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1.彼女の告白

 僕が思うに人間は大きく分けて三種類いる。ひとつめは支配する人間。ふたつめは支配される人間だ。人間は自覚の有無に関わらず様々なルールに縛られている。そのルールに気付き、自らルールを作ってしまう人間のことを、僕たちは『支配者』と呼んでいるのだ。一度何かに支配されてしまうとそれを跳ね返すことは簡単じゃない。
 もっとも顕著な例が生まれつきの家柄とか教育というやつで、大富豪の家に生まれた子供は幼稚園のうちから英才教育を受けて学校のエリートになり、高校卒業後に有名大学に入りコネを使って政財界の役職に就き支配者になることが確定する。
 一方僕のような平々凡々、暴力も知力も権力も財力も体力気力精神力に欠けるような男は典型的に支配される者――つまりただの雑魚だ。昔っから運動は苦手でとうとう逆上がりが出来なかったし、音痴と併せて幼稚園のお遊戯会は散々だった記憶がある。まあお遊戯が得意だったお友達の程度も高が知れていたのでそれほど駄目さは目立たなかったが、もし現在、つまり高校の授業であのお遊戯会のようなことをしなければならないとしたら非常にまずいことになる。体育の授業で逆上がりをさせられる場合もまずい。僕が運動を苦手としていることや歌が下手なのはもう周知の事実であるとは言え、改めてそのことをクラスメイトの前で暴露してしまうのは非常によろしくない。そんなことをしてしまえば僕はますます『誰か』から支配されて抜け出せなくなってしまう。
 そう、僕は支配から抜け出したいのだ。
 そして逆に支配してやるのだ。僕が作った適当でいい加減なルールを万人がありがたがって遵守する姿を想像しただけで笑いがこみ上げてくる。嘘だ。別にそこまで愉快な想像でもない。ていうか想像しているだけで笑みがこぼれることってそんなにない気がする。特に今は高校の校舎の一階、一年二組の教室で数学の授業を受けている最中なので、僕がここで突然ニヤニヤと笑みを浮べたりすると非常にまずい。支配からの脱出がよりいっそう困難になるだけではなくて逆に支配されるどころか拘束監禁そして治療されてしまうかもしれない。
 ちなみにさっきの話――人間の種類のみっつめは、支配しているわけでもなく支配されているわけでもない、グレーゾーンにいる人間のことだ。世の中は黒と白だけじゃない。むしろグレーゾーンの方が多いくらいだけど、このことに限ってはグレーゾーンの人間というのはめったに見た事がない。もしかしたらもう絶滅しているのかもしれないし、そういう人間は文明社会との関わりを絶って山奥にでも暮らしているのかもしれない。仙人みたいに。
 逆に言えば、文明社会の中で生きて他人と関わり続ける以上支配したりされたりという関係性はどうしても生まれてくるものなのかもしれない。文明考察だ。ていうか数学の時間だってのに僕はこんなことを考えていていいのだろうか。中学のときは数学は得意だった。それなのに高校の数学はさっぱり分からない。僕の能力が低下しているのか先生の教え方が悪いのか受験が終わって僕が勉強をさぼっているかのどれかが原因だろう。これ以上の追求は不毛なので授業に戻ることにする。
 入学してから三ヶ月――。
 振り返らずとも分かるが僕の中学時代はあまりぱっとしなかった。極端に誰かから苛められることはなかったけれど極端に誰かから好かれたり妙な事件に巻き込まれたり宇宙人や超能力者の戦いに巻き込まれることもなかった。
 そんな無色の支配されるだけの日常が嫌で、中学時代の僕はかなり気合を入れて勉強をしていた。少しでも良い高校に入ってこの無色の支配から抜け出すためだった。『無色の支配』って言葉、なんか格好良いな。どうでもいいけど。本当に。
 だけど、高校一年生の僕は中学三年生の僕と何も変わっていなかった。相変わらず外面だけは良くて、友達はあんまりいないし、勉強はそれなりにできるけど、でも僕よりすごい能力を持った人なんて山のようにいるし、何か熱中できることがあるわけでもなく、かと言って世捨て人になれるほど世間に絶望しているわけでもない。
 中途半端だ。とっても中途半端……。
 先生が名簿を見ながら適当に生徒を当てる。まだ生徒の名前を完全に覚えていないのだ。無理もない。僕だって覚えていないし覚える気がない。
 教科書の問題を解かせる生徒を次々と当てていく。僕のすぐ近くの生徒が当たったので僕は僅かに緊張する。だけどこんなくだらないことにいちいち緊張してどきどきしている自分はなんて情けないんだろう、とすぐに気がつく。こんなところでさっそく見つけてしまった。とりあえず僕は数学教師の名簿に支配されているらしい。
