしいぞ。謝って損をしたじゃないか」
「すみません……」
「ということは、あれか」急に声を小さくしてつぶやくように仲宮さん。「石岬の家に二人きり……」
「残念ですが弟が二人、家にいますよ」
「三人兄弟の長男なのか」
「恋十郎は四人兄弟だよー。仁一じんいちお兄さんは今ハワイの大学に留学中」
「のわっ!?」
 ここでは聞きたくない声が背後から聞こえて、僕は思いっきり前にステップを踏んで声をあげる。土曜昼の駅前通りは人通りも決して少なくはないが、そのほとんど誰も僕の方を見ようとはしなかった。僕が声を上げた一瞬だけちらと視線を送っただけだ。なるほど、これが現代人か。大衆社会か。
 などと僕が現実逃避をしている間に仲宮さんの方が先に正常なリアクションを返した。その、僕たち二人の背後にいた利川頼子に。
「頼子……なぜここにいる」
「うーんとですね、これには海よりも浅く山よりも低い理由が」
「薄っぺらな理由だな」
「ええ。割とフラットです」意味不明に返す頼子。「駅前でCDショップと同人誌めぐりをしていたら二人の姿を見かけて、ああそういえばこの間生徒会室で勉強の話をしていたな、よしそれなら私も手伝ってあげようとついてきた次第であります」
「なるほど。つまりお前がわたしと石岬の勉強を看る、と」
「左様でございます」
「お前帰れよ……」
 僕が黒くてどろりとした突っ込みを入れると頼子は僕の方を向いて舌を出した。一瞬僕はそれが何を意味するサインなのか分からなかった。すでに一瞬が経った今も分からない。そのジェスチャ、お前、いつの時代の人だよ。
「とにかくお前は帰れ。いや、帰らなくていい。僕の家に来るな」
「ええぇぇぇ。冷たい」
「元からこうだよ、僕は」
「学年五位の実力できみたちの勉強を教えてあげようという優しい心遣いがどうして分からないのかね」
「それは……」
 正直それはかなりうまみのある話ではあるけど……。
 仲宮さんが体を寄せて僕に耳打ちした。ちょっとくすぐったい。
「少しくらいはいいんじゃないか?」
「え、いいんですか?」
「お前の成績には代えられん。それにわたしも教えてもらいたいしな」
 あんた本気で後輩に教わるつもりか。
 ただでさえ流されやすい僕は仲宮さんという最後の砦が崩れたことであっさりと頼子に押し切られてしまった。というわけで本日、史上初めて仲宮ゆうと利川頼子が僕の家にやって来ます。それにどんな意味があるかはともかく、記念すべき日であることには間違いないだろう。
 駅から徒歩でおよそ十分、大通りを下って商店街を越え二本目の橋を越えて通りから奥に入れば僕の家がある。祖父が頑張って稼いでくれたおかげで夢の一戸建て、悪夢のローン地獄の我が家だ。自慢と言えば郵便ポストが近いくらいしかない一般的な一戸建て。祖父の代で建てた家なのでそろそろガタがきてもおかしくない。我が家にはそれを修理するだけの財政的余裕があるのだろうか?
「ここが僕の家です」
「そうか……」
 仲宮さんは深刻そうにうなずいて、小さく深呼吸をした。目が一段と鋭くなる。第三者が見ればこれから強盗に入ろうと覚悟しているようにも見える。ちょっとあなた、緊張しすぎですよ。
「ふーん、思った以上に普通だねー」
 後頭部で手を組んで頼子はがっかりした調子で感想を述べる。心外だが面白がられるよりは百倍くらいマシだと思った。
「でもなんかボロいね」
「言うな! 僕はこの家に住んでるんだぞ! 僕だけじゃなくて僕の家族も住んでるんだぞ!」
「ご、ごめんなさい……」
 ちょっと失言があったりしたけど、基本的に僕たちは元気です。
 とりあえず二人を僕の部屋(でいいんだよな?)に案内しエアコンをかけ、父は仕事母も仕事、祖父は祖母と旅行中、家に残った二人の弟に僕の部屋を覗かないように固く言い含めてからお盆に三人分の緑茶と和菓子を載せて部屋に戻った。正直言って僕は自分の家に人を招いたことがないのでまったく勝手が分からない。同級生を家に招いて茶菓子をご馳走するのは間違っていない……よね?