 チャイムが鳴って授業は終わり。最低なことにあの数学教師は宿題を言いつけてきた。提出期限は明日。しかしよく考えてみればあの先生が僕の行動を本当の意味で縛っているわけではない。例えば僕が明日宿題を提出しなかったらどうなるだろうか。あの数学教師は怒り狂って僕を廊下に立たせるだろうか。あるいは何も言わずに僕の成績を大幅にマイナスするだろうか。
 しかしどちらにしろ僕は数学教師の命令を無視してその場に立っていることができるわけで、つまり僕は宿題をやらない自由に関しては完全に手中に収めていることになる。宿題を出さなかったことによるリスクなんて高が知れているし、つまりは気の持ちよう、精神の問題、心の問題なのだ。
「まあそんなことを言いつつ僕は宿題を出すだろうけど……」
 誰かの支配から解放されるには強い心が必要だ。いや心だけではだめかもしれない。数学教師と僕の成績を賭けて渡り合えるだけの人脈、カリスマ、地位、そういうものが必要だ。今のところ僕にはない物ばかりだけど。
「おーい恋十郎れんじゅうろう、宿題教えてあげよーか?」
 馴れ馴れしく僕の名前を呼びながら僕の背中に抱きつく女がいた。二時間目の数学の授業が終わったばかりの休み時間、教室にはまだたくさんの人間がいる中でこういうことをするのはやめてほしい。万が一にも、この女と付き合っている、なんて噂が流れるのは身の毛がよだつし、ますます僕が誰かに支配される要因になる。とは言いつつも女の子との貴重なスキンシップはこれでも一応思春期のオトコノコである僕にとってはとっても嬉しいことなのだが。
 しかし問題なのはこの女、利川とがわ 頼子よりこは僕を異性としてまるで意識していないというか、それ以前に僕を一人の人間とすらも思っていない傾向がある。
 ボブカットでスレンダーな(貧相な体形、を当たり障りのない言葉で表現)小柄の美少女、しかもクラス委員でニックネームが『いいんちょ』の女の子に抱きつかれるのは僕の人生の中でも間違いなくトップ10に入るくらい興奮する出来事なのだが、これが日常的に、しかも向こうは僕に完全に気がないとなると、これは餌を与えられているのではなくて、檻の向こうから上等な肉の匂いだけを送られている状態に喩えることができる。
 つまり、生殺し。
 だから僕は利川が嫌いだった。もし利川が僕のことを好きになってくれたら……と妄想したことがないと言えば真実で、単に僕のことが好きでないのなら近づかないで欲しいと思うぐらいだ。つまり彼女はその程度の存在だった。
「なんだよ利川。別に宿題くらい自分でやるよ」
「あーいいのかなー恋十郎。どうせ明日の朝になったら見せてよ頼子ちゃーんとか言って泣き付くんだから」
「泣きつかねえよ」
 利川頼子は僕が幼稚園児だったときから僕のことを知っている女だ。つまり幼なじみというやつだ。だけど残念なことに僕は彼女の記憶がまったくない。中学二年に同じクラスの隣の席になったところで彼女の存在を初めて知ったというところだ。
「おーい石岬いしさき恋十郎くん」
「何だよ利川頼子」
「きみは彼女というのがいるのかね?」
 いねえよ大きなお世話だよだったらお前が俺と付き合えよむしろ付き合ってください。
「まあ恋十郎は猫かぶりだから付き合ってもすぐに幻滅されて振られちゃうだろうけどねー」
「別に猫なんて被ってないよ」
「嘘つき。被ってるじゃん。にゃーにゃー」
「はいはい。にゃー」
「にゃにゃ? ニャーッ!」
 猫に擬態した利川に顔を引っ掛かれた。どないせいっちゅうんじゃ。利川はこんな感じで僕に理不尽な暴力を振るう。これは精神的なものも肉体的なものも含む。実は利川は僕のことが好きでその感情の裏返しで僕をからかって遊んでいる、というのなら僕もいじめられる甲斐があるというものだけれど、残念ながら利川頼子さんは完全に脈ナシで逆転ホームランの可能性はない。
 ……もちろんこれは理論と実践による結論で。あのときのことは今思い出しても赤面モノだ。ああ、勘違い。恥ずかしや、恥ずかしや。
「きみはそれほど顔も悪くないし気遣いもできる。頭は割と悪いけど。もうちょっと他人に積極的になれば彼女のひとりやふたり――」
「ふたりもいらないって」
「そだね。恋十郎に二股するだけの甲斐性があるとは思えないし。にゃー」
「にゃー。っとと、やめろ、引っ掻くな。大体僕に彼女ができないのはお前にも責任の一端があるんだぞ」
「なにさ、人のせいにしないでよ。にゃん」
「にゃー。お前がこうして僕に過剰なスキンシップをするからだ。おかげで他の女が寄り付かん」