 戻ると頼子が僕の部屋を物色している最中だった。
「……………………………………」
「い、石岬。わたしは止めたんだが――」
「わ。じ、冗談だよ〜。なーんちゃって、てへ! あ、いや、そんな怒んないで、え、そのお茶どうす――あち、あちちち! や、やめっ! 熱い! かけないでっ!」
 さて、お仕置きもすんだところで早速勉強開始だ。
 と思ったら頼子は勉強道具一切を持ってきていない。まあ当たり前か。普段から勉強道具一式を持ち歩いている人がいたらそれはそれで怖い。
 僕が頼子のためのノートを用意しようとすると、
「うんにー、必要ないよん。だって私、勉強する必要ないし」
「その心は」
「だってちゃんと授業聞いてたから」
 授業を聞いてるだけで期末試験をパスできるというのは幻想だと思っていた……。
「だって恋十郎、授業中はずーっと静止してるじゃん。ノートは取ってるみたいだけど、もうちょっと先生の話を聞いた方がいいよ」
「優等生みたいなことを言いやがる」
「ほら、私、優等生」
「わたしは授業を聞いているがさっぱり分からないぞ」
「はいはい、仲宮先輩には私がちゃんと教えますよ〜」
 子供をあやすみたいに頼子が仲宮さんに言う。仲宮さんはまんざらでもなさそうだった。……やっぱり美潮先輩に見捨てられたのかな。
 友達と勉強をする常として、と言っても僕には参照できるような過去のデータの持ち合わせがないのでこれは完全に人から伝え聞いたデータだが、まともに勉強をしていたのは開始二十分だけで後はお喋りを交えた勉強なのか休憩なのか分からない奇妙な時間が開始されたのであった。
「利川、数学のここの問題を教えてくれ」
「さすがに微分は専門外ですねー。ああ、なんだ、定義が載ってるじゃないですか。ふむ、ふむ、なるほど。つまりこれはグラフの傾きの方程式になるんですよ」
「も、もう少し分かりやすく……」
「恋十郎、部屋にエロい雑誌とかは隠してないの?」
「残念ながら持っていない」
「わー、ムッツリだ。あ、つまりですね、普通の方程式から傾きを出すときって、その点その点で個別に出さなきゃいけないじゃないですか。例えばこのグラフだと、xがどんな値をとるかで傾きも変わる」
「も、もう少し分かりやすく……」
「そういえば弟さんに挨拶してなかったね。今からしてくるよ」
「それだけはやめてくれ。夕食のときにからかわれる」
「いいじゃん。彼女と愛人だよ。両手に花だよ」
「片方の花に毒がある気がしてならない」
「ちょっとくらい毒がある方が人生は刺激的なんだにゃ。……だから仲宮さん、例えばこの微分した方程式に実際に値を入れてみると――」
 僕としては頼子が仲宮さんに勉強を教えているという図が面白すぎてテスト勉強どころじゃなかった。本当なら彼氏の僕が責任を持って仲宮さんに勉強を教えるべきなんだろうけれどさすがに二年生の勉強は分からない。教科書を一読しただけで仲宮さんに解説している頼子が異常なだけだ。さすがに優等生である。いや、優等生というよりは、その。ああ、この言葉をあいつに使うのは癪だ。ええと、天賦の才がある、とだけ言っておこう。
 一方天賦の才のない僕は数学も古文も化学も世界史も分からないこと、覚えていないことだらけで正直もう辟易、すでに投げ出して雑談する方向に向かっていた。ちなみに英語に関しては最初から投げ出している。あんなの覚えたって役に立たねーじゃんか! は負け犬の決まり文句だけど。
 仲宮さんについては美潮先輩にあらかじめ忠告されていて覚悟はしていたけど、なるほど、理解が悪い。普段の日常会話であれほど利発だった仲宮さんが勉強となると途端に愚鈍になる様はまるで呪いである。何度も何度も同じ説明をどんどん簡略化して教え続ける頼子もそろそろ忍耐力の限界が近づいてきているみたいだ。仲宮さんの『も、もう少し分かりやすく……』が出る度に頼子の表情が絶望へと変わっていくのが明らかだった。
「仲宮先輩、もしかして相当――」
「相当、何だ」
 仲宮さんの三白眼が頼子を射抜く。本人は特に凄んでいるつもりはないのだろうけれど、仲宮さんが正面きって問い詰めるとそれだけで尋問されている気分になる。整いすぎている顔と切れ長の目は人を怯えさせるのに十分すぎる。
「頭悪い人ですか?」
 だけど頼子にはそういう感性が欠落しているらしい。こいつは恐怖を感じたことがないのだろうか。しばらく、と言っても仲宮さんが答えるほんのコンマ数秒の間、何故か僕の方がいたたまれないような気分になって心臓がわしづかみにされたように痛い。くそっ、僕は弱い人間だ。
 仲宮さんは恥じるようにうつむいて、
「うん……自分でもたまにそう思うことがある……まったく面目ない」
「でも仲宮さん、漢文を原文のまま読んだりするじゃないですか。頭が悪いってことでもないと思うんですけど。理数系が苦手なんですか?」
「理数系と英語と世界史と美術と音楽が苦手だ」
「オールマイティに苦手ですね」
「体育と古文漢文はそれなりにいけるんだが……」
「もちろん仲宮先輩は剣道ですよね? ね? ね?」
「わたしに剣道の経験はないぞ。少林寺拳法は何年かやっていたが」
 頼子ががっくりと肩を落とした。自分の偏見が破られたことがショックだったのか。まあ気持ちは分からんでもない。
「そういえば頼子も習い事してたな。何だったっけ」
「油絵だよー。三年くらいで辞めちゃったけど」
「なして。続ければよかったのに」
「油がべたべたくっつくのが嫌だったのだ。クラスの男子にからかわれたりしたからね。薬品くさいって」
「なのに三年も続けたのか」
「三年目にそれを言われたんだよ」
「そうなんだ。僕はその男子の気持ちが分からんな。油絵の具の匂いって好きだよ」
「あんた、あんた」
 頼子が僕を指差した。ちょっと考えてから僕は思い出した。
「……もしかして、僕が言ったのか」
「そうだったのだ」
「うーん、おかしいなぁ。油絵の具の匂いって嫌いじゃないのになぁ」
「お前さんお前さん、ちと適当なことを言い過ぎでないかね。恋十郎がくさいだの火をつけたら燃えるだのさんざん言うから私、絵の教室やめたのに、なんだよー」
「ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだ。僕は絵の具の匂いが嫌いなんじゃなくて頼子が嫌いだったんだよ」
「そりゃなんのフォローにもなってないぞとりゃー!」
「うっせえ僕が被ってきた迷惑に比べればあちょー!」
「二人とも、少しうるさいぞ」
 仲宮さんからたしなめられて、僕らは大人しく正座した。仲宮さんは不機嫌そうな顔で、と言ってもいつもの無表情なのでこれは僕の勝手な推測だけど、数学の問題集と格闘しているようだった。ノートを見ると走り書きの数式がずらずらと並んでいて、その上に大きくバツが書いてある。どうやらその数式には重大な欠陥があったらしい。
「お前たち、ずっと一緒にいたんだな」
「えへへ。大親友ってやつですです」
「嘘吐け。僕は利川頼子が嫌で嫌で……」
「冷たいじゃん」
「自分を顧みるんだ。少しは媚びろ。そしてたまには退いて道を譲れ」
「何度も譲ってるっぴ」
「そもさん、具体例を述べよ」
「それって使い方違くない? えーと、小学校六年のときに嘔吐した恋十郎を介抱してあげた」
「そもそも僕が吐いたのはお前が僕に牛乳を四パックも飲ませるからだろう」
「あとねー、中学一年のときに窓ガラスを割った恋十郎を先生から庇ってあげた」
「そもそも割ったのは僕じゃない、お前だ。そしてそれを僕になすりつけたのもお前だ」
「んとねー、中学二年の体育祭で――」
「ストップ! それは言うな! ていうか忘れてくださいっ! ああぁぁぁ……っ」
「むふふふ。あの件がある限りきみは私には逆らえなのであった。完」
「終わらせないでくれ。僕の物語はまだまだこれからだ」
「十週打ち切りみたいだねー」
「その心は」
「志半ばで倒れる。お後がよろしいようで」
「どこがだよ。後味最悪じゃねえか。バッドエンドだよ」
「そういえば中学三年のときの担当だった古林先生、結婚するってさ」
「ああ、そういえば母さんが何か言ってた気がする」
「なしてお母様が?」
「えーと、うちの母さんが古林先生のお姉さんと同級生なんだよ」
「ふへー。ちなみに私はメールで先生から直接聞いたよ」
「まだ連絡取り合ってるのか。相変わらず交友範囲が謎だな」
「友達いない人よりマシですわ、おほほほ」
「あと、古林先生といえば道徳の時間に――」
 僕の話そうとしていた内容はバンという炸裂音によってすべて吹き飛んでしまった。人間の頭を吹き飛ばすにはそれなりの道具が必要だけれど頭の中身を吹き飛ばすのはたいして難しい話じゃない。例えば両手を広げてそれを机の上に振り下ろす。バン。それだけで大抵の人間は何事かとそちらを見るし、突然の大きな音でそれまでの思考内容は吹き飛ぶか、そうでなくても停止くらいはするだろう。仲宮さんはその手段を実行し、僕の思考を吹き飛ばすことに成功したのだ。やったね、仲宮さん。