「違うにゃ、それは逆なんだにゃ。恋十郎の女日照が激しそうだからこうしてボランティアでスキンシップしてあげてるんだよ。もし私が恋十郎から離れちゃったらあんた、本格的に女の子と接する機会なんてなくなっちゃうぜ」
「なるほど、お前が僕にいわれのない暴力を振るうのも僕の女日照を配慮してのことなのか」
「そうだにゃ」
 大きなお世話だ。
 にゃんにゃんと僕にじゃれつく利川をひっぺがして廊下に出る。一応あいつも冗談の域をわきまえているのか僕が本気で嫌がっているときはそれ以上踏み込んでこない。例えば僕が教室から廊下に出てきた今もあいつは教室を出て僕を追いかけて来たりはしない。あくまで教室限定でのスキンシップ。あいつの家は僕の家のすぐ近くらしいが僕の家に押しかけられたこともあいつの家に拉致されたこともない。
 はあ、と窓の外を見ながら溜め息をつく。別に窓の外に何があるわけではなく(だって学校の窓だし。観光名所のなんとかタワーなら窓の景色はさぞ美しいだろうが)、単に学校の廊下に見るべきものがなく僕の視線を収める先として窓の外を選んだだけだ。こんなに脆弱な動機なら目を瞑っていた方がマシだろうか。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
 僕が何かをしようとするとこうしてほぼ十割に近い確率で裏目に出る。女の子の声と甘い香りに驚いてすぐに目を開けて振り向くと、そこには女生徒会長、美潮みしお 渚紗なぎさが立っていた。
「大丈夫? えーと、石坂くんだったっけ?」
 念のため断っておけば僕の名前は石坂ではなく石岬だ。そして僕の記憶力が間違っていなければ彼女は二年生、つまり僕の先輩だ。
「いや、別に気分が悪いとか死にたくなったとか呪いで目が開かなくなったとかそういうことはないです。どうしてそう思ったんですか?」
「だって目を瞑ってうなだれてたから……」
「あれはああいう健康法なんですよ。頭の部分を下に向けることで脳への血液の量が一時的に増加し、目を瞑って自然に耳を傾けることで大気のイドを体の内に取り込むことができるのです」
「へー、そうなんだ。今度わたしも試してみようかしら」
「…………」
 冗談のつもりで言ったことが後に引けなくなってしまった。
 ほのかに茶色の混じった校則違反スレスレの長い髪。半ばから微かにかかったウェーブのラインがたまらなく色っぽい。形の良い胸元の膨らみと綺麗な瞳、整った顔、汚れのない白い肌――と凝視しているとさすがに訝しがられた。
 そういえば二年生の美潮渚紗先輩がどうして一年教室前廊下にいるのだろう。もしかして僕に会いに来たのかそんなわけはない。そもそも僕は美潮先輩の顔と名前を知っているが僕の顔と名前を美潮先輩が知る機会なんてなかったはずだ。いや、それならなんで彼女は僕のことを『石坂』なんて間違ってるけどそれほど的外れじゃない名前で呼んだのだろう。
 えーと、とりあえず保留。またの名を思考放棄。いやー、美潮先輩は美人だなぁ。良いにおいだなぁ。くんかくんか。
「ふーん。なんか想像してたのとちょっと違うかな」
「はい?」
「えーと、石森くん? 石檻くん? ごめん、名前忘れちゃった」
「そうですか」
「石渡くんって何か部活はやってる?」
「いや、帰宅する部をやってますが……」
 ていうかあんた絶対わざと間違えてるだろ。
 でも何故だろう。美潮先輩を敵に回すようなことをした覚えはないんだけど……。むしろどうして一度も顔を会わせたことがない人物を敵に回すことができようか。
 石岬家と美潮家は古くから対立し、お互いに憎み合っていて、それが理由で美潮先輩は僕のことを毛嫌いしているのだ。しかしいつしか二人の間に愛が芽生え、お互いの家を捨てて二人はどこかに旅立つのであった。完。というのなら悪くないのだが、あいにく僕の実家は敵に回したところで三日で潰れるような由緒も歴史もない家柄なのである。
「まあいいや。ほら、これ」
 美潮先輩はそれほど僕に執着があるわけではないらしい。白い封筒を僕に手渡すとさっさとどこかに行ってしまった。そちらを見ると、階段に続く廊下の曲がり角から背が高い眼つきの悪い美女が、僕の方を睨みながら美潮先輩を迎えていた。美潮先輩は男子だけではなく女子にも人気があるのだ。妙な勘違いをされて嫉妬の矛先になったらたまったもんじゃない。
 ていうかこの封筒は何だ(気付くのが遅いぞ僕)。
 それにしてもやっぱり美潮先輩は僕のことを嫌っているんじゃなくて単にどうでもいいと思っているのね。嫌われたわけではなかったことのほっと胸を撫で下ろす、せきをしても一人の僕。……いや、どうでもいい存在よりもまだ嫌われていた方がマシかもしれない。ってこういうことを考えるやつがストーカーになったりするんだ。危ない危ない。
「いやいや問題はこの封筒だろ」
 この封筒が何なのか今一度問い質したかったけれど、美潮先輩ともうひとりの背の高い眼つきの悪い美女はもう自分の教室に戻ったらしく姿はなかった。
 封筒には何も書かれていない。裏も表も真っ白だ。封は糊で閉じられている。ここで破いて中を見ても良かったけれどはさみを使って正確に開ける方が良いかも知れない。もしかしたら中身は美潮先輩のラブレターかもしれないのだ。
 ……ラブレターよりも請求書とか召喚状の可能性の方が高そうだけど。
 その時点でチャイムが鳴ってしまったので僕は教室の中に戻った。教室に足を踏み入れると同時に利川からの強烈なセクハラ、いわゆる生殺し攻撃を喰らってしまい、僕の頭の中は封筒どころじゃなくなっていた。妨害をかいくぐって自分の席に辿り着き、ていうかクラスメイトたちの生暖かい下世話な視線が痛い、とりあえず封筒は自分の机の中に仕舞っておくことにする。
 利川のことを言い訳にするつもりはさらさらないのだけれど、とにかく、僕は美潮先輩からもらった封筒のことをその日の放課後までついに思い出すことがなかったのだ。それが僕の犯した最初の過ちとなったのである。



「よしよし、いいか石岬、ここに一本の箒があるだろう」
「そうだね。確かに一本の箒があるね」
「一本の箒はこのように」破壊音。膝を使って真っ二つに叩き割った。「簡単に折ることができる」
「……足、痛くない?」
「しかし箒が二本なら」ロッカーから別の箒を二本取り出して、それを束ねて再び膝にぶつける。「このように、そう簡単には折ることができない」
「膝、大丈夫? 保健室連れて行こうか」
「俺が言いたかったのは、つまり一人ならたやすく折れてしまう優柔不断なやつも、二人集まればそう簡単に折れたりしない頑固な集団になるということだ。これはどういうことかと言うと、ある個人の気質がいくら気弱でも、それが集団になるとたちまち極端な行動や方向性を持ってしまうということだ。集団心理とか群集の心理というやつだな。つまり――」
「集団戦法には気をつけろ?」
「うむ。戦いにおいて勝敗を左右するもっとも重要な要素は数だ。数が多い方が勝つ。だから石岬、なるべく多くの味方を作ることだ」
「僕からも説法していい?」
「いいぞ。説法、説教の類は歓迎だ」
「さっきからきみの後ろに担任の藤谷ふじたに先生が立ってるよ」
 クラスの中でも一、二を争う変わり者、浅間あさま ひろしは彼が望んだ通り藤谷先生から説教を受けていた。どうやら学校の備品を目の前で破壊したのが彼女の逆鱗に触れたらしい。見るからに不良そして校則違反の金髪とピアスの浅間が気弱そうな主婦という外見の藤谷先生に叱られている様は失笑を誘うものだった。もちろん笑わなかったけど。今あの二人に関わるとこちらにもとばっちりが来そうだ。というわけで先生が僕の存在に気がつかないうちにフェードアウトする。
 今は掃除の時間なのだ。浅間弘がいかに変人と言えども授業中に突然箒を叩き割る蛮行に出るわけではない。掃除の時間中に箒を叩き割るのも十分に蛮行だが。
 僕らは教室の掃除を担当している。できれば浅間と一緒に掃除なんてしたくはないのだけれど班が同じだから仕方がない。『い』しさきと『あ』さまなので五十音順に班分けした場合はどうしてもこいつと一緒になる可能性が高くなる。まあそんなことはどうでもいか。
 小学校からの伝統として教室を掃除する際には机を前に移動したり後ろに移動したりしながら床を掃除してゆく。別に掃除好きではなかったけれど藤谷先生に目を付けられてまで掃除をサボる気にはならなかったので真面目に一労働力として机の移動に協力する。僕みたいな事なかれ主義が何百人集まっても浅間の言うようなことにはならない気がするのだが、はたしてどうか。
 そうやって身も蓋もない考察をしながら机を移動していると、とある机を移動しているときに机の中身が飛び出してしまった。おいおい誰の机だよ怒られたらどうしようていうかもうちょっと整理しておけよああこれ明らかに私物じゃないか白い封筒……? よく見たら僕の机だった。怒られる心配はなくなったが僕の怒りの矛先も同時に消滅した。
 そんなことよりも封筒だった。五時間目の英語の小テストが気がかりですっかり忘れていた。とりあえず床に散らばった僕の教科書とノートと辞書を机の中に戻し、だけど封筒の方は忘れるといけないのでポケットの中に突っ込んでおくことにした。
「おーい恋十郎やーい」