 自分の部屋の中だというのにどうしてこんなに居心地が悪いのだろう。僕と頼子は両手の平を未だに机の上に置きっぱなしの仲宮さんをじっと見た。そんな行動をした仲宮さんには何かしらの意図があるだろうという当然の推測だった。あまりにもうるさくしすぎたので堪忍袋の緒が切れたのだろうか、これから二人とも仲良く説教されるのだろうか――と様々な思惑が駆け巡った。
 だけど仲宮さんは、自分でそんなことをしておきながら、戸惑ったみたいに僕らの顔に交互に視線を送って、何か言おうとしているのは分かるけれど声が出ない。
「あ、あの……」
 その続きが出てこない。普段はあんなに凛としていた仲宮さんが怯えたように、まるで僕らの顔をうかがうみたいに。取り返しのつかない失態をしてしまったみたいに。色々とその表情を表現することが出来るだろうけど、一番しっくり来る表現は『混乱しているみたいに』。
「……すまん。……わたしはこれで帰る」
 幽霊のひとりごとみたいに言い残して、仲宮さんは僕の部屋を出て行った。飛び出したのではなく音を立てずにひっそりと消えるみたいに退室する。本当に幽霊じゃないか。もぬけの殻の仲宮さん。僕が案内する隙を与えずに勝手に玄関から出て行く。僕は後を追いかけようとしたけれど、目の前で玄関の戸が閉められるのを見てその気を殺がれた。追いかけて何を言えというのか。仲宮さんと同じくらい僕も混乱していたんだろう。
 部屋に戻ると頼子がふんぞり返っていた。頼子が混乱したり迷ったり何かに怯えたところは見た事がない。よく言えば安心立命、悪く言えば非人間的だった。
「あーあ、やっちゃったね」
 他人事みたいに頼子が言った。事実、彼女にとって僕らのことは他人事だった。他人のことを他人事だと割り切れる人間のいかに少ないことか。僕もその辺りの割り切りが下手で、過去に何度か他人の厄介事に首を突っ込んで痛い目を見たことがある。例えば中学時代、見ず知らずの女生徒を不良の手から救おうとしたり。頼子はそんなヘマはしなかった。僕のことなんて他人事。仲宮さんのことなんて他人事。こいつにとって他人じゃない人間がこの世にいるんだろうか、とふと思う。
「怒らせちゃった。恋十郎には仲宮先輩の怒りの原因が分かるのかな」
「……お前には関係ないだろ」
「あらら、八つ当たり? そいつは良くないねえ、恋人と喧嘩したからってその怒りを親友に向けちゃいけないよ」
「僕ときみは親友じゃない」
「私は――」頼子が真っ直ぐと僕の方を見て、透き通った声で「恋十郎のこと、親友だと思ってるよ」
 ぞくりと心を振るわせる声だった。真っ直ぐな視線。僕が初めて見る頼子の『真剣』だった。今までどんなことがあってもここまで真剣な表情は見せなかったのに。
 僕の心の中はますますかき乱されて様々な感情が暴風のごとく吹き荒れていた。その感情のどれを選べばいいのか僕には分からなくて、自分が怒っているのか悲しんでいるのか喜んでいるのか楽しんでいるのか泣いているのか笑っているのか諦めているのかそれとも何も感じていないのか、よく分からなくなってしまった。
「うん、私はいつでも恋十郎の味方だよ。それが親友ってやつだからね。私は恋十郎の恋人にはなれないけど親友だよ。仲宮先輩はただの先輩だけど恋十郎は私の一番の親友だよ」
 囁くみたいな声だった。
「親友だから私は恋十郎のそばにいるよ。トモダチだから、仲良く遊んだりもするし、からかったりからかわれたり、たまに喧嘩するけどすぐに仲直りするし。でも思うんだけど……恋人とか親友とか、人が人を想うことをどうして区別するんだろうね」
 頼子は無茶苦茶なことを言っていた。理屈が通っていない。矛盾している。僕への嫌過ぎる置き土産、頼子は立ち上がって「じゃあ、今日は帰るね」と今度は僕にも分かる言葉で言ってから部屋を出て行った。仲宮さんと同じルートで玄関へ向かい、家から出て行く。頼子も僕の見送りは不要だったみたい。どいつもこいつも勝手に人の家の中を歩きやがって、くそっ。
 僕は一人で部屋に取り残された。エアコンは効いているはずなのに汗が止まらない。ただ水分が欲しくて、僕は自分の湯のみを一気に呷った。空気みたいにぬるい緑茶が、僕の喉を通り過ぎた。
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