 掃除も佳境に入ったころ、教室の入り口でこちらを呼ぶ利川の声。確か利川の班は今週は調理室の掃除を仰せつかっていたはずだ。水場のある掃除場所は大抵ハードでしかも時間がかかるのが常なのだがもう終わったのだろうか。でもいくら自分たちの掃除が終わったからといってこちらの掃除を邪魔されてはかなわないと無視し続けていたら、
「おーいおーい、れんじゅーろーう。無視するにゃー」
 無視しつつ箒で床を掃く。浅間はすでに担任教師からの説教を終えているらしい。というよりは藤谷先生が諦めたのだろう。馬鹿につける薬はいくらでもあるが、変人に聞かせる説教などこの世には存在しない。
「無視すると引っ掻くぜーい」
 相手をして引っ掻かれるよりも無視して引っ掻かれた方が僕のプライドを保てるので無視。僕と同じ他の班の男たちが羨ましそうに僕らのやりとり(僕からは一切のコミュニケーションを閉ざしているのだからこれはやりとりではないと思うが)を眺めているが、羨ましそうに見るだけで僕と役割を代わろうとする勇気のある男は未だに現れない。
「返事してくれたら彼女紹介したげるよー」
「…………っ!」
 それは――。
 それは魅力的過ぎる提案。思わず相手をしそうになる、というよりも驚きのあまり声を上げそうになった。
 が、冷静になって考えてみると、利川頼子がまともな彼女を紹介してくれるはずがない。いやまともじゃない彼女ならまだマシで、そもそも彼女じゃない、『彼女』という二文字のどちらかが決定的に違っていて、例えばメスのドーベルマンとかダッチワイフなどを彼女として渡される可能性がある。普通ならそんな可能性までは考慮しないが相手が利川頼子ならばそれも十分に検討しなければならない。
 というわけで無視。
「えー、恋十郎冷たいー」
「…………」
「んじゃ、こんなのどう? 相手してくれたら一日デートしてあげる」
「…………」
「一緒に映画見てー、レストラン行ってー、買い物してー、もちろん恋十郎のおごりね」
「…………」
「別れ際にキスしてあげる」
「ほんとだな? それは嘘じゃないな? 確かに言ったな? 天地神明に賭けて本当にするんだな?」
「いや、なんで恋十郎そんなに必死になってるの?」
 利川は軽く退いていた。しまった、僕の秘めたる思いが駄々漏れしてしまった。青春の水漏れ事故である。
 幸いにも掃除が終わったので利川の相手をする。藤谷先生は僕と利川のやりとりを微笑ましそうに見ていたが、そのことが僕をいたたまれない気持ちにした。自分がいじめられているというサインを出しているのにそれがなかなか担任教師に伝わらないいじめられっこの心境である。というか冷静に自分を振り返ってみると、それは比喩ではなくて僕の状況そのものであった。
「利川、お前掃除はどうなったんだよ」
「私に掃除なんてないのだ」
「さぼったのかよ」
 さぼるなよ。
「いけませんよ利川さん。班の人に迷惑をかけちゃだめですよ」
「はーい」
 耳ざとく聞きつけた藤谷先生がたしなめると、利川は小学生のような素直な返事を返した。今時珍しい素直な女子高生だ。できればその素直さの切れ端でも、僕に見せてもらいたいところだ。
 もしかしたら利川はとことん僕にとっての天敵なのかもしれない。
 なぜなら、掃除終了を待たずにやって来た利川のせいで僕はまたしても封筒のことを失念してしまったのである。ポケットの中に入れた白い封筒。
 それに再び思いを馳せたのは、利川がさんざん僕で遊んで(僕と、ではない)、自分の鞄を持って教室を出て行った後だった。利川は僕のことをペットのオウム以上には思っていないので、彼女には僕と一緒に並んで下校するという発想はない。
 ああ、やっと今日が終わったんだな、これで後は帰って寝るだけだ、それが僕ら帰宅部の仕事――なんてくだらない戯言を漏らしながら席につき、ポケットに違和感を感じたところで白い封筒のことが再び僕の記憶領域から呼び出されてきたのだった。
 とりあえずはさみを使って丁寧に開ける。『馬鹿とはさみは使いよう』というが馬鹿とはさみじゃ何もかもが違うと思う。馬鹿を使ってマイナスになることはあってもはさみを使ってマイナスになることはそうめったにあるもんじゃない。はさみ最高。
 白い封筒の中には折り畳まれた白い便箋。どうやら手紙のようだ。
 丁寧に三つ折にされたそれを広げると、真っ先に目に飛び込んできた文字が『好きです』だった。
 それからの数分、僕はこれまでの人生でもっとも真剣に文章を読んだ。おそらくこれからも、今以上に真剣に一心不乱にこの世の全てを忘却してただただ文字を読むという行為に没頭することは絶対にないだろうと確信できる。
 手紙はラブレターだった。
 ラブレター!
 と同時に僕の中の回路が警告を告げる。これまでの人生で形成された経験則というやつだ。誰かの悪戯の可能性はないか、ていうかこれ利川が書いたやつじゃないのか、差出人は本当に女かマッチョな男からの愛の告白じゃないよな、これを書いた子は美人かな、などなど。
 封筒には何も書かれていなかったが中身にはちゃんと署名がしてあった。
 仲宮なかみやゆう――。
 なかみや、なかみや、と口の中で三度呟いて、その苗字に心当たりがまったくないことを確認した。ということは彼女は僕に一目ぼれしたのだろうか。いやいや、そんな馬鹿な。それを否定する材料はまったくないけど、そんな馬鹿な。
 綺麗な可愛らしい字で、文面は決して美辞麗句を連ねたものではなく、気弱な文学少女が一晩賭けてゆっくり考えた末、出そうか出さないでおこうか、ああ駄目、あの人に渡す勇気がない、そうだ生徒会長の美潮さんに代わりに出していただこうかしら――というのは完全に僕の想像だったが、文章の運びや文字の書き方、何度も書き直した跡から、この手紙の差出人がこの手のことに非常に疎い人間だということが推察できる。
 文面を見てみる。 
 とりあえず導入部は省略。いつもあなたのことを見ています(どこで見られたんだろう)。あなたのことを考えると胸が速鐘のように高鳴ります(正しくは『早鐘』な)。以下ずらずらと文章が続くが中略。もしよかったらお返事を聞かせてください(よくなかったら返事しなくてもいいのか?)。昼休み、学校の裏の公園で待っています。仲宮ゆう。
「なるほど、つまりこの子は僕の返事を待って学校の裏の公園で待っているのか。今時珍しいシャイで一途な子だな。これで美人なら最高なんだけど、実物を拝むまでは何とも――って昼休み?」
 今は昼休みか? NO、今は放課後である。
 僕は最近かいたことのない類の汗を書いた。冒険をせず、成功を犠牲にして、とにかく失敗をせずに生きてきた僕の久しぶりの経験、後悔というやつだった。
 気がついたときには僕は手紙を握り締めて教室を飛び出していた。



 公園とは名ばかりの原っぱである。遊具やベンチなどの設備は一切なし。青々と茂った芝生がいっそ男らしい。原っぱと言っても小さな丘のようになっていて、面積もそれほどないので運動部の練習用地として使われることは滅多にない。学校の生徒のほとんどはこの場所の存在を知っているが、実際にこの場所を利用したことのある人間はごく少数である。
 僕も、ここを利用するのはこれが初めてだった。
 普段は無人の芝生の上に制服の女の子が立っているのが見えた。他に人影はないので彼女が仲宮ゆうさんだろうか。こちらに背を向けているので顔は分からない。ハリガネみたいなショートカット。まるでそこだけぽっかりと穴が開いているみたいに黒い髪だった。そして気のせいでなければ、あれ? とっても背が高い。
 恐る恐る近づく。芝生なので足音はしない。が彼女は僕の予想以上に聴覚の優れた人だったらしい。射程距離の十メートルに近づく前にこちらに振り向いた。
 そのときの驚愕をどのようにして表現すればいいのだろう。
 なんと彼女はのっぺらぼうだった。顔がないのである。……という方がまだマシだった。なぜならのっぺらぼうは僕の想像する限り無害だからである。
 昼間、美潮先輩と一緒に一年の廊下に来ていて、しかも僕を睨みつけた目付きの鋭いあの美女である。
 あの長身、鋭い眼光、仮面のような無表情。
 僕の記憶の中にあるそのどれもが目の前の女性のものと一致し、そして彼女は僕のことを睨みつけているのだった。
 まさか彼女が仲宮ゆうというわけではあるまい。約束は昼休みだし、放課後の今までずっと待っているというのはあり得ない。仲宮ゆうの告白を受けているくせに返事もしない不届き者を成敗するために現れた代理人、という説が濃厚かも。という自分の想像に身を竦ませた。恐ろしい。改めて見てみると正義感の強そうな顔だ。
 彼女は僕のほうに近づく。そのまますれ違ってくれるとありがたかったが残念なことに僕の目の前で立ち止まった。どうやら僕に用があるらしい。
 僕は背が低い。一年生が身長順に並べば僕はかなり後方に並ばざるを得ない。そして彼女はまるでバレーの選手のように(恐怖を紛らわすためになるべく穏便な比喩を用いた。ここで、例えば『レディースのヘッドのように』などという表現を使ってしまうと僕は恐慌状態に陥る危険がある)背が高い。その彼女が見下ろすようにして僕を睨みつけていた。
 しかしここで逃げ出すのはそちらの方が危険だ。背中を向けた瞬間に刃物で刺されるかビール瓶で頭を殴られる可能性がある(見た限り彼女は空手のようだが)。
「あの――」
「石岬」
 謝って土下座すれば許してくれるかなぁ、なんてことを考えて話しかけようとしたら、僕の言葉を遮って彼女が言った。イシサキ、ってのは僕の苗字だ。
 あれれ、気のせいかもしれないけど、この人、ものすごく緊張してるんだけど。緊張していると言うか、怯えていると言うか。僕の名前を呼んだだけで真っ赤になってかすかに震えていた。震えていてもなお僕を睨みつけていた。まるで僕が悪いことをしたみたいに。
「あの……返事」
 返事? と僕は鸚鵡返しした。僕より怯えている人間を目の当たりにして多少の余裕が出来ていた。これはどういう精神の作用なのだろうか。自分がしっかりしなくては、という父性とか男気の類だろうか。そんなものが僕にあるとは意外である。
「返事、聞きたいんだが……あの……手紙……」
 そのとき僕の中に衝撃は走らなかった。ほんの数パーセントの可能性としてそのことを考えなかったわけじゃない。
 彼女の名前は仲宮ゆう。
 僕を殴りに来たんじゃなくて、僕に愛の告白をしに来た――僕の心を殴りに来たのだ。
「あの! 昼休みに来られなくてごめんなさい! いや、もしかしてもしかすると、えーと……」
「ずっと待ってた」
「ご、ごめんなさい……」
「待ってた」
 彼女は非難するような目で僕のことを見て、非難するようなことを言った。明らかに非難されていた。
「いや、ていうか、なんで昼休みなんですか? 昼食はどうしたんです?」
「……食べてない。だが、その……すぐに返事、聞きたかったんだ」
「は? ……ていうか、もしかして昼休みからここにいるんですか?」
 仲宮さんは頷いた。僕は今度こそ驚愕した。つまり五時間目と六時間目の授業プラス掃除もさぼってここでずっと僕を待っていたのだ。なんなんだこの子は。不思議系か。不思議系なのか。いや、彼女をさぼらせた僕が一方的に悪いんだけど。普通あんな手紙を受け取ったらすぐにその場で開けるだろうし。
 僕と話すことがそんなに恥ずかしいのか、少し沈黙が続くと彼女は赤くなって目をそらした。正直言って彼女の三白眼が未だに怖いのでそうしてくれるとありがたいが、このこそばゆい空気はどうにかならないのか。
「その、仲宮さん?」
「……っ!」
 改めて名前を呼ぶと仲宮さんは表情を引き締める。まるで軍人のように姿勢を正した。そして顔は真っ赤だった。しかも緊張で震えている。ガタガタガタ。
 特に何かを言おうとしていたわけではなくて会話の導入部として相手の名前を呼び上げただけのつもりが彼女はそれ以上のものを感じ取ったらしい。つまり、この空気って。
 付き合うのか付き合わないのか、今すぐここで決めろと。
 『あの、僕、仲宮さんのことよく知らないし、友達から始めませんか?』なんて当たり障りのない返事を考えていた僕はこの時点でもう何も策がなくなってしまった。おいおい、そんな曖昧な返事で誤魔化せる雰囲気じゃねえぞこれ。しかも彼女は恋する乙女、恋する乙女がキレたら何をしでかすのか分からないということは僕は十分に学習済みだった。というのは嘘で、ただの偏見だったけど。
 僕には仲宮さんに負い目があった。昼休みから今までずっとここで待たせていたのだ。幸いにも空は突き抜けるような青、暑いくらいの太陽、萌える芝生。これで雨でも降ってたら取り返しのつかないことになっていただろう。いや、さすがに仲宮さんでも雨が降っていたら傘を差すだろう。……差すよな?
 状況のせいかもしれないし、そういう負い目とか責任感みたいなのが僕の精神を狂わせたのかもしれない。後から思えばこのときの僕は明らかに理性が働いていなかった。衝動で行動していた、というわけじゃなくて、状況に流されるまま、そうあるべき場所に向かっていたのだ。
 そうあれかし。
「仲宮さん。――付き合いましょう、僕たち」
 ああ、くそう。やっちまったなぁ、僕。



 その日僕たちは二人で一緒に帰った。背の高い仲宮さんと並んで歩くことは背の低い高校生男子にとって非常に屈辱的なことだったけどそのときの僕はそれどころじゃなかった。まるで恋人のように歩く二人。いや、真実恋人なんですけどね。
 仲宮さんは二年生だった。つまり仲宮先輩だったのだ。そして生徒会の書記。生徒会長の美潮先輩をメッセンジャーに使うとは恐れ多いが、そんな彼女を三時間以上待たせた僕も十分に恐れ多い。
 あの告白のとき、仲宮さんが僕のことを睨みつけていると思っていたのはどうやら誤解だったらしい。あの表情がデフォルトだったのだ。そのことが帰り道の数分間を一緒に話していて十分すぎるくらいに証明された。ずーっと睨みつけられていると思っていたら、どうやら好きな人と話していて力が入っていたらしい。だからって眼に力を入れなくても。
「その、仲宮先輩は――えと、仲宮さんは」
 彼女が悲しそうな表情で僕を睨むので呼び方を改める。どうでもいいが美人に睨まれるってのもそう悪くないかもしれない。僕の中で新たな性質が目覚めつつあった。
「どこで僕のことを知ったんですか?」
「……石岬の?」
「はい。どうして好きになったんだろうな、って」
 彼女の顔が真っ赤になった。あのそのえーと、と口の中でごにょごにょと言葉が詰まっていた。見た目がクールビューティーというか、日本刀でも携えていそうな凛とした雰囲気を持っているだけにその破壊力は絶大だった。僕は大ダメージを受けて撃沈した。つまりその、一瞬だけドキっとしてしまった。
 いちいち大げさなリアクションの仲宮さんと違って僕は至って冷静だった。何せ仲宮さんは僕のことを知って、少なくとも惚れて告白してしまうくらいには知っているようだが僕は今日の休み時間に初めて彼女の姿を見たのである。まあ見た目が美人なので並んで歩いていて何も思うことがない、というのは嘘になるけど。
「石岬は、部活はやらないのか?」
「やらないし、やってないです」
「生徒会」
「はあ」
「生徒会は、楽しい」
「それはよかったですね」
 わざと伝わっていない振りをした。もしかして僕を生徒会に誘っているのか、と思ったが、もしかしなくてもその通りだったらしい。
「生徒会って何をするんですか?」
「お金の計算とか……あと、渚紗と遊ぶ」
「それは楽しそうですね」
「ああ。渚紗はいい子だ」
 幸せそうに言った。
 いいなぁ。幸せそうだなぁ。毎日が楽しそうだなぁ。決して馬鹿にして言っているわけじゃないですよ?
 仲宮さんはぶっきらぼうに喋る人だった。だから手紙なのか、あれは伏線だったのか、と今になってやっと気付く。口下手なだけならまだしも思考回路がかなり特殊なので彼女との会話には洞察力が必要である。
 家に帰って僕がまずしたことは今日の出来事を日記に書き留めることではなくて利川の携帯電話に電話を掛けることだった。ちなみに僕は携帯電話を持っていない。なぜなら僕は携帯電話以前に友達を持っていないからだ。それはさておき。
 四回目のコールの途中で出た。利川にしては早い。
「うぃっす」
「うぃっす。利川、ちょっといいか」
「恋十郎ならいつでもオッケイだよん」
「仲宮ゆうという人物について知っている限りのことを僕にレクチャーしてくれ」
「うぃ。仲宮先輩は二年生の生徒会副会長だよ」
「それくらいは知ってるよ。僕を侮るな」
「う。そいつは失礼しました」
 利川は珍しく素直に謝った。実のところ仲宮本人から申告されるまで僕はそのことすら知らなかったのだが、それは秘密にしておこう。
「すっごい美人だよねー。ファンがたくさんいるって話だよ。あと生徒会長の親友だってさ。幼稚園から一緒らしいよ。権力の美潮、人気の仲宮って言われてるね。言ってるの私だけど」
「人気なのか」
「なんか怒ると怖いらしいね。他校の不良がウチの校門で暴れてたとき、仲宮先輩がひと睨みしただけで退散したらしいよ。去年の話だけど」
 黙っていたら相当強そうに見えるからな、仲宮さん。
「そうか……。お前にしては有用な情報だったな。それじゃ」
「ちょいと待ち」
「どうした?」
「なんで急に仲宮先輩のことを? ていうか人にものを訊いておいてその態度は何ぞこら」
「あのな、利川」
「にゃんだこら」
「俺、仲宮さんと付き合うことになった。そいじゃ」
 リアクションを聞く前に受話器を置いた。ははは、いい気味だ。多分ノーリアクションだろうけど。仮にリアクションをしていたら明日復讐されるだろうけど。
 それにしても。僕は仲宮ゆうの存在に思いを馳せる。
 彼女がどうやら僕に惚れているらしいというのは疑いようのない事実として。彼女はあの美潮渚紗の親友でしかも生徒会書記。
 美潮渚紗といえば僕らの高校でもっとも権力を握っている生徒だ。噂によると現在は修学旅行など校内行事の立案計画運営はほとんどすべて生徒会が行っているらしい。
 教師たちもそういう面倒なことはなるべく他の誰かにやってもらいたいと思っているのだろうが、かと言って生徒会に任せたのは間違いなのではないかと僕は思う。おかげで生徒会の握っている権力が徐々に度を越え始めているのだ。職員会議にも顔を出している、という噂があるくらい。
 美潮先輩が生徒会選挙に出たのは今年の春、つまり二年に進級した直後。彼女の実家は高名な資産家で大財閥、という漫画みたいな設定があるはずもなく、美潮先輩は何のバックグラウンドも持たずに自分の才能と努力のみで今の地位を獲得したのである。強いて言うならカリスマ。彼女に命令されるだけで何でもしてしまうような忠実な部下がうちの高校に何人いることか。ちょっとした私設軍隊が作れるかもしれない。
 そんな生徒会に所属しているというだけではなく美潮渚紗の大親友だという仲宮ゆう。おまけに彼女自身にも絶大な人気があるらしい。そんな女性が僕に惚れている。しかもかなりの美女。
 悪くない、と思った。 
 それは下心というよりは野望だった。
 僕の、支配から逃れるための戦い。好機到来。この学校でもっとも自由な組織のもっとも自由な人間にもっとも近い仲宮ゆうが僕に惚れているのだ。僕の支配下にある。
 仲宮ゆうは僕の最初の駒になったのだ。
 駒を手に入れた僕は、これでやっとゲームを始めることが出来る。
 どこかの誰かとの、僕の自由を賭けた勝負だ。
 彼女のすべてを利用して、僕は支配から解放される。
 まずは最初の一手。仲宮ゆうという駒をいかに使うか。決まっているそんなことは。僕はその日の夕食を食べる前に、すでに生徒会に入る決意を固めていたのだった。
